先週は映画づいていた週だった。
Facebookで誰かがシェアしていて「観たいな」と思っていたのに、1度は忘れていた。そしたら母が「観てきたの。いい映画だった」と。思い出させてくれた。
銀鏡
神楽とは、多分、私が舞っている全てに繋がってはいるけれど、天麻那舞では分かりやすく種類を「女神舞」と「神楽」に分けて練習しているし、舞がある。
そして、四股などの身体使い含め、のせる(響かせる)エネルギーも、なんとなく私には捉えづらい「神楽」
だからこそ、その一端を知りたくて、感じたくて、映画を観たいと思っていた。
私は多分、ルーツの1つに「タタラ」というものがあり、おそらく大地と繋がり地鎮として舞っていたと思うけれど、今世、生まれた土地には「神楽」が根付いてはいないから、捉えづらい感覚ってあるんだと思う。
神楽が根付く土地に生まれた人には、DNAに息づいているリズムとか、エナジーとかあるんだろうと思う。だから今年は、天麻那舞の合宿は、そういう地に行って、受け取りたいものがある。ウツシをうける。
私の人生は、本当に「舞いたい」という気持ちに紐づいているんだなぁと最近思う。
「舞いたい」だから、身体を整えたい。
「舞いたい」だから、感じたい世界がある。
* * *
映画ね。
きっとバックボーンによって、響くところは違うだろうけれど、私は、舞を奉納する場面の中の、御神面を宮司さまが見つめておられるシーンにグッときた。
古神道茶話会の時に、矢加部先生から教えてもらった大嘗祭の話も蘇った。
その器に靈が宿る。
それと、無心に舞う舞人(氏子さんたち)の中に、呼び起こされてくる神々との一体感というのだろうか。あんなに長い時間、舞続けたら、身体的には疲れてくるのだろうとは思うけれど、段々と増してくる神々との繋がり。「人間」ではなく、そこに神の働きを降ろしてくるような。依り代のような。
私も舞う時、依り代のように在る。そう感じました。
あとは、妙見信仰をもう一度深めてみようと思いました。今日もFacebookの投稿で見て「そうだよな」と感じたのは、貴くんが「曆のススメ 惑星編」を書いている中での気づきをシェアしてくれていたこと。
✩
『暦のススメ』
『暦のススメ月編』
と書いてきて
『暦のススメ惑星編』は
『暦のススメわたしたち編』じゃん!
となったのは、
執筆の大詰めの最終コーナーあたりでのこと。
だって、太陽はあそこにあるし、月はあそこにあるけど、、
惑星は、ここじゃん!
だから、惑星を語るってことは、わたしたちを語ること。
暦は、天文は、遠い話じゃないんだ。
俺たちのことなんだ。
俺たちの日々が、宇宙と響き合っていて、
宇宙の美しさも、魔術的なところも、怪しいところも、
不可解なところも、全部、俺達の日々と響き合っている。
このハートビートは、宇宙の存在たちと響き合っている。
孤立した存在は一つもない。
✩
星へ祈り、繋がるということは、つまり私たちが、大いなるものと1つだということを思い出すこと。
だから、空を見上げず、自然を感じず、星へ祈らずの毎日を繰り返しているだけになると、人々は、繋がりを失い、一体わたしは何なのか。。と、存在が分からなくなってしまうんじゃないかな。
* * *
私は、地球暦という素晴らしい羅針盤も携帯している。星々と同期して、その中で生き、舞手としての在り方を見つめることに改めて深い気づきをいただけた。
いい映画だった。