第3日:2月22日(水)
朝6時半に朝食をとり、終了後出発する。
今日は奈良市の南にある飛鳥地区(明日香村)に行く。
JR奈良駅から昨日利用したJR大和路線に乗り、一つ目の郡山駅で降りる。
そこから10数分ほど狭い商店街を通って、近鉄郡山駅まで歩いた。
そこで近鉄橿原線に乗る。
奈良市近くはベッドダウンになっているせいか、小さな駅が多い。電車は快速のため、市主要な駅だけに止まり、飛鳥駅で降りた。小さな駅である。奈良駅から1時間ほどで着いた。
観光客の姿が見られない。
駅の隣にある総合案内所「飛鳥びとの館」で観光マップを手にする。
今日は自転車で飛鳥路を巡る。妻が下調べして来た「明日香レンタサイクル」は駅近くにあった。
オープンは9時からなのだが、シャッターは開いていた。年配の男性係員の方が親切で、「巡る予定の史跡がある所は起伏が多いので、電動自転車の方が楽だよ」とアドバイスしてくれた。
まず、高松塚古墳に行く。駅前にある案内地図で確かめる。駅から10分ほどの距離だ。
高松塚古墳一帯は国営飛鳥歴史公園に指定されている。意外と近い。
古墳の史跡は県道209から外れた丘の上にある。アップダウンの道を走りながら、電動自転車を借りて正解だと思った。係員の方に感謝する。
高松塚壁画館に自転車を止め、坂道を上って古墳に着く。
小さな円墳である。周囲は里山の景色が広がっている。管理されているため芝生に覆われている。この中で史料価値が高い壁画が発見されたと思うと、感慨深い。
その後、壁画館に寄り、見学する。
高松塚の内部や壁画の様子がよく分かった。写真撮影もおおむね可能である。太っ腹な館である。
近くの文武天皇陵にも足を運ぶことにした。元々は古墳である。しかし古墳時代に見られた大きな古墳ではない。彼は天武・持統天皇の孫であるが、仏教が定着した飛鳥時代後期(白鳳文化)には大きな古墳は作られなくなっていた。
その天武・持統天皇の御陵に向かう。県道209を北東の方へ進む。上り坂が多いが、電動自転車なので苦にならない。高齢者には持ってこいのツールである。
500mほど進むと左側に看板が立っていた。小高い丘(元々は古墳)の中腹にある。
天武・持統天皇が個人的に好きだった。彼らが活躍した飛鳥時代に深い関心があった。それゆえ昨日今日の計画を立てたのである。
歴史の本を読んで学んだことは以下の通りである。
飛鳥時代に仏教が伝来した。
聖徳太子と推古天皇の政治は飛鳥地区で行われた。飛鳥は藤原京に移るまで約百数十年政治の中心地であった。
前期は天皇家と、蘇我氏を代表する豪族連合との間の権力闘争だった。
大化の改新で蘇我氏を倒すと、天皇中心の政治が復活した。
天皇という名称は天武時代に用いられた。それまでは大王(おおきみ)だった。
飛鳥時代の天皇家の結婚は近親結婚だった。たとえば、天武と持統は叔父・姪の関係で、持統は天智天皇の娘であり、天智・天武は同腹の兄弟である。
ただ近親結婚でも、同腹の兄妹・姉弟の結婚はタブーとされていた。異腹は許容されていた。現代からみると信じられない形態だった。
近親結婚が多いため権力争いは陰惨を極めた。親子、兄弟、血族間で骨肉の争いが行われた。
一夫多妻制だが、皇后になる夫人の出自は天皇家の血を引いているのが原則だった。豪族の力の伸長を防ぐ意図もあった。
天皇の後継ぎも子どもより兄弟が優先された。それなのに天智天皇は息子大友皇子に譲ろうとしたので壬申の乱を招いた。豪族たちは弟の天武に味方したこと、大友皇子の母の出は身分の低い豪族だったこともあって天武が勝利した。
皇子が幼い場合、中継ぎとして皇后が天皇になることがあった。
持統天皇は天皇として初めて火葬された。
こういうことを考えながら史跡を見ると楽しい。
続いて石舞台を目指す。
天気がよく、2月末だというのに寒くない。風が気持ちいい。サイクリングには絶好の日和だ。サイクリングを計画してくれた妻の先見の明に感謝。
右に橘寺の入口が見えた。ここは聖徳太子誕生の地である。
左には飛鳥四大寺の一つの川原寺の跡地も見える。現在はその一角に弘福寺(ぐふくじ)が建っている。
石舞台へ通じる道が分からなくなったので停止し、近くにいた男性にたずねると、地元の方なので懇切丁寧に教えてくれた。
明日香村役場の前を通り、石舞台に到着。駐輪場に止め、中に入る。
ここは蘇我馬子の墓とされる。元来古墳だったらしいが、封土が失われ、石室が露呈した。高台のような平地にぽつんとあるのですごく目立つ。
このような巨石で天井を作った当時の人々の労苦を思っているうち、手塚治虫の『火の鳥・ヤマト編』を思い出した。確か最終部で建造に駆り出された少年が石室から出られなくなり無念の死を遂げる内容だったと思う。大学時代に私は行きつけの定食屋で本作を目にした。
手塚のストーリーの独創性と明確な主題と魅力的な画像に舌を巻いたことを覚えている。
中に入る。
すき間から漏れる光で意外と明るい。天気がよくてよかった。
続いて来た道を戻り、明日香村の中心に入り、昔のメインストリートらしい、電線地中化された小路を抜ける。
飛鳥宮跡(伝飛鳥板葺宮跡)はすぐそこだ。
ここ一帯は平地である。現在ほとんどが田畑である。近くに大きいとは言えない飛鳥川が走っている。
『日本の歴史』に書いてあったが、飛鳥に来ると人は心が休むと言う。それはここから仏教が広まったからだろう。そして日本の原風景というべき里山や田園が残っているからだろう。
この一帯は気候が温暖なのだろう。盆地のようだが、完全な盆地ではない。けっこう平地は広い。川はあるが洪水の心配はない。立地条件に恵まれているのだ。
だから宮が作られた。ただ、名称にあるように屋根は板葺きである。宮殿で瓦が用いられたのは7世紀末に造営された藤原宮が最初である。
6世紀半ばから約150年続いた飛鳥時代、天皇が変わる度に宮は、一辺が2kmに満たない飛鳥のエリアを何度も引っ越した。その中で何度も宮が建てられたのがこの場所である。乙巳の変(大化の改新)で蘇我入鹿が殺されたのもここである。
宮跡に立つ。
人はいない。遠くに山や丘が連なっている。日は高く、暖かく、風がそよぐ。今はのどかなこの場所で大昔、血なまぐさい戦いが繰り広げられ、歴史が回転したのかと万感胸に迫った。
推古天皇、聖徳太子、中大兄皇子、中臣鎌足、天武天皇などの姿が脳裏にちらつく。
続いて飛鳥寺に向かう。ここも目と鼻の先だ。途中万葉文化館があったので立ち寄る。
県の施設で主に万葉集を中心とした飛鳥文化を展示していたが、一般観光客向きの施設であった。すごい広さで、様々なコーナー(おみやげ、飲食も含め)もあった。ただ、私のようなちょっと歴史に詳しい者にとっては物足りない。巡る場所がたくさんあったので早々と引き上げた。
飛鳥寺は近かった。今は小さな寺だが、創建時は20倍の広さで、五重塔、金堂を始めとする様々な堂宇がある壮大な伽藍だった。蘇我馬子が586年に発願し、推古天皇が596年に創建された。なお日本で最初の寺である。また、屋根に瓦を用いた最初の寺でもある。
(本堂)
最初は法興寺と言った。それから飛鳥寺になった。当時は名称が度々変わったらしい。なお、平城京遷都と共に移り、平城京では元興寺(がんこうじ)になった。ただ、この場所にあるオリジナル飛鳥寺も生き残ったが、荒廃し江戸時代の終わりに再建された。ただしその規模は縮小した。
ここで有名なのが飛鳥大仏である。
これは鞍作鳥が作った日本最古の仏像であるが、何度も罹災し、大々的に補修されたらしい。そのため国宝ではなく、重要文化財にとどめられている。
ここの住職さんは寛容で、写真撮影を許可していた。
続いて飛鳥寺の後方に佇む甘樫丘(あまかしのおか)に向かう。
5分くらいで行けた。麓にある駐輪場に止めた。
なお、寄らなかったが、北西数百メートル先には推古天皇が即位した豊浦宮跡(現向原寺)があった。聖徳太子は20キロ離れた斑鳩の地に斑鳩宮を建てて以来この宮まで通ったらしい。
丘の展望台から大和三山が見えると言うので、上ることにした。
左に畝傍山、北に耳成山、北東に香具山が見える。畝傍山が一番大きい。形がいいのは耳成山。山というより丘に近く樹林で覆われている香具山。一番近くにあるのも香具山。
(後ろに見えるのは畝傍山)
(左後ろが耳成山。右後ろに見える〔枝がかかっている〕のが香具山)
香具山を見ていると、百人一首に載っていた持統天皇の歌「はるすぎて なつきにけらし しろたえの ころもほすてふ あまのかぐやま」を思い出す。
今度は県道214を使い、雷(いかずち)という交差点で右に折れ、丘から1キロ離れている飛鳥資料館に行くことにした。ここは独立行政法人奈良文化財研究所の建物で、研究施設でもある。
ここの展示は充実していた。万葉の館と大違いで、学術的に優れた資料が展示されていた。飛鳥時代に興味がある人はぜひここを訪れるとよい。私ももう一度来たいと思った。
続いて今日最後の訪問地である藤原宮跡に向かう。
県道214を雷の交差点まで戻り、そこを右に曲がり北上する。この交差点の名前は近くにある雷丘(いかづちのおか)にちなんで付けたのだろう。この丘の周辺に小墾田宮(おはりだのみや)があったとされる。推古天皇は即位後、ここに宮を移し、聖徳太子と共に政治を行った。おなじみの十七条の憲法や冠位十二階制の制定、遣隋使の派遣などの重要事項はここで決められた。
1キロくらい進むと右に香具山が横たわっている。
高くないので丘の方が似つかわしいが、雑木で荒れ放題である。これでは持統天皇の歌が台無しである。歌われた情景が浮かんで来ない。
香具山を過ぎると、右に奈良文化財研究所都城発掘調査部藤原宮跡資料室という長い名の建物が見えた。藤原京に関する資料を展示しているのでここに寄ることにした。
なかなか立派な建物である。
無料。職員が少ないため、出入りは自由。彼らは藤原京を調査している研究員なのだろうか。
ここの展示物にも驚いた。飛鳥資料館と同じく、資料が充実している。藤原京を知りたい人には持ってこいの場所である。飛鳥資料館同様、再訪したいと思った。
道を左に折れると、広い平地が現れた。何か所かに朱色の柱列が立っている。とても目立つ。藤原宮跡である。後で調べたら柱列は南門の跡を示していることが分かった。この辺りは飛鳥京の辺りより平地が広がっている。藤原京は唐の条坊制を取り入れた日本で最初の都城である。それにはかなりの平地が必要なのだ。
694年に持統天皇は飛鳥からこの地に宮を移した。
藤原京はなんと平城京や平安京より大きかった。位置は平城京の真南に当たる。ということは平城京は藤原京を北へそのまま移動して建造されたと言っていいのかもしれない。
また、宮の屋根はこれまで板葺きだったが、瓦が用いられた。
ここで持統天皇やその孫の文武天皇が政務を執り、藤原不比等が政治の表舞台に登場した。
ただ、藤原京の時代はたった16年だった。710年文武の次の元明天皇は都を平城京に移した。天皇が変わる度に新しい都が作られる。造営に駆り出された人民の労苦は大変だっただろう。いつの時代でも権力は人民に犠牲を強いる。
私は平城京を中心とした天平時代より、飛鳥京・藤原京を中心とした飛鳥時代に興味がある。仏教が伝来し、蘇我氏を始めとした豪族連合も台頭した。蘇我氏が倒されると天皇に権力が戻るが、藤原氏が隙をねらった。日本最初の歴史である『日本書紀』には不比等の影が濃い。
そんなことをこの広い跡地で考える。飛鳥宮跡で感じたように、歴史のはかなさを思う。諸行無常、生々流転、盛者必衰。かつて繁栄した都はただの平地。人が変われば、土地も変わる。風だけが同じだ。
今日の見学場所はこれで終わり。自転車を返す場所は橿原神宮駅前の営業所である。営業所がたくさんあるので便利だ。国道169に出、南下する。道は近鉄橿原線と並行している。ただ、交通量が多く、路側帯が狭いので大変だ。事故を起こさぬよう注意して運転。
営業所はすぐに見つからなかった。人に聞いて初めて分かった。今午後3時。6時間かけて飛鳥路を巡った。自分で言うのも変だが、70を過ぎている割には若いと思う。全然疲れない。楽々自転車を乗りこなした。
帰りは橿原神宮駅から乗った。近鉄郡山駅で降り、朝と反対にJR郡山駅まで歩き、大和路線に乗り換え奈良駅に戻って来た。
スタバでコーヒーブレイクをとった。
思えば3日連続ここに入り、私はフラペチーノばかり飲んだ。時間をつぶしてから奈良駅前にある「大阪王将」に入り、夕食をとった。
ホテルに戻り、風呂に入り、ベッドに横たわると、今日一日を振り返る。
今日は前日と違い、飛鳥及びその近辺を巡った。それも電動自転車で。
史跡の近辺が田園であることがよかった。規制がかかっているのか、村の中心部に高いマンションやビルがなかった。観光が収入源なのだろう。この景観は維持されなければならない。
このあまり広くない飛鳥の平地が政治の中心地であったことが不思議である。当時の政治は天皇と豪族の相関関係で成立していた。せめぎあったり、協力したり、親戚になったりして続いた。権力闘争は、近親結婚が当たり前の時代なので、内向きである。陰湿さが漂い、血生臭い。
ただ、中国や朝鮮との外交を発展させ、内治を充実させるのには、この地は狭すぎた。飛鳥川は小さすぎた。もっと大きな川がある場所が必要になったのだろう。平城京移転は必然だったのだろう。
飛鳥宮跡や藤原宮跡に立つと、平地という地形でなければ宮が誕生しないことを肌で感じた。
飛鳥時代を詳しく知りたい人にとって飛鳥資料館や藤原宮跡資料室は重要である。
第4日:2月23日(木)
朝食後、ホテルを出、荷物を奈良駅のコインロッカーにしまう。今にも雨が降りそうな天候である。
バスで県庁前に行き、近くにある奈良女子大に向かう。私の姪がかつてここに学んだので、寄ってみることにした。姪は小六の時に父を亡くした。彼が大病で入院していた頃、我が家で預かったことがあった。その彼女も今は30代後半になり、現在北海道に住んでいる。
続いて県庁前の大通りを渡り、興福寺を抜け、古典に出て来る猿沢池に着く。予想外に小さい。
そこから横丁を抜けて今日の目当ての元興寺(がんごうじ)に行く。飛鳥寺(法興寺)は平城京遷都に伴いここへ移り、元興寺に改められた。かつては大伽藍であったが、その面影はなく、小さな寺である。
(極楽堂〔本堂〕:国宝)
極楽堂は上がれた。お参りする。
この寺の最大の魅力は禅室や極楽堂に使われている瓦である。今も飛鳥寺の屋根瓦数千枚が使われている。前述した通り、飛鳥寺は屋根瓦が使われた最初の寺である。当時はそれだけ貴重品であった。だから平城京に移転した際にも運びこまれた。禅室や極楽堂が国宝に指定されている理由の一つになっている。
(禅室:国宝)
右端に極楽堂の一部が見える。瓦の色から察すると、禅室の屋根の右側と極楽堂の屋根が飛鳥寺の瓦だろう。
境内内に法輪館という建物がある。ここはミュージアムのような所で、寺に関する資料や仏像類がたくさん展示されている。
最後に近くにある奈良国立博物館に赴く。旧館は風格がある建物だが、今はここから入れない。
この裏にある新館から入る。東大寺二月堂の「お水取り」の企画展を行っていたが、常設展だけにする。
(このパンフレットは分かりやすかった)
ここに収蔵されている仏像や絵画などの仏教美術、仏典・古文書、工芸品、考古資料などの数は厖大らしい。公開されているのはその一部である。仏教関係の総本山といったところだ。
仏像類は主に旧館で展示されている。そこへは地下道でつながっている。
ただ、私と妻は仏像に見飽きていた。それに美術館で飾られている仏像は美術品である。合掌する気持ちが湧いて来ない。たくさんの仏像が展示されていたが、通り一辺になる。これだけ目にすると疲れて来る。法隆寺等の古刹に置かれた仏像だけで充分なのだ。そのイメージが焼き付いているので、博物館の仏像で上書きしたくない。
(この仁王像は写真撮影可)
ここを去るとバスでJR奈良駅に戻り、構内のみやげ店に寄る。妻がおみやげを物色している間、私は適当に時間をつぶした。今回の旅は、夕食とおみやげは地域共通クーポンでまかなった。要するにただである。税金をきちんと納めている以上、権利の受容は当然である。そんなことをベンチに座りながら考えた。
その後、ロッカーから荷物を取り出し、JR奈良線で京都に戻り、2時台の「ひかり」で東京に戻った。大阪発なので自由席はがら空きである。今回の旅で関西への旅は「ひかり」自由席で大丈夫であることを学んだ。「ひかり」なら大人の休日倶楽部の3割引き対象に入っている。
今秋、京都へ旅する予定なので利用しようと考えている。
東京駅で夕食用の「崎陽軒のシューマイ弁当」を購入し、東北新幹線と在来線を使って故郷に戻った。
※弁当
弁当は家で食べた。
昨秋サンライズ出雲に乗って島根を旅し満足したが、今回の旅も充実していた。
――― 終 り ―――
※次回は思い出の文学シリーズに戻り、ドイツ文学その4「ケラー、シュトルム、カフカなど」の話を紹介します。