第2日:2月21日(火)

 私たちの旅は朝早くから行動する。だから朝食は食堂がオープンすると同時にとる。今6時30分。一日二食なので朝食はしっかり食べる。老いると空腹を感じなくなった。昼は飲料だけ。

 ホテルを出てJR奈良駅に向かう。

 大和路線で法隆寺駅に行く。快速なので10分くらいしかかからない。

 歩いて法隆寺に向かう。バスを利用する場合9時台まで待たなければならないからである。

 現在7時半過ぎ。通学や通勤する人とすれ違う。昨日と打って変わって天気は晴れ。気持ちがいい。

 20分くらい歩くと、南大門に着いた。

 南大門をくぐる。無料。さすが法隆寺。前方に中門が見える。

 

 梅原の『十字架』によると、中門の真ん中に柱があるのは、内部に潜む怨霊が出ないようにするためだという。その真偽は素人の私には分からないが、本自体が面白いので妙に説得力がある。

 参拝券は中門の西側で販売している。

 大人1500円は高いが、見応えある場所が多く、世界最古の木造建築を維持するためなので当然である。なんと一番乗り。

(参拝券)

(パンフレット)

 中に入って中門の柱を見ると、エンタシスであることが分かる。

 ここは西院伽藍という領域である。少し離れた所に東院伽藍という領域もあり、飛鳥時代に斑鳩宮があった場所で、現在は夢殿が立っている。両伽藍内と大宝蔵院が入場料の対象エリアである。

 法隆寺(かつての斑鳩寺)は、聖徳太子が推古天皇と共に建立したと言われている。

 境内では職員が玉砂利を掃き清めていた。その音だけしか聞こえない。静寂。厳粛な雰囲気が漂っている。回廊に囲まれているのがいい。別世界に舞い降りたようだ。  

 昨日の東大寺界隈は観光客だらけで、俗臭が強すぎた。鹿も多かった。法隆寺はその対極の位置にある。平日の朝に来たから余計に感じる。

 五重塔をゆっくり仰ぐ。甍や木が素晴らしい。千数百年を経た事実にただ圧倒される。今それを独り占めにしている。これほどのぜいたくがあるだろうか。

 空は青く、風はなく、寒くない。最高の日よりである。

 金堂を仰ぐ。

 金堂の東側に入口がある。
 中に入った。薄暗い。撮影厳禁(以下の写真はネットから)。なお訪れる予定の寺院の内部は全て撮影厳禁。
 昭和24年に火災が発生するまで、壁には大小様々な壁画があった。焼損したため取り外され、代わりに再現壁画パネルがはめ込まれている。
 お目当ての「釈迦三尊像」と「薬師如来座像」の前に立つ。

(中央が釈迦三尊像。右が薬師如来坐像。左は阿弥陀如来。全て銅製)

 私たち二人だけ。手を合わせる。仏像は堂内にあるべきもので、鑑賞ではなく信仰の対象であるという亀井の言葉を思い出す。ここに設置されているからこそ神秘的な荘厳さを醸し出し、入場者を沈黙させる。

 この2つの仏像の顔は独特である。その影響について、北魏か南朝か学者の間でも意見が分かれている。制作年代についても飛鳥時代に作られたのか、それとも白鳳以降なのか議論が続いている。梅原は、両者が類似していることも含め、その存在そのものに疑問を呈している。とにかく謎が多い。ただ、三尊像の中尊は聖徳太子を模して造られたという話は信じたくなって来る。人を引き付ける力があるのだ。

 係員の方が親切だった。 

 金堂を後にして、その裏の大講堂に参る。法隆寺の中で一番大きな建物である。甍の屋根が大きく、柱が太く、迫力がある。この建物は平安時代に立てられたのだが、それでも千年は経っている。

(大講堂から撮った動画)

 回廊を巡った後、この伽藍(西院伽藍)から出る。

 なお、日本書紀によれば法隆寺(かつての斑鳩寺)は670年に焼失した。この記述を巡って再建非再建論争が起きたが、1939年に若草伽藍跡が発掘されたことにより、再建説が決定的になった。焼失前の法隆寺は現在地よりやや南にあり、向きも異なり、伽藍の数や配置も違っていたらしい。

 聖霊院には寄らず、お目当ての大宝蔵院に向かう。

 大宝蔵院は1998年に落成し、博物館のような所である。防災や防犯対策のために作られたのだろう。百済観音や玉虫厨子などの収蔵品は元々金堂や大講堂にあった。本来ならそこで見るのが一番よいのだが、仕方がない。東大寺ミュージアムと同じである。

 入場者は私たち以外数名しかいなかった。おかげでゆっくり鑑賞出来た。

 ここには数多の国宝や重要文化財が陳列されているのでとりわけ印象に残った作品のみを取り上げる。全て国宝である。

 まず、「百済観音」。この観音は人気があるため専用のお堂が特別に設けられている。

 この観音の美しさについて和辻や亀井は詳しく論じている。和辻は「抽象的な『天』が、具象的な『仏』に変化する」と述べ、亀井は「大地から燃え上がった永遠の焔のようであった」と形容し、観察よりもまず合掌したいとここでも吐露している。

 横から見ると、流麗な美しさがよく感じられた。実に足が長い。八頭身の姿はパリコレのファッションモデルのようだ。

 次は「玉虫厨子」である。

 私はこの名を小六の社会科で教わった。当時の社会科の授業は今より詳しかった。

あの頃は金堂に置かれていたと教わった。現在は色が落ち、捨身飼虎図などの絵もよく見ないと分からない。完成した当時は目を見張るほどの美しさだったのだろう。

 続けて「観音菩薩像(夢違観音)」である。

 この観音像についても和辻や亀井は述べている。ただ、素人の私にはこの像の良さは今一つピンと来ない。

 そして「伝橘夫人念持仏及び逗子」である。

 橘夫人とは、藤原不比等の妻で、聖武天皇夫人光明皇后の母である。念持仏とは個人所有の仏のことである。そのためかかなり小さい。これは最古の念持仏である。

 ここを出た跡、東院伽藍に向かう。両側に古めかしい土塀が続く道で両院は繋がれている。道は100mもない。突き当りに門があり、その奥に夢殿の屋根が覗かれた。

 ここにはかつて斑鳩宮があり、太子も住んでいた。しかし、太子の死後、643年にここに住んでいた息子山背大兄王子一族は蘇我入鹿によって襲撃され、最後は斑鳩寺で全員自決された。悲劇の地である。

 天平時代に夢殿が建てられのは、梅原によれば、聖徳太子の怨霊を鎮めるためだという。なお現在の夢殿は鎌倉時代に再建されたものである。

 この夢殿には秘仏の「救世観音」が収められている。夢殿もこの像も国宝で、法隆寺は国宝だらけである。何しろユネスコ世界遺産に日本で初めて登録されたくらいだ。

 観音の微笑みはモナリザ同様謎を秘めている。一年に一度しか短期間のみ公開。それゆえ今回は見られない。くれぐれも残念である。

 数百年間数百メートルの白布に巻かれたあったが、1884年、国から調査を委嘱されたフェノロサの命令により眠りから目を覚まされた。

 この像は、金堂の釈迦像と同じく太子の像とされている。これに関する見解を梅原は『十字架』で熱く語っている。その影響を受けた私は、一時、聖徳太子というと、この観音の顔が浮かんで来た。

 また、梅原によれば、当時の人は観音像が好きだったらしい。どの寺にもある。ただ、いつの時代でも日本人は観音様が好きだ。慈悲深いからだろう。

 ここの係員の方が親切で、我々の写真を撮ってくれた。

 

 隣接している中宮寺に向かう。小さなお寺である。以前は400m東にあり、法隆寺に匹敵するくらいの大きな尼寺だったしい。その跡地が今史跡になっている。

 参拝料を払い、パンフレットをもらう。

 早速本堂に赴く。新しいと思ったら昭和43年に再建された。

 1968年に建てられたため現代風。靴を脱いで上がる。目の前にご本尊の「菩薩半跏像」(国宝)が座している。黒光りしている。こんなに間近に見られるのには驚いた。

 元々は彩色されていたらしい。経年色あせたのだろう。木造である。

 和辻や亀井はこの像を絶賛し、二人共詳述して論じている。半跏思惟像としては京都広隆寺の弥勒菩薩半跏像と比べられる。なお広隆寺も聖徳太子が建てたと言われる七大寺の一つである。

 中指を頬に当てて何を考えているのだろう。そう思いたくなる。微笑が謎をさらに深める。

 菩薩とは如来になる前の姿。すなわち現世に軸足を置いている。それだからか、妙になまめかしくも感じる。女性的、中性的とも言ってよかろう。日本人は荒々しい仏像よりこのような中性的・女性的な像を好む。私も同じである。

 ここには係員が常駐している。私ども夫婦以外に数名の参拝客がそろったので、音声解説のボタンを推した。

 

 せっかく斑鳩に来たので、この地を歩き、法輪寺や法起寺に足を伸ばすことにした。

 それらは中宮寺より北にある。法輪寺は1キロくらいあるか。法起寺は法輪寺から東に600mくらい離れている。

 この道筋には田畑が広がっている。亀井はこの道を散策するのが好きだった。『大和古寺』に田園風景の美しさを綴っている。亀井が訪れたのは戦争中で、この辺りは相当な田舎だっただろう。その面影が現在も残っているのはうれしい限りである。

 15分くらいで法輪寺に着く。

 ここの三重塔は昭和に建てられたので世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていない。外から仰ぐだけにとどめた。

 三重塔で有名なのはこの先の法起寺(ほうきじ)のものである。整備された道路を歩いて行くと見えて来た。この寺は聖徳太子が建立したと言われる七大寺の一つで、尼寺の時もあったらしい。

 参拝券を買って入る。

 小さな寺である。参拝者は我々以外にもう一人いただけだった。早速三重塔を仰ぐ。三重塔では日本最古である。706年に創立されたという。そのため世界遺産の一つに含まれている。迫力という点では法隆寺五重塔に適わないが、こぶりならでは美しさは十分感じられる。甍と木造の部分を見つめる。千数百年の風月に耐えて来たと思うと、感無量だ。思わず合掌。

 

 次の参拝先は薬師寺である。忙しい。近くにバス停があったが、次の出発時刻まで1時間ある。中宮寺近くにも2つのバス停があったことを思い出し、そこに行って見る。しかし、1つはまだまだ先の時刻である。もう1つは法起寺のバス停に行く路線なので、結局それに乗ることにする。そこは中宮寺東というバス停で、目の前に中宮寺跡が広がっていた。

 このバスは西の京地区を通って春日大社へ行く。途中薬師寺駐車場に寄るので便利だ。何しろ斑鳩は奈良市から離れているので交通の便は悪い。

 三十分くらい乗っただろうか。時刻はお昼近くである。薬師寺駐車場というバス停で降りる。そこから東西の塔が頭を出している。

 薬師寺は天武天皇が発願し、持統天皇によって本尊開眼、文武天皇の飛鳥に建立されたが、平城遷都に伴い移された。元興寺(飛鳥寺)や興福寺(山階寺)と同じであるが、名前はそのままである。

 拝観料を払って入る。

 東塔を仰ぐことが最大の目的である。次に薬師三尊と聖観音立像に参拝したい。いずれも国宝である。

 中門がある。新しい。

 抜けると広い境内が待っている。

 金堂、東西の塔、大講堂、食堂などが建っている。回廊の外には東院堂(聖観世音菩薩立像が安置されている)があり、この一帯を白鳳伽藍と名付けている。東塔と東院堂以外は昭和・平成に再建された。

(西塔)

 この伽藍の北側には新たに玄奘三蔵院伽藍が平成に建立された。法隆寺に対抗しているようだ。貫主がやり手なのだろう。

 したがって境内が広い。東大寺に匹敵するのではないか。新しく色が鮮やかな建物がたくさんあるのでテーマパークに来たような感じがした。

 東塔を仰ぐ。この塔だけが趣がある。

 三重塔だが、各層に裳階(もこし)という小さな屋根があるので六重に見える。今まで見た塔の中で一番美しい。その理由は各層の壁が白壁だからである。甍の黒と壁の白のコントラストが見事なのだ。青空を背にするといっそう美しさが引き立つ。

 続いて金堂に入る。

 薬師三尊に手を合わせる。いずれも銅で出来、大きく、黒光り、迫力がある。

 私を引きつけたのは、中央の「薬師如来」ではなく、脇侍の「日光・月光菩薩」であった。

 上半身が裸の上に腰をひねったような動きをしているのでエロティックに思われた。顔立ちも中性的である。

 ただ、私は東大寺の日光・月光菩薩の方が好きだ。和辻も薬師如来は高く評価したが、日光・月光菩薩は買わなかった。

 続いて、東院堂に寄った。ここに「聖観音立像」がある。

 私だけ入った。妻が言うには、毎日仏像ばかり見ていると飽きるらしい。どれも似たり寄ったりに見えるようだ。その気持ちは分かる。

 聖観音立像も銅製なので黒光りしていた。

 素人目には金堂の日光・月光と間違いやすいが、こちらの方は腰をひねってない。顔だちも女性的。気品がある。インドのグプタ王朝の影響を受けているらしい。

 和辻と亀井の両人は共にこの像を絶賛した。

 参拝券で見られるのは他に大講堂だけである。

 ここはさっと見た。裏手の玄奘三蔵院伽藍は閉鎖されていたので唐招提寺に向かうことにした。

 

 唐招提寺まで薬師寺から一本道である。

 歩いて10分くらいの距離だ。両側に民家が立ち並んでいるが、規制により、高い民家はない。

 亀井が歩いた頃(戦争中)、この辺りは田舎だったらしい。彼は近鉄西ノ京駅から薬師寺・唐招提寺までの風景、とりわけ春景色を好んだ。『大和』を読むと、彼の弾んだ心が伝わって来る。

 当たり前だが、往時の面影は今はない。田畑の代わりに民家が建った。ビルがなく、緑が残っているのが救いである。

  本来ならこの一本道が南大門に続く参道になるのだが、ここは違う。道を右に折れ、すぐ左側に南大門がある。

 右側には商店や民家が並んでおり、門前の道は横に走っている。町中にある寺のようだ。門の目の前にあるみやげ物屋は休日はにぎわうだろう。

 門の横にある入場口で拝観券を買う。

 境内に入ると、金堂が正面にある。

 参拝客は少ない。静かである。聞こえるのは風の音と玉砂利を踏む音だけだ。法隆寺でも感じたが、気に入ったお寺を訪問する時は参拝客が少ない日時を選ぶ必要がある。今日は平日の午後だが、予想に反して少なかった。幸運と言わざるを得ない。

 横長の金堂(国宝)は実に美しい。今まで見た金堂の中で一番美しい。甍とエンタシスの柱と白壁の調和は見事としかいいようがない。列柱の吹き放しがその効果を高めている。明らかにギリシャ神殿の建築技法の影響を受けている。

 屋根の両端にある鴟尾(しび)を見ていると、井上靖の『天平の甍』を思い出す。

 高僧の来日を果たすべく入唐した多くの留学僧の運命を描いた作品である。彼らの苦労があったからこそ鑑真和上は来日出来た。しかし実現した時、鑑真は失明していた。

 この本を読んだことが唐招提寺を参拝したいきっかけになった。

 金堂に入る。列柱間が吹き放しになっているため内陣が明るい。三尊(国宝)を始めとした仏像に淡い光が当たっている。法隆寺と大きく違う。天平文化がシルクロードと密接に関わっていることを認識させられる。

 

 金堂を出て裏手にある講堂(国宝)に行く。

 講堂も横長の建物で、列柱間が吹き放しになっている。平城宮の建物の一部を移転したそうだ。

 ここの伽藍内はそれほど広くない。東大寺や薬師寺と違う。それも気に入った。

 続いて伽藍の外にある御影堂に赴く。ここは昭和に作られた建物である。かの有名な鑑真和上座像が安置されているのだが、大規模改修中のために非公開。

(御影堂入口)

(鑑真和上座像)

 また、ここには東山魁夷画伯による障壁画も奉献されている。

 これも鑑賞したかった。ただ、この障壁画を私は鑑賞したことがある。2017年、隣の茨城県近代美術館で展示された。御影堂の修理にために貸し出したのだろう。

 実に素晴らしい展覧会だった。

 絵の緑青が今でも目に浮かぶ。御影堂でもお目に掛かりたかったが、仕方がない。

 近くの開山堂にある鑑真和上の身代わり像を見たが、レプリカなので感動は受けない。

 せっかくだから和上が眠る御廟に参る。

 この後、再び伽藍に戻る。ここの雰囲気は実に素晴らしい。空間を上手に生み出している。そのためには建物の大きさ、美しさ、配置の巧みさが見事でなければならない。そう言えば、ここには塔がない。塔がなくても境内の魅力を醸し出す一例である。

 私はこの寺がすっかり好きになった。法隆寺の次に好きになった。

 

  この後、平城宮跡に行くことにした。

 いったん来た道を戻り、薬師寺近くから右に折れ、近鉄の西ノ京駅に行く。大和西大寺駅で降り、奈良交通バスに乗る。

 大和西大寺駅は大きかった。

 バス乗り場は工事の真っ最中だった。

 妻が「もしかしてここは安倍首相が銃撃された場所じゃないかしら」と言った。そう言えばテレビで見たような景色である。スマホで調べてみると確かにそうだった。

 10数分で最寄りの停留所に着いた。大極殿が目の前にそびえていた。

 大極殿前には大きい直方形の平地が広がっている。遠くの前方には大極門が建っている。左に修理用の建物まで建っている。何か作っているのだろうか。

 中に入る。無料である。パンフレットがたくさん置いてあった。

 現在3つの建造物が復元されている。平成に行われた。この広大な土地は国が買収したのだろうか。

 その昔大極殿は2つあって、前の大極殿の復元なので第一次とつけられたらしい。

 二階に上がると、広い宮殿の土地が見渡せる。

 内部には、高御座の模型が飾られてあった。

 大極門まで歩いてみることにした。 

 ここまで来ると朱雀門が見える。

 実は朱雀門の前に近鉄線が走っている。行くには踏切を渡らなければならない。バスの本数が少ないので諦め引き上げた。また、復元なので興味が湧かないからである。

 この広大な土地で愛犬家たちが犬を遊ばせていた。歴史的なイベントや奈良時代を舞台にしたドラマのロケ地にもってこいだろう。

 

 JR奈良駅に戻り、旧駅舎内のスタバでコーヒーブレイクし、それからホテルに戻った。

 5時過ぎ、駅から歩いて5分くらいにあるガストへ夕食を食べに行った。

 ホテルに戻って温泉に入った後、ベッドに横たわり一日を振り返る。

 目まぐるしい日だった。建物や仏像がすごすぎた。美のオンパレードといっていい。見過ぎるのもよくない。記憶が上書きされ、印象が弱まってしまう。

 それでも何とか思い出す。

 よかった伽藍。法隆寺、次に唐招提寺。

 よかった塔。法隆寺五重塔、薬師寺東塔、法起寺三重塔の順。

 よかった金堂。唐招提寺、法隆寺の順。

 よかった境内。法隆寺、唐招提寺の順。

 よかった仏像。百済観音(法隆寺)、釈迦三尊像(法隆寺)、菩薩半跏像(中宮寺)、聖観音立像(薬師寺)、薬師如来坐像(法隆寺)の順

 考えているうちに眠くなった。

 

 ※続く。

  次は最終回です。三日目に自転車で回った飛鳥の里(高松塚古墳、石舞台、甘樫丘、飛鳥寺、飛鳥資料館、藤原宮跡など)の思い出や四日目の元興寺の印象などを語ります。