じろやんの前向き老後生活

じろやんの前向き老後生活

 自分に影響を与えた文芸・音楽・映画・美術を紹介したり、お遍路や旅の思い出を語ったり、身辺雑記を綴ったりします。

1 マーガレット・ミッチェル

 あれは1964年(昭39)、中1の終わり頃だろうか、妹が母にねだって小学館の「少年少女世界の名作文学」を取り始めた。

 

 私は小さい頃から読書は好きだったが、あまり物語や小説は読まなかった。ところが、この全集に熱中した。 

 

 私は中学校が面白くなかった。その頃のことについては以前の記事に書いたのでここでは省く。

 学校嫌いは中2、中3と上に進むにつれ、激しくなった。今思えば、我が人生の暗黒時代だった。

 

 私はもがき、何かに救いを求めた。救ってくれたのがこの全集だった。ものの見方を広めてくれた。考えるということを教えてくれた。

 

 ただ、中3になると、この全集は物足りなくなった。ダイジェスト版ではなく、本格的な完訳を読みたいと思うようになった。


 私は母にねだった。

 私の家は小さな田舎町の商店街にある衣類販売の小売店で、3軒隣は本屋でそこの奥さんは母の親友だった。彼女が推薦したのが、河出書房の「カラー版 世界文学全集」である。

 高度経済成長期に入ったためだろうか、今と違い娯楽が少なかったからだろうか、経済的にゆとりがある家は文学全集や百科事典を購入し出した。かなり売れ、出版社や書店にとってはいい時代だった。

 

 この全集は毎月1冊刊行され、我が家では『風と共に去りぬ』(マーガレット・ミッチェル:以下、ミッチェル)から講読した。2冊から成り、今でも手元にある。頑丈に造られているので、60年過ぎても閉じ糸はほどけてない。

(マーガレット・ミッチェル:1900~1949)

 作品について母が語ってくれた。映画化され、一世を風靡したほどだそうだ。母も若い頃見た。そんなことで私は関心を抱き、早速読んでみた。

 

 正直難しく、なかなか没入出来なかった。投げ出したこともあったが、諦めず少しずつ読んで行った。

 

 特にスカーレット・オハラ(以下、スカーレット)の恋愛や結婚について理解不可能な箇所が幾つもあった。恋愛経験がない14歳の私には男女の機微が分からなかったのだと思う。

(スカーレット)

 たとえばレット・バトラー(以下、レット)との結婚と破綻の場面である。

 二人の間に娘ボニーが誕生する。小児に成長した彼女は落馬で死ぬ。このことがきっかけで二人の仲に亀裂が走り、レットは去ってしまう。

 どうしてこのような行動に走ってしまうのか。二人の心理や行動は当時は謎だった。

(レットとボニー)

 他の男性(アシュレやフランク)に対するスカーレットの反応も私には過激すぎた。ただ、彼女が情熱的な女性であることは伝わった。

 

 また、外国人特有の思考、言い回しや言葉遣いに躊躇することもしばしあった。当り前だが、19世紀のアメリカ南部の人間は20世紀の日本人とは違う面があるのだ。しばし辞書を何度も引いたことを覚えている。

 

 しかしよかった点もある。元々歴史が好きなので南北戦争については色々学べた。

 戦争の背景、南部人の生活、黒人奴隷の扱い、戦争場面など興味深く読んだ。

 スカーレットのたくましさにも感銘を受けた。次から次へと押し寄せる試練や逆境に果敢に挑む。時にめげそうになるが、諦めず、立ち上がり、乗り越えようとする。その姿勢は最後の「明日はまた明日の陽が出るのだ」という言葉に集約される。有名なこの言葉に私も感動し、勇気づけられた。

 この2冊の本を半年近くかけて読んだ。とくに夏休みに集中して読んだ。部活が終わったこともあり、扇風機にあたりながら、汗をぬぐいつつ読んだことは忘れられない。

 

 読み終えた時、私は「やった」と叫んだ。苦労してこの2冊の大著を読了したという事実に今まで経験したことのない達成感を味わった。

 繰り返すが、思春期の混乱に飲み込まれた私は勉強、スポーツ、人間関係で挫折し、何をやっても駄目だった。

 その絶望をわずかながら跳ね除けたと思った。この読書経験は自信を生み、自分を救ってくれた。

 このことが本書から得た最大の収穫だった。

 「文学」という世界が現前に広がった。これを極めようという願望はその後の学校生活の灯になった。

 

 以来、60年が過ぎた。その間、本作を完読することは2度となかった。私の場合、読みたい本が多過ぎた。他の書物に時間をかけたかった。

 それでも何度か、必要に応じて拾い読みした箇所がある。その頃私は大人になっていたので、子ども時代には分からなかった登場人物の心理や思考に共感を抱けた。

 スカーレットやレット以外の人物、例えば、アシュレ、メラニー、黒人の召使マミーの存在も興味深く感じられた。

 本作は映画化された。残念ながら映画の方が有名になってしまった感がある。大学生になった頃知ったのだが、原作は読んでないが、映画は見たという人々が大勢いた。

    私は高2の時、田舎の映画館で観て感動してしまった。スカーレット(ヴィヴィアン・リー)とレット(クラーク・ゲーブル)の存在は強烈で、二人のやり取りや、焼け落ちるアトランタの街から馬車で逃げ出すシーンに目が釘付けになった。

 こうなるとスカーレットというとヴィヴィアン・リー、レットというとクラーク・ゲーブルが浮かんでしまう。困ったものだが、それが映画の強さなのだろう。

 ただ、映画と小説は別物であることは忘れてはならない。映画は小説を原作とした3次元の別世界である。

 

 

 30代の半ば過ぎた頃(1980年代後半)、1冊の本に目が留まった。『タラへの道 マーガレット・ミッチェルの生涯』という本である。新聞の書評でも大きく取り上げられた。

 全集の解説で読んだ時、ミッチェルという人物は結構謎多き人の印象を抱いた。元々職業作家になるつもりがないうえ、生涯『風と共に去りぬ』しか世に出さなかった。私生活も進んで公表しなかった。

 彼女に関心があったので私は本作を読んでみることにした。

 

 この本の眼目は彼女の最初の結婚であり、相手がレット・バトラーの実在モデルではないかという仮説である。

 名前はベリーン・レッド・アップショー(以下、アップショー)という男である。面白いことにミドルネームの「レッド」はレットに近い。

(アップショー)

(ミッチェルとアップショー)

 彼は酒の密売人(1920年代当時のアメリカは禁酒法の時代だった)であった。

 ミッチェルはどうしてこんな男と結婚したのかと素人は思ってしまう。当時彼女はアトランタの地元新聞社に勤め、記事も書いていた。

(記者時代のミッチェル)

 女性記者は当時進歩的な職業である。保守的で平凡な男より破天荒な男に惹かれたのだろうか。

(結婚式)

 周囲の人も結婚には反対した。恋愛のなせる技にはとかく不思議がつきまとう例である。

 

 しかし結婚は2年しか続かなかった。粗暴な彼にミッチェルは結局ついていけなかった。

 ミッチェルにとって離婚は思い出したくない人生の汚点になった。だから有名になってもこの事実を隠した。周囲の人もジャーナリズムに根掘り葉掘り聞かれた時、口をつぐんだ。

 

 その後、ミッチェルはジョン・マーシュ(以下、マーシュ)という男性と結婚した。なんと彼はアップショーの友人だった。

(アップショーとマーシュ)

 彼は優しく穏やかな性格な上、マーガレットの仕事を尊重し、『風と共に去りぬ』の執筆を応援してくれた。

 二人は幸せな結婚生活を送った。

 一方アップショーの人生は不幸だったらしく、最後は安ホテルで客死した。

 

 一般的に長編小説や物語にはモデルがいると言われる。作者の想像だけで登場人物の造型は難しく、ストリーは続けられない。

 問題はそのモデルをそのまま使う(実在モデルという)かどうかという点である。概ねそれは不可能である。小説・物語はフィクションなので、展開上破綻をきたしてしまう。

 ゆえに登場人物に何らかしかの形で投影するのが一般である。

 

 アップショーの場合も同様である。彼ばかりでなく、ミッチェルの初恋の相手やマーシュはアシュレ、彼女の母方の祖母や実母はスカーレットの造型に投影されたという著者の想像は正しいと私も思う。

 祖母と実母は当時の南部では珍しい婦人参政権運動家であった。新しいことに挑戦する進歩的な女性であった。エネルギッシュなスカーレットと共通性が見られる。

 

 彼女は元々本作を進んで世に出そうと思っていなかった。編集者ハロルド・レイサムとの出会いで出版されることになり、1936年に発売されるや瞬く間にベストセラーになった。翌年ピューリッツァー賞の栄誉にも輝いた。

(ハロルド・レイサム)

 彼女からすれば、運命のいたずらのように見えたのかもしれない。元来派手なことが嫌いな性格である。だから有名になっても普段のつつましやかな生活を守った。

 

 彼女は他の作品の執筆をジャーナリズムから求められても断った。私の想像では、書かなかったというより、書けなかったというのが真実のような気がする。

 

 私はこの本を読み、新たな事実を知り、ミッチェルという人間に近づくことが出来た。

 

2 パール・S・バック

 『風と共に去りぬ』の次に読んだ長編はヘルマン・ヘッセの『車輪の下』『郷愁』である。

 その次に読んだのがパール・S・バック(以下、パール)の『大地』である。高校1年の時(1867年・昭47)である。

 本作は第1部「大地」、第2部「息子たち」、第3部「分裂した家」から成り立っている。

 

 当初第1部だけ発表されたが、次々と続編が誕生し、今では3部作で『大地』と名付けられている。

 実は私は第1部しか読了してない。第2部は途中で投げ出し、第3部は拾い読みしただけだ。ただ、第1部の読後感が強烈だったので、ここに取り上げた。感動といより衝撃を受けた。

 なお、パールの作品は本作しか読んでない。


 本作は1931年に出版されると、話題を呼び、翌年にはピューリッツァー賞に輝き、やがて世界的ベストセラーになった。

 ここまでは『風と共に去りぬ』と同じであるが、違う点はパールが本作でノーベル文学賞を受賞したのに対し、マーガレットはもらってない。

 1930年代に大ベストセラーが二人の女性作家によって生み出されたというは興味深い。女性の社会進出の飛躍が読み取れる。


 パールは宣教師の娘で、マーガレット・ミッチェルより8歳年長である。

(パール・S・バック:1892~1973)

 南長老ミッション派宣教師の両親に連れられ、中国江蘇省の鎮江で育った。1911年19歳の時に大学進学のために帰国したが、卒業後の1914年宣教師として中国に戻った。英語と中国語のバイリンガルである。

 

 その後結婚したり、南京大学で教えたり、再度帰国して修士号をとったり、再び中国に戻ったりした。当時(1920年代)の中国は辛亥革命後の動乱の時代である。国民党軍と軍閥との戦争、西欧列強や日本による侵略が横行した。

(1925年に上海で発生した五.三〇事件)

 パールは動乱の中に生きる農民や労働者を見て心を痛めた。その苦悩を世に知らしめたくて出来上がったのが第1部の「大地」である。夢想家の彼女は小説という表現手段を選択した。

 

 中国人同様に育ち、英語と同じくらいに中国語が話せ、農民の実態を知り尽くしていなければこのような作品は書けない。

 動機の背後には彼女独特のキリスト教ヒューマニズムが読み取れる。

 

 一部の主人公は貧農の王龍(ワンルン)で、彼らの子や孫を描いたのが第2部と第3部である。

 

 本作は『風と共に去りぬ』に比べ、読みやすかった。文体が平易で、長くない。リアリズムに徹し、自然描写を効果的に用いている。心理描写はくどくない。パールは練達した文章家だった。

 展開がスムーズなのでストーリーテラーの要素があるが、通俗に堕してない。逆転劇を用いる手腕は見事である。

 

 貧農の王龍と妻の阿藍(オーラン)による土地と家の物語である。貧困から富豪に出世する展開だが、彼らを美化せず、正邪と美醜を共に描いている。ネガティブな側面は生々しくドロドロとしている。

 

    王龍は「大地」を愛する理想化肌の小作人で、阿藍は主家に雇われていた女奴隷である。大柄な体格で無口であるが、働き者で考え方は現実的である。

(息子に乳をあげる阿藍)

 私は「女奴隷」という言葉に驚いた。日本では明治大正時代でも奴隷は存在しない。ところが同じ時期の中国では存在していた。

 女性の地位が低く、女性蔑視が激しい。男尊女卑の究極化した世界である。いかに当時の中国が近代化に乗り遅れていたかを本書で知った。15歳の私に世界が広く、奥が深いことを教えてくれた。

 

 最初王龍と阿藍は農業で生計が立てられたが、旱魃に襲われ飢饉にさらされる。その結果離郷せざるを得なくなり、都会に出る。

 本作は舞台となる場所を特定していない。安徽省や江蘇省という言葉が出て来るので、故郷は前者、引っ越し先は後者の都市らしい。揚子江が近いので、上海か南京がモデルになっているらしい。

(都会で車夫をする王龍)

 都会での場面から物語は急展開する。王龍は車夫、阿藍は物乞いでなんとか飢えをしのぐが、ある日暴動が発生する。富豪の家を襲う群集に二人は巻き込まれ、阿藍は幸運にも宝石が略奪出来た。

 

 この幸運が二人の運命を変える。帰郷し宝石を売った金で土地を買い漁り、最終的に王龍は主家を購入し、富豪にまでのし上がる。

 同時に農民魂を失い、奢侈にふけり、しまいに蓮華という商売女を第二夫人に迎え、妻妾同居の生活までするようになる。

 阿藍が幸運の女神であることを忘れ、彼女を邪慳に扱うようにさえなった。

 大金を手にすると変身する人間は実に多い。古今東西よく見かけるパターンである。

 

(映画『大地』より)

 彼女はただひたすらに耐え忍ぶのだが、病魔に襲われ、死期が近いことを知る。

「あなたは私の最後の宝物(小さな2つの真珠)さえうばった」「私はあなたが望む息子を生んであげたのに」

 という嫌味をもらすが、それでも阿藍は王龍を愛していたようだ。長男の婚礼を見届けた後、彼女は亡くなる。最後まで一家の繫栄を期待した。

 

 物語はこの悲劇で締めくくれるのだが、 パールはそうはしない。

 まだまだ一癖もある人物がけっこう登場する。王龍にたかる叔父一家、お金目当ての第二夫人蓮華、父親に反発する息子たち、善人の梨華。彼らの存在を巧に描写している。これが物語を深め、本作を文学にまで昇華させた。

 

 私には、王龍より阿藍の印象の方が強かった。彼女は真の幸せは得られなかった。

これが当時の中国の女性の実態なのだろう。

 

 本作が芸術作品として成功した理由の一つに相対立する概念(二項対立)の効果的活用が挙げられる。

 農村と都会、金持ちと貧民、質素と奢侈、動乱と平和、迷信と合理、努力と堕落、 豊作と飢饉、親と子、新世代と旧世代、感情と理性・・・。

 これらをストーリーのバックボーンとして使ったので、読者を惹きつけた。

 

 本作に『大地』という題名がつけられたように王龍にとって土地は何にも替えが得たい大切な存在である。 

 ところが成長した息子たちは土地の売却をいとわない。最終部で親と子、新旧の思想の対立が生じる。

 

 大地を巡る壮大な物語は「第2部:息子たち」に引き継がれ、「第3部:分裂した家」で一応ピリオドが打たれた。

 

 私は、冒頭で記したように、「第2部」を投げ出し、「第3部」を拾い読みした。

 第3部で王龍の孫の王元という青年がアメリカに留学する。そこでメアリという白人の女の子からキスされる。

(メアリからキスされる王元

 今と違い白人女性はアジア人男性にとって近寄りがたい存在である。憧れでもある。この物語の舞台の1920年代は猶更である。

 白人女性がアジア人男性にキスすることは本当にあるのだろうか。性に目覚めていた私はこの部分だけをどきどきしながら読んだ。

 

 何十年も前になるが、テレビで原作を映画化したアメリカ製映画『大地』(1937年作・昭12)を見た。

 

 面白かったのだが、違和感があった。阿藍が美人過ぎるのである。調べたら、何と白人女優が演じているのではないか。彼女ばかりでなく主要な登場人物は白人だらけだった。

 通りで彫りの深い顔立ちが多いと思った。リアリティに欠けていると言わざるを得ない。現代ならアジア系の俳優を使っただろうが、当時はいなかったのだろうか。

 

             ーーー終わりーーー

 

※次回はアメリカ文学シリーズの最終回です。アンダーソン、スタインベック、サリンジャーなどの短編について語ります。