今回から青春時代によく聴いたバンドの感想をお届けする。
私が最も惹かれたのはローリング・ストーンズ(以下ストーンズ)であるが、次に聴いたのはビートルズである。ストーンズは第1回目に取り上げたので、今回はビートルズという訳である。
1960年代を代表するバンドはビートルズに他ならない。
1965年(昭40年)、中学2年生の私は、当時日本中の若者を席巻したベンチャーズの音楽のとりこになってしまった。
思春期真っ只中の私の感性にそのサウンドがしっくりきたのだろう。
その頃フジテレビで『勝ち抜きエレキ合戦』という番組が放映されていた。
アマチュアバンドが競う内容で、チャンピオンに選ばれたチームの中にはプロデビューを果たしたバンドもあった。その代表はザ・サベージである。
多くはベンチャーズスタイルのバンドで、ボーカルが入るロック系バンド(長髪のビートルズスタイル)は少数派だった。
それだけベンチャーズ系サウンドが人気のあったことを意味し、 表題に「バンド合戦」ではなく「エレキ合戦」という言葉がつけられたのだ。
「エレキ」と言えばベンチャーズを指したと言っても過言ではない。
ベンチャーズから洋楽に興味を持ち出した私は、翌年(1966・昭41)の3月に14歳の誕生日を迎えた。
この時姉がプレゼントにローリング・ストーンズ(以下、ストーンズ)の『ひとりぼっちの世界』を贈ってくれた。
そのサウンドに私は目の前の景色が変わるくらいの衝撃を受けた。このレコードによって俄然私は洋楽ポップスに興味を持ち始めた。
ベンチャーズサウンドからロックサウンドに転向したきっかけになった。
そこへ4月にフジテレビ(8チャンネル)で「ビートポップス」(以下、ビート)という洋楽ヒットチャート番組が放映され始めた。私は中3になっていた。
当時洋楽を聴く場合、ラジオが主流だった。しかし地方ではFMが聞こえない。中波の民放も聞けることは聞けたが、雑音が混じっている。とりわけニッポン放送やTBSラジオはひどかった。
NHKやローカル放送の栃木放送は上記にくらべるとましだったが、歌謡曲や民謡が多く、洋楽ポップスはあまり流れない。
英語の米軍放送FENは入ったが、ちんぷんかんぷんなので聴かなかった。
それゆえこのヒットチャート番組の影響は絶大となった。
今思えば、私の住む栃木が関東地方でよかった。一応東京のキー局放送は全て入ったからである。あの頃、東京と地方とでは文化の格差が大きかった。
「ビート」は土曜日の午後2時から放映された。
それが視聴したい私は、部活をさぼり急いで帰宅した。当時は土曜日の午前中に授業があった。
そこで1位になったのがビートルズの『ガール』だったのである。『ガール』はシングル盤で発売されていないのにも関わらず1位をとった。私の記憶が正しければ4、5、6月にかけて1位を続けた。
それだけビートルズの人気はすごかった。6月に来日することも輪をかけていた。
そのあおりを受け、私の好きなストーンズの『19回目の神経衰弱』は1位になれなかった。私は悔しくて悔しくてたまらなかった。
当時の日本ではビートルズの人気が10なら、ストーンズは2くらいだったのではないだろうか。そのくらい差が開いていた。
美しいメロディもかけるビートルズに対しストーンズはR&Bが主体のバンドである。
当時の日本ではストーンズのようなバンドはまだまだ浸透しなかった。
ビートルズの曲で『ガール』に続いて登場したのが『ひとりぼっちのあいつ』(以下、ひとりと略す)である。
確か『ガール』が下がり出すと上昇して来た。結局ビートルズが『ビートポップス』では1位を独占し続けた。
7月になってようやくビートルズに一泡吹かせる出来事があった。ストーンズのニューシングル『黒くぬれ!』が1位になったのである。
私はうれしくなって飛び上がってしまった。
私はこの『ひとり』が好きになった。音楽の好みを説明するのは難しいが、メロディ、ハーモニー、演奏が私の感性に合ったのだろう。
そのシングル盤を買おうとしたのだが、『ひとり』と『ガール』が入ったコンパクト(EP)盤が発売されているのを知った。
これはお得だと思った。当時シングル盤は370円、EP盤は500円。ラーメンが70円くらいだったから、子どもにとってかなり高額な買い物である。
なお、洋楽のとりこになった私は、それ以来小遣いの全てを注ぎ込むようになる。足りなくなると私を溺愛していた祖母にねだった。
これが最初に買ったビートルズのレコードになる。そこで出会ったのが『ミッシェル』である。
それまで私は彼らの曲は代表作しか知らなかった。『抱きしめたい』や『ヘルプ』などは彼らの人気が社会現象になっていたのでテレビでもよく紹介されていた。
私はこの『ミッシェル』がいっぺんで好きになった。メロディが美しい。途中のフランス語の響きも新鮮。
『ガール』もよかったが、『ミッシェル』はさらによい。このような美しいバラードが書けるレノン=マッカトニーのコンビは幅が広いと痛感した。
洋楽ポップスにはまった私は『ビート』だけでは物足りなくなり、雑音を我慢してラジオ(とりわけ『文化放送』)も聞くようになった。
そうこうするうちビートルズの曲を知るようになった。何しろ人気があるので彼らの曲はよくかかる。
とりわけ初期(1963から64年にかけて)の曲が好きになった。
私は彼らの代表作の入ったLPレコードを買おうと思った。
見つけたのが、日本編集盤の『ビートルズ!(Meet The Beatles)』(以下、ビートルズ!)である。
これは私が生まれて初めて買ったLPである(ちなみに次はストーンズの『アフターマス』)。
これは上記のEP盤よりさらにお得だと思った。何しろ初期の代表作の多くが入っている。
この中で好きになった曲は以下である。()の名は作曲者名である。(カバー)はカバー盤のことである。
「抱きしめたい」(ジョンとポール)「シー・ラブズ・ユー」(ジョンとポール)「フロム・ミー・トゥ・ユー」(ジョンとポール)「ツイスト・アンド・シャット」(カバー)「プリーズ・プリーズ・ミー」(ジョン)「P.S.アイ・ラブ・ユー」(ポール)「オール・マイ・ラヴィング」(ポール)「プリーズ・ミスター・ポストマン」(カバー)
これらでビートルズが好きになったが、それでもストーンズの次にだった。
その頃、人気スターのブロマイドが流行っていた。私が愛読していた少年マガジンでも会社の広告が載っていた。
そこを通して私が生まれて初めて買ったのがジョージ・ハリスンのブロマイドだった。
私はジョンやポールよりジョージが好きだった。ストーンズでもミックよりキースに憧れていた。私には天邪鬼的なところがあり、世間と反対のことを好んだ。
そうこうしているうちに6月になり、ビートルズが来日した。それは社会的現象と化し、連日テレビで動向を放映した。
そのせいもあって彼らの公演のテレビ放送を見た級友が多かった。なお白黒放送である。
私のような外国のロック好きはクラスでも少ない。女子生徒のほとんどは歌謡曲歌手(例えば舟木一夫や西郷輝彦)にしか興味がない。これが1966年の栃木の田舎の現実だった。
正直言って、彼らの演奏にはがっかりした。音がよくなく、レコードで聴く音と全く違っていた。好きな曲も少なかった。
その後、ビートルズへの興味は続かなかった。
10月下旬、アルバム『リボルバー』が発売された。
シングルカットされた『イエロー・サブマリン』(以下、イエロー)や『エリナー・リグビー』(以下、エリナー)は「ビート」に登場したが、他の収録曲はかからなかった。ラジオでもお目にかからなかった。
当時の媒体ではアルバム全曲を紹介する余裕がなかったのだろう。
このことは前のアルバム『ラバ―・ソウル』や次のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(以下、サージェント)『にも当てはまる。
FM東京ならかかったかもしれないが、田舎には入らない。あるいはどこかのラジオ局で放送したのかもしれないが、ラジオをそんなに聞いている訳ではない。
したがって知る由もない。
聞きたい場合は購入するか、誰かから借りるしかなかった。しかし当時のLPは1750円から2000円くらいした。ラーメン20杯分くらいの高額商品である。そんなに小遣いがある訳がなかった。
ITが発達している現代からみたら、信じられないくらい不便な時代だった。
レコードを購入せず(アーチストには申し訳ないが)、田舎で音楽をお金をあまりかけずに楽しむのには、カセットデッキを備えたコンポーネントステレオが出回り、レンタルレコード店が出現した80年代を待たなくてはならなかった。
このこともビートルズへの興味が続かなかった理由である。
翌1967年(昭42)、ラジオでビートルズの新曲『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』(以下、ストロベリー)をたまたま聴いた。
効果音が入る『イエローサブマリン』(ポール。ボーカルはリンゴ)や弦楽八重奏(ポール)をバックにして歌った『エリナーリグビー』にも驚かされたが、この曲にはさらに衝撃を受けた。
効果音、逆回転、多重録音等様々な工夫が印象的なメロディや間延びしたようなジョンの声に不思議な魅力を与えていた。
ビートルズはもはや通常のバンド演奏ではなく「音の追求」を行う前衛アーチストのように思えた。
それだけ幅があり、才能に富んでいる証拠なのだが、私の頭にあるロック演奏スタイルと結びつかないので面食らった。
「もうライブ演奏はしない」という発表が流れたのもこの頃だったと思う。
寂しい気持ちがしたが、『ストロベリー』のような音楽も悪くないと思った。
B面の『ペニー・レイン』(ポール)もよかったが、『ストロベリー』の不思議な魅力には勝てなかった。
私はこのシングル盤を高校を合格したあかつきの3月に買った。
高校に入ると、「ビート」以外にもラジオの深夜放送をよく聴くようになった。なお学年が上がるにつれ、「ビート」を卒業し、ラジオの比重が高くなった。
6月に『愛こそはすべて』のレコーディングが衛星放送された。白黒である。
日本時間では未明だったので目をこすりながら見た。曲はよかったが、ストリングスをバックにした演奏には面食らった。かつての演奏スタイル(4人だけのバンドスタイル)ではない。ビートルズは変わったと思った。
当時の放送は白黒である。
後で知ったのだが、この曲はジョンが大部分を書いたという。『ストロベリー』や、『ルシー・インザ・スカイ・ウイズ・ダイアモンズ』(『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』[以下、サージェント]の収録曲)路線の集大成のような傑作である。
うれしかったのは、バックコーラスとして参加したミック・ジャガーの顔がアップで映し出されたことである。ストーンズファンとしてはありがたい。
翌月の7月に『サージェント』が発表されたが、興味は湧かなかった。
1968年(昭43)に入り、3月にテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』(以下、マジカル)のサントラ盤が発売された。当時日本では放映されなく、レコードはコンパクト(EP)盤2枚組であった。これはイギリス盤を元にしている。
「ビート」で表題曲を気に入り、思い切って購入した。値段は1000円で、カラーブックレットが付いていた。
ビートルズのレコードとしては4枚目になる。
前後してリリースされた『ハロー・グッドバイ』(ポール。以下、ハロー)は収められず、シングル盤として別売りされた。
私の好きな曲は、表題の『マジカル』、『ユア・マザー・シュッド・ノウ』、『フール・オン・ザ・ヒル』の3曲だった。
全てポール単独の曲である。群を抜くメロディ・メーカ―であることが分かる。独創性に富み、編曲も優れていた
映画のアイディアもポールである。
レノンは1967年頃からビートルズの活動に熱心でなくなった。
ポールはグループの主導的役割を行わなければならなかった。
1969年(昭44)の1月にビートルズの『ホワイト・アルバム』(正式名称は『ザ・ビートルズ』)が発売された。私が高2の時である。
その中からヒット性のある『バック・イン・ザ・USSR』(以下、USSR)や『オ・ブ・ラ・ディ、オ・ブ・ラ・ダ』(以下、オブラダ)がラジオや「ビート」でよくかかったが、他の曲も耳にすることがあった。いい曲が多いと思った。
要するに心に響いたので買いたくなった。手元に正月にもらったお年玉がある。
価格は4000円。その頃はラーメンが100円くらいに値上がりしていた。
お年玉の全てを使わなくてはならなかったので一大決心を下さざるを得ない買い物だった。
ビートルズのレコードとしては5枚目になり、10代で買った最後のレコードになる。
(レコード盤の曲目がなかったのでCDから引用した)
本アルバムの専門家(欧米の)による評価は高くなかったが、私にとっては聴きごたえのあるアルバムであり、思い出のあるアルバムになった。
当時好きなった曲は以下である。
(CD1表記)
1 USSR 4 オブラダ 6 コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロウ・ビル 7 ホワイル・マイ・ジェントリー・ウイープス(以下、『ホワイル』) 8 ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン(以下、『ハッピネス』) 9 マーサ・マイ・ティア 11 ブラックバード 16 アイ・ウィル 17 ジュリア
(CD2表記)
1 バースデイ 3 マザー・ネイチャーズ・サン 9 ハニー・パイ 11 クライ・ベイビー・クライ
13 グッド・ナイト
ジョンの曲は、CD1表記では6、8、17、CD2表記では11と13である。ジョージの曲はCD1表記の7で、他はポールの曲である。
如何にポールの曲に心酔したかが分かる。アップテンポのUSSRやバースディ、メロデイヤスなピアノが特長の9、生ギターの11、16、11、CD2表記の3。いずれも素晴らしい。多彩ぶりを十分発揮している。
ジョージの『ホワイル』も素晴らしかった。これまで彼の曲はお世辞にもいいとは言えなかった。この曲で彼は飛躍したと思った。
しかし、ベスト1をあえて選ぶなら、躊躇なくジョンの『ハッピネス』を取り上げる。
メロディ、演奏、歌唱、転調、歌詞に最近のジョンらしさが出ているこの曲はなぜか私の心に沁み込んだ。
3か月後の春休みにリュックをかついて九州1周の旅(周遊券を使い、野宿がほとんどの貧乏旅行)に出たが、夜汽車の窓辺に肘を突いてもの思いにふけっていると、なぜかこの『ハッピネス』が口から出た。
フォークルの加藤和彦がこの曲を好んだ事実を後で知り、我が意を得た。
9月に『アビイ・ロード』(以下、アビイ)が発売されたが、受験で忙しいこともあり、興味がなかった。シングルカットされた『カム・トゲザー』や『サムシング』もいい曲だと思わなかった。
翌1970年(昭45)3月、私は高校を卒業し、上京した。受験に失敗したので浪人生活を送るはめになった。
うれしかったことはFMが聴けることである。勉強に疲れた時、FM東京をよく聴いた。
予備校に通い出したら、ビートルズ解散のニュースが発表された。解散の噂は以前から流れていたが、現実になるとやはりショックだった。
これも影響しているのか、6月に『レット・イット・ビー』(以下、レット)のアルバムが発売されたが、まったく興味が湧かなかった。
ただ、シングルカットされた表題曲は名曲だと思った。ラジオから流れて来た時、琴線に触れた。ポールの才能、恐るべしと思った。
ラジオのFM放送では、NHKのバロック音楽を聴き出した。これがきっかけでクラシック音楽に興味を持ち始めた。
翌71年(昭45)に大学に入学するとクラシック音楽への熱が高まった。反比例するかのようにビートルズの音楽を意識的に聞こうとする意欲はなくなった。
ただ、ビートルズの曲はラジオでよくかかったので、耳にすることは多かった。
それから5、6年がたち、私は社会人になり、経済的に余裕が生じた。
忙しくなったせいか、全身全霊で聴かなければならないクラシック音楽を避け、気軽に聞ける洋楽ポップスに再び興味を持つようになった。それがビートルズへの関心を再燃させた。
この間彼らの作品を意識的に聴かなくても、ラジオでよくかかったので耳にすることは多かった。アルバムの曲もFMでは取り上げられていた。
そこで私は彼らを一通り聴こうと思い、持ってないアルバムを幾つか買った。
なおこのような態度を示したのはストーンズとビートルズだけである。60年代後半に青春時代に突入した私は両者に育てられた。もちろん彼らの音楽が優れているのが最大の理由である。
私が買ったのは、『ハード・デイズ・ナイト』、『ヘルプ(四人はアイドル)』(アメリカのサントラ盤。以下、四人はアイドル)『ラバ―・ソウル』(以下、ラバー)、『サージェント』の4枚である。
『四人はアイドル』は買って失敗した。『イエスタデイ』などが入ってなかったからである。
それで実家(我が家は衣料販売の商店)に出入りしていたお得意さんの子ども(中学生)にあげてしまった。
『四人はアイドル』を抜かした3枚のアルバムについて述べよう。
『ハード・デイズ・ナイト』で光るのはジョンの才能である。ポールの曲は『アンド・アイ・ラブ・ハー』など3曲だけで、他はジョンによる。リーダーとして大活躍だ。
私の好きな曲は、『ハード・デイズ・ナイト(ジョン)番号1』『恋する二人(ジョン)番号2』『恋におちたら(ジョン)番号3』『すてきなダンス(ジョン)番号4』『アンド・アイ・ラブ・ハー(ポール)番号5』『今日の誓い(ポール)番号10』『アイル・ビー・バック(ジョン番号13)』 である。
『ラバ―』もジョンの才能が際立っている。
私の好きな『ノールウエイの森』『イン・マイ・ライフ』『ひとりぼっちのあいつ』(番号4)『ガール』は全てジョンの曲である。それに対しポールの曲で印象的なのは『ミッシェル』だけだ。
ただ、ジョンが光るのはこのアルバムが最後になる。次の『リボルバー』からポールが台頭する。
『サージェント』になるとポールが主導権を握る。背景にあるのはジョンがグループ活動に興味を失って来たことだ。逆を言えばそれだけポールの才能がすごいということだ。
このアルバムは彼らの頂点を示す。様々な実験を行い、ポップスの音楽の可能性を追求した。そしてそれは見事に成功した。アルバム全体に統一感が見られ、芸術的完成度が高い。
当時流行ったサイケデリック・サウンドの影響もあるだろう。
駄作が全くない。全曲、優れている。聴いていて飽きない。
強いて好きな曲を取り上げると、 表題の『サージェント』(ポール)『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイアモンズ』(ジョン)『シーズ・リヴィング・ホーム』(ポール)『ビーイング・フォー・ザ・ベネッフィト・オブ・ミスター・カイト』(ジョン)『ホエン・アイム・シックスティ・フォー』(ポール)『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』(ジョン・ポール)
80年代に入り、レンタルとテープデッキの時代になった。両者を利用すれば、レコードを買わなくてすむようになった。
私は『ウィズ・ザ・ビートルズ』(以下、ウィズ)『ビートルズ・フォー・セール』『4人はアイドル』『リボルバー』『アビイ・ロード』『レット』『ヘイ・ジュード』(コンピレーション・アルバム)『マジカル』(B面はコンピレーション)、『イエロー』(サントラ盤)を借りてカセットテープにダビングした。
所有していたアルバムもダビングしたので、大方の曲を網羅することが出来、車のカセットデッキで主に聴いた。
紙面の都合上、『ウィズ』から『レット』までを取り上げる。
『ウィズ』はイギリス公式盤アルバムの2作目である。
あまり目ぼしい作品はない。初期のアルバムだからチャック・ベリーなど他人の作品も目立つ。
中3の時に買ったアルバム『ビートルズ!』の収録曲とダブっているものもある。例えば『オール・マイ・ラヴィング』などである。
『イット・ウォント・ビー・ロング』(ジョン)など聞きなれない曲が結構あった。
『ビートルズ・フォー・セール』もイギリス盤公式アルバムで4作目になる。
このアルバムの特長は、カバー曲がオリジナル曲に負けず劣らず素晴らしいことである。
ジョンが熱唱する『ロックン・ロール・ミュージック』『ミスター・ムーン・ライト』、ポールの絶叫が特徴的な『カンサス・シティ/ヘイ・ヘイ・ヘイ・ヘイ』等である。
オリジナルではシングルカットされた『エイト・デイズ・ア・ウイーク』(ジョンとポール)やティンパニーを効果的に使った『エヴリー・リトル・シング』(ポール)が印象に残った。
『4人はアイドル』はA面が映画「ヘルプ!」のサントラで、B面はオリジナル曲やカバー曲が入っている。
A面(番号1~7)はジョンの独壇場と言っていい。彼が主に作曲した『ヘルプ!』『悲しみはぶっ飛ばせ』(番号3)『恋のアドバイス』(番号6)『涙の乗車券』(番号7)など名曲そろい踏みである。ちなみに私は『恋のアドバイス』がとりわけ好きである。
とりわけ『ヘルプ!』はジョンのお気に入りである。前作の『ハード・デイズ・ナイト』もそうだが、映画のサントラではジョンの活躍が著しかった。勢いがあった。
それに比しB面(番号8~14)ではポールの才能が頭をもたげた。『イエスタデイ』は言うまでもないが『夢の人』(番号12)の魅力も捨てがたい。
続いて『リボルバー』である。何度も言うようだが、このアルバム以降、ポールが前面に躍り出た。
『エリナー・リグビー』『ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア』(以下、ヒア)『イエロー・サブマリン』『フォー・ノー・ワン』(以下、フォー)『ゴット・トウ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ』で示した才能は群を抜いている。
『ヒア』におけるうっとりするような美しいメロディ、『フォー』におけるピアノを用いた素敵なメロディは天才的である。
弦楽八重奏、効果音、ブラスセクションの使用についてはプロヂューサーのジョージ・マーチンのアイディアが光る。この後のアルバムではさらに彼の能力が生かされる。
彼が第五のビートルズと言われるのは過言ではない。
ジョンの曲では『トゥモロー・ネバー・ノウズ』が卓越している。『ストロベリー』でも用いた逆回転を駆使し、独自のサウンドを織り上げた。
ジョージの 『タックスマン』も捨てがたい。彼の持ち味の片鱗が垣間見られる。
そして『アビイ・ロード』(以下、アビイ)である。これは最後のオリジナル・アルバムとなる。
本作の世評は高く、『サージェント』に匹敵すると言われている。
私も同感だ。とりわけ、B面の「アビイ・ロード・メドレー(番号9~17)」は傑作だ。9曲もの作品を途切れなく続けているのだが、違和感がない。
初期に見られたジョンとポールの一心同体が最後に復活したと言える。
ここでもリーダーシップを発揮しているのはポールである。9曲のうち6曲を作曲している。
最初と最後をポールの作品が占め、間にジョンの3曲が続いている。
ポールはハミングしたくなるような印象的なメロディや感心せざるを得ない展開をここでも示した。
『ユー・ネバー・ギブ・ミー・ユア・マネー』(以下、マネー)や『ゴールデン・スランバー』(以下、ゴールデン)がそれである。
『マネー』の後にコオロギの鳴き声が聞こえる。ポールのアイディアらしい。効果音の導入は『イエロー』などでも見られた。
『マネー』の次からジョンの曲が3曲(番号10~12)続く。『サン・キング』~『ミーン・ミスター・マスタード』~『ポリシー・パン』である。
彼独特の悠長な旋律や独自の節回しはここでも健在である。
途中にスペイン語で歌う遊び心はジョンらしい。ジョンも演出ではポールに負けない。
この後、ポールの『シー・ケイム・イン・ザ・バスルーム・ウインドウ』がつなぐような形入り、前半が終わる。
『ゴールデン』~『キャリ・ザ・ウエイト』~『ジ・エンド』至る最後は圧巻。ポールは彼の才能を遺憾なく発揮し、「ビートルズはこれでお仕舞」という暗黙のメッセージを込めたように見受けられる。
単体の作品が優れているのもこのアルバムの特長である。
ハーモニーの美しさが際立つ『ビコーズ』はジョンの、『オブラダ』路線の楽しい『マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー』はポールの作品であう、それぞれの持ち味を出している。
しかし最大の出来事は、ジョージが何と『サムシング』と『ヒア・カムズ・サン』(以下、ヒア)という2つの傑作を提供したことだ。
最後になってジョージの才能が最大限に花開いた。これにより彼は自信を深め、ソロでもやっていけると確信しただろう。
個人的には『ヒア』を高く評価する。美しいメロディにギター奏法が見事にマッチしている。
リンゴも才能を発揮した。『オクトパス・ガーデン』は会心の作だ。彼の作品では一番の出来だ。
最後のアルバムで4人の才能が爆発したのは嬉しい限りである。
私は2018年にロンドンに行った。その際アビー・ロード及びアビー・ロード・スタジオに足を運んだ。
アビー・ロードにはビートルズファンらしき観光客が何人かいた。

『レット』は解散後に発売された。『アビイ』ロード以前に録音された曲を寄せ集めにしたアルバムである。ゆえに統一感に欠けるが、バンドスタイルに原点回帰した曲が多い。
その風景をドキュメント映画として撮影されていたためサントラ盤にもなっている。
ここで好きなのは『レット』『トゥ・オブ・アス』『アクロス・ザ・ユニバース』(以下、ユニバース)『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』(以下、ロード)である。
『ユニバース』だけジョンの、あとはポールの作品である。
表題作の『レット』は曲も詩も素晴らしい。一度聴いただけで惹きこまれた。
ポールはメロディメーカーとしては天才だ。ビートルズを代表する曲として今でもよく流れる。
こう見て来ると、二人が偉大であることが分かる。
ジョンとポールは共同作業を通じて、それぞれの才能を開花させた。相乗効果である。出会わなければ名曲の数々は生まれなかっただろう。
ジョージも二人に指導されることにより才能が伸びた。
初期から『ラバー』まではジョンの曲が、『リボルバー』から『レット』まではポールの曲が際立つ。
その背景にジョンがグループの活動に飽きたことが挙げられる。
ジョンはオノヨーコと出会ったことで、世界観が深まり、内省的、哲学的志向をするようになった。彼がソロを志向するようになったのは必然だった。
そこにはほとばしり出したポールの才能に対する嫉妬が加わった。これは私の見立てである。
ジョンがグループ活動に興味を失ったのでポールが主導せざるを得なくなった。また彼には、可能にする才能が備わっていた。
結果として『愛こそはすべて』以降に発売されたシングル盤のA面のほとんどがポールの作になった。
『ハロー』『レディ・マドンナ』『ヘイ・ジュード』『ゲット・バック』『レット』『ロード』等。
ジョンの作品は『ジョンとヨーコのバラード』だけである。
私は60代になってからYouTubeでジョンやポールやジョージのソロアルバムを聴いたが、ビートルズ時代の名曲を凌駕する作品が少ない印象を受けた。
それだけビートルズとしての活動が素晴らしかったのだ。
ビートルズの登場は社会現象になった。60年代、昭和時代を振り返ると、必ず彼らの映像が流れる。
彼らが当時の若者(私を含む)に与えた影響は大で、ポップカルチャーの旗手だった。
今、彼らは正真正銘のレジェンドである。
惜しむらくはジョンが1980年に暗殺されたことだ。ジョージも2001年に亡くなった。
ポールだけ80歳を過ぎても公演を行っている。彼以外にはストーンズしかいない。
両者は高齢者の見本である。
ーーー終 わ りーーー
※次回は、ビートルズのアメリカ側の対抗馬であったビーチ・ボーイズについて語ります。







































