私は春と秋に宿泊を伴った遠出の旅行をする。年金暮らしの身なので年に2回しか行けない。
歴史・文化が好きなゆえ行先はどうしても西日本になる。とりわけ、長い日本の歴史において都であり続けた奈良・京都に昨今赴くようになった。
今秋は一度しか足を運んだことのない大阪を中心に奈良と神戸に足を運ぶことにした。
時と訪問先は以下の通りである。
1日目:10月26日(日)
奈良国立博物館
2日目: 〃 27日(月)
大阪城→大阪歴史博物館→四天王寺→通天閣
3日目: 〃 28日(火)
住吉大社→仁徳天皇陵古墳→堺市博物館→大阪市立美術館
4日目: 〃 29日(水)
兵庫県立美術館
[1日目:10月26日(日)]
朝まだき故郷の駅からローカル線で那須塩原駅に行き、始発の新幹線に乗り換える。
東京駅で新大阪駅行き「ひかり」に乗る。時刻や列車番号はいつもの通り。
10時27分に新大阪駅に着き、JR大阪環状線で鶴橋駅へ。
そこで近鉄奈良線に乗り換え、近鉄奈良駅へ。
お目当ての正倉院展を奈良国立博物館で見学。今回で77回目であるが、私は初めてである。
正倉院展は人気があるのだろう、大勢の人が押し掛けていた。外国人の姿も目立つ。
時間制であったこと、前売りのオンラインチケットでなければ入場出来ないこと等により、来場者が多いにもかかわらず過密は避けられた。
オンラインチケットでの入場はこれで3度目であるが、地方に住む者にとってこれほど便利な入手方法はない。
スマホとクレジットカードがあれば申し込みが可能なので家で出来る。メールアドレスにスマホ表示用チケットが送られてくるので、入場の際スマホを提示するだけで済む。
昔コンビニまで行ってチケットを購入したことが夢のようだ。
私は3年前から中央公論の『日本の歴史』シリーズを読み始め、現在戦国時代まで進んでいる。
当然奈良時代(『日本の歴史 奈良の都』〔青木和夫〕)も目を通した。

関係寺院の東大寺、薬師寺、唐招提寺等を訪れたこともある。
しかしこれらの宝物を目にすると、その量と質に圧倒され、さすが青によし奈良の都に花開いた天平文化だと驚かされる。
1300年前の宝物が朽ちることなく保存され続けたのは、校倉造の凄さのおかげである。なんとその数9千件に上るが、公開されたのはそのうちの67件である。
とりわけ、「瑠璃杯(るりのつき)」、「黄熟香(おうじゅくこう)」、「平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう)」、「正倉院古文書正集(せいしゅう)」、「本事経(ほんじきょう) 巻第二」が印象に残った。
「瑠璃杯」の青が実に美しい。西アジアで作られた物がシルクロードを伝わって中国にもたらされ、次に船で日本にやって来た。時空間の広がりと奥行を考えてしまう。照明を効果的に用いた展示方法も上手だ。
「黄熟香」に足利義政や織田信長が切り取った箇所を示す紙片が貼られてあった。この香りは時の権力者をも魅了したのだろう。
「平螺鈿背円鏡」のデザインが素晴らしい。ヤコウガイ、琥珀、トルコ石が美しく配置されている。直径約40センチあるので迫力がある。完成した時の輝きはすごかっただろう。
「正倉院古文書正集(せいしゅう)」からうかがえるのは文書管理の充実である。当時の官僚機構が整っていることが読み取れる。
「本事経 巻第二」では字体の美しさに目を見張った。一字一字を楷書で丁寧に書いてある。驚くことに間違いを訂正した箇所がない。
2023年冬に初めて奈良を訪れた時、正倉院に寄ったのだが、想像以上に大きかったことを覚えている。

保存効果を高めるために戦後コンクリート製で空調が効く新たな宝庫を作った。
天平文化の中心にいた聖武天皇とその妻光明皇后が脳裏に浮かんで来る。彼らはどういう人物だったのだろう。俄然興味が湧いて来た。
この記事を綴っていた時、NHK・Eテレの『日曜美術館』で「正倉院展」を取り上げていた。新たに気付いた事実があり、勉強になった。
見学終了後、近鉄奈良線で大和西大寺駅まで戻り、15分程歩いて今夜の宿「亀の井ホテル奈良」に行く。
知人の紹介で泊まることになったが、リーズナブルな価格の割には会席料理の夕食が美味しかった。
[2日目:10月27日(月)]
美味しかった朝食後、大阪城に向かって出発。近鉄奈良線で大阪の鶴橋駅まで行く。30分くらいしかかからなかった。
奈良が大阪にこんなに近いとは驚きだ。通勤圏に入っている。車内は通勤客でいっぱいだった。
鶴橋でJR大阪環状線に乗り換え、5分ほどで大阪城公園駅に到着。
駅から入場券売り場までけっこう歩く。その間いろいろな門をを潜る。どこからも天守閣が見えた。
月曜日だというのに見学者が多い。日本人にとっては平日なのでインバウンド客が目立つ。西欧人やアジア人が目に付く。
大阪城はオリジナルの城ではないのでエレベーターで天守閣の上まで行く。
天守閣から大阪の街を眺めていると、いろいろな感興が湧く。
秀吉時代やその前後については『日本の歴史12 天下統一』(林家辰三郎)で読んだ。
大河ドラマで何度も見たが、1965年の大河ドラマ「太閤記」(緒形拳主演)の印象が強い。60年前の番組なのに様々な場面を覚えている。
天下を統一し大阪城という巨大な城郭を建てたのに、秀吉が常駐していた城は伏見城である。亡くなったのもそこである。
ということは、大阪城は権力の象徴として建てられたのだろうか。
天守閣から大阪の街を見渡した時が絶頂だっただろう。
まもなく彼は老人性の疾患にかかったのか、おかしな振る舞いをするようになった。秀次切腹及びその一族皆殺し、朝鮮出兵、秀頼の溺愛等枚挙に暇がない。
この城は大阪冬の陣で外堀が埋められ、夏の陣で炎上し、大阪の街まで灰燼に帰した。
天守閣から階段で降りる。
各階には展示室が設けられている。
秀吉や大阪の陣(冬・夏)の関係資料(絵図や武具等)が展示されていた。
家康は残忍(戦国大名はほとんどそうだが)で、秀頼の子も惨殺し、豊臣家を根こそぎにした。
江戸時代に入ると、天守閣は再建されたが、幕末の戊辰戦争で焼失し、昭和に入って今の天守閣が建てられた。
天守閣を出ると、さらに観光客が増えていた。大阪万博は終わったのだが、その影響は今でも続いているのだろうか。
見学後、近くにある大阪歴史博物館に寄る。細長いマンションのような立派なビルである。
エレベーターで10Fまで上がる。そこに古代大阪の資料が展示されていた。1階ずつ下りて行くにしたがって現代の大阪にたどり着くようになっているらしい。
古代の大阪は難波津(なにわづ)と呼ばれていたように、かなりの部分が海であった。大阪城は上町(うえまち)台地という細長い陸地の先端に建てられた。古代の古墳、難波宮、住吉大社、四天王寺もこの台地に設けられた。
9Fには戦国時代や江戸時代関係である。
大阪城が出来る前、この地には石山本願寺が建っていた。寺内町という街が寺を囲み、宗教都市が形成されていた。この寺の力は強くで信長を散々苦しめた。
(石山本願寺の模型)
石山本願寺の存在、大阪城の築城、夏の陣による灰燼化、「天下の台所」と呼ばれた江戸時代における復興、元禄期には江戸をしのぐ繁栄・・・大阪は目まぐるしく変化した。
元禄期の実物大の橋や店が設けられ、観ていて面白い。視覚に訴える方法が斬新である。なお、これはどの階にも言えた。
7Fには近現代の大阪の街が再現されていた。大正時代から昭和の初期にかけ、大阪は「大大阪」と呼ばれるように再び日本一の活況を示した。
私は文学老人なので、この頃の大阪を舞台にした小説『大阪の宿』(水上滝太郎)を思い出す。関東から転勤して来たサラリーマンの青年が下宿先などで味わった体験をあたたかい心情で描いている。
大阪が面白いと思うことの一つに庶民的なことが挙げられる。東京と違って気取ったところがない。実にフレンドリーだ。
私はYouTubeで日本に住んでいる西欧人の動画をよく見るが、東京より大阪の方が住みやすいと答える人がけっこういた。西欧人は感情を素直に表現するから、大阪人に親近感を抱くのだろうか。
私の父親は田舎で衣類の小売店を経営していた。彼は喜怒哀楽が激しいが、誰にでも声を掛けられる庶民性に富んでいた。北関東ではなく大阪に住めば、彼の持ち味をもっと発揮できたのではないかと思ったことがある。
私も60代の半ば頃から四国お遍路をしたり、京都・奈良へ歴史紀行をしたりしてからすっかり西国地方の魅力にはまってしまった。
北関東で生まれ育ち東京で大学生活を送ったりしたせいか、昔の私にとって関西は縁遠い地方であった。大阪・京都・奈良・神戸には高校の修学旅行以外に訪れたことがなかった。大学でも関西出身者はいたが、彼らの多くは標準語を話していたので、関西弁を聞く機会がなかった。
しかし今は違う。旅行と言えば、北海道や東北など北の方角ではなく、西に向かう。
歴史と文化の奥の深さと庶民性。関西の魅力はこれに尽きる。
とにかくこの博物館は充実していた。大阪の歴史を学ぶのに格好の施設である。
午後は聖徳太子ゆかりの四天王寺に参った。
大阪メトロ谷町線に谷町4丁目駅から乗り、四天王寺夕陽ヶ丘駅という長い名前の駅で降りた。5、6分程歩くと着いた。
四天王寺は『日本書紀』によれば593年に聖徳太子が建立したという。日本で2番目の古さである。なお最古の寺は蘇我馬子が建立した法興寺(飛鳥寺)である。
しかし現代の実証史学の発達では、完成したのは聖徳太子の死後の630年代らしい。聖徳太子が建立したもう一つの寺の法隆寺(斑鳩寺・若草伽藍)の方が先に完成したと言われているらしい。
今回の旅に先立ち、吉村武彦の『聖徳太子』(岩波新書)を読んだが、このことに触れていた。
以前読んだ『日本の歴史2 古代国家の成立』(直木孝次郎)にも似たような記事があった。
なお聖徳太子が建立した寺は全部で7つあると言われていたが、実際は上記の2つだけである。
聖徳太子は死後伝説化された時に発生した名であって、本名は厩戸王子(うまやとのみこ)である。彼は蘇我氏と共に物部氏と戦い、必勝祈願に四天王像を作り、戦勝後にそれを収める四天王寺を建立したと言われている。
伽藍は現代まで戦いや自然災害で何度も焼失し倒壊した。江戸時代の後期に伽藍は再建されたが、太平洋戦争の空襲で灰燼に帰した。
現在の伽藍は戦後に再建された。そのせいか古色蒼然とした風雅は見られず、正直物足りない。引き付けられる美がない。法隆寺に比べたら雲泥の差である。
でも、それが歴史だ。諸行無常。いつかは滅びる。法隆寺のように現存していることは奇跡だ。
これから今日の宿泊先に向かう。
夕陽ヶ丘駅から谷町線に乗り、次の千日前線に乗り換えて鶴橋駅まで行き、再び大阪環状線に乗り換えて新今宮駅に着いた。
新今宮駅の前にある「チサンスタンダード大阪新今宮」というビジネスホテルが今日の宿である。
大阪万博中はホテル代が高かったが、終わった現在安くなった所も出て来た。ここはツインで1泊(朝食無し)で13000円である。
一休みしてから通天閣に行く。
歩いて15分くらいか。以前来阪した際、道頓堀で食べたたこ焼きの美味しさが忘れられなかったので通天閣でも食べることになった。
夕闇に包まれた通天閣のネオンが美しい。
それよりも驚いたことは外国人旅行客の多さである。西欧人がやけに目立つ。英語、スペイン語など様々な言葉が飛び交っている。
お目当てのたこ焼き屋が休みだったので、他を探したら1件しか見当たらないのでそこで食べることにしたのだが、前回に比し美味くなかった。焼いている人はアジア人か。人手不足なのだろう。それでも行列が出来ている。我々のような日本人老夫婦は見かけない。
食後、通天閣に上る。ここも人がいっぱいだ。言葉から韓国や中国の旅行客が目に付く。この時期旅行に来られるのは富裕層か。
最上階に上る。夜景はきれいだ。三日月も出ている。ここはただの観光地なので、感興が湧かない。
[3日目:10月28日(火)]
早朝、ホテルを出、新今宮駅から南海本線に乗って住吉大社駅に行く。10分もかからなかっただろう。
大社は6時30分から開いている。着いたのは7時前だったが、近隣に住んでいると思われる人が散歩やジョギングのついでにお参りしていた。住民に親しまれていることは間違いない。
私がここを参りたかった理由は、源氏物語や遣唐使とゆかりがあるからである。
私は2年前に半年以上をかけて谷崎潤一郎訳『源氏物語』を読んだ。

「澪標」の章で光源氏が住吉大社に参詣する場面が出て来る。
その場面を俵屋宗達は描いた。『澪標図』といい、国宝である。それをある企業が陶板に焼き付け、寄贈し、大社の新たな名物になった。見ごたえがある。
また、彼が須磨で住吉明神に祈願したことから明石の君と結ばれるきっかになった場所としても登場する。他にも何回か触れられていたと思う。
ということは、平安時代において大社が貴顕の人の信仰を集めていた証拠である。
さらに時間は遡り、古墳時代から海の神が祀られていたらしい。現在祭神は、海の神の筒男三神と神宮皇后である。
この辺りに住吉津(すみのえのつ)という港があり、遣隋使や遣唐使は出航するにあたり、大社に祈願した。
とにかく住吉大社は歴史に何度も登場する由緒ある社である。
筒男三神と神宮皇后を一柱ずつ祀るようになっているため本宮が第一から第四まである。
(第一本宮)
(第二本宮)
(第三本宮)
(第四本宮)
屋根が檜皮葺で、「住吉造」という古代の建築様式であるため国宝に指定されている。それゆえ風格に満ち、観ていて飽きない。参拝者が少ないこともあり、厳かな雰囲気に浸ることが出来た。
満ち足りた気分で次の目的地に向かう。
大社の裏手に南海高野線が走っている。大社の鳥居の前の道路には阪堺電鉄阪堺線という路面電車のような電車が走っていた。
大社の近辺には計3本の鉄道が伸びているということだ。交通の利便性がいい地区である。ちょっと遠いが東にはJR坂和線も走っている。
南海高野線の住吉東駅から乗り、三国ヶ丘駅で降りる。
今から大仙陵古墳の周囲を歩く。
私が中高生の頃は、「仁徳天皇陵」(宮内庁の見解による)と習ったが、実際の被葬者は誰か分からないため、歴史学会でこの地区の地名を取って「大仙陵古墳」と現在呼ばれている。
今回この旅を行うのにあたり、『日本の歴1 神話から歴史へ」(井上光貞)』を再読し、新たに吉村武彦の『ヤマト王権』(岩波新書)を読んだ。
歴史学から見て古代の天皇で実在したとされるのは15代応神天皇(仁徳天皇の父)以降の天皇である。10代の崇仁天皇から14代までは「実在したかもしれない」と疑問符が付き、初代の神武天皇から9代開化天皇までは神話の中の人物である。
日本における最古の歴史書は『古事記』と『日本書紀』である。それ以前に存在した『天皇記』や『帝紀』や『旧辞』は焼失してしまった。
仁徳天皇に関する記述は日本書紀にあるが、多くは歴史的事実としては認められてない。
ただ、後世に贈られた贈り名「仁徳」からも分かるように立派な政を行ったとされている。
飛鳥から難波に都を移したことは事実のようである。だからこの陵が仁徳天皇の墓とみなされて来たのかもしれない。
要するに仁徳天皇そのものについてもよく分からないのだ。彼の実像に少しでも迫ろうとするなら仁徳天皇陵を学術調査する以外ないのだが、宮内庁は認めてない。ここばかりでなく天皇陵とされる古墳のほとんどを認めていない。
陵は外濠に囲まれ、濠に沿って周遊路が設けられている。約3キロ。
濠に面して鬱蒼とした木々が延々と続いている。これは陵ではない。外側の森林である。陵が見えないので古墳というイメージが湧いてこない。
途中にある正門前では手を合わせた。
本来なら正門前に広がる大仙公園内にある堺市博物館に入りたいのだが、開館の9時半まで約2時間ある。時間が勿体ないので、先に堺市役所ビルの展望ロビーを訪れることにした。そこから日本最大の仁徳天皇陵やその他の古墳が眺められるので、ぜひ展望ロビーに上がることを知人から勧められた。
なおこれら一帯の古墳は総称して百舌鳥(もず)古墳群と名付けられており、世界遺産である。
行くには三国ヶ丘駅から電車に乗り、戻る形で隣の堺東駅で降りなければならない。
展望ロビーのオープンは9時からである。まだ時間があるので駅近くのマックでコーヒータイム。
市役所は駅前にある。
ビルは2棟建てで、高い方は高層館と呼ばれ、最上階の21階が展望ロビーになっている。
南東の方角に仁徳天皇陵が遠望出来る。ただ、この高さでは仁徳天皇陵の全貌は見下せないことが分かった。あべのハルカスのような高さでなければ無理なのだ。
階には百舌鳥古墳群の模型がある。
一番下の古墳は「履中天皇陵」で日本で3番目に大きい。
これらの古墳は現在海から離れているが、古代は海辺の小高い台地に造られた。渡来して来る朝鮮の船に政権の強さを誇示するためである。彼らはその威容に驚いただろう。私は古代史に凝ったことがあり、とても興味深く鑑賞できた。
続いて堺市博物館に向かう。駅前からバスに乗れば、博物館前で降りられる。
博物館は大仙公園内にあるが、園内に入ると「おおさか堺バルーン」の気球が見えた。
上空100mから百舌鳥古墳群の絶景パノラマが眺められるらしい。せっかくの機会だから乗ることに決めた。
高度が上がるにつれ、仁徳天皇陵が見えた。
私はどちらかと言えば、高い所は苦手の方である。100mの高さではどうしても揺れる。風が顔をさする。手すりをしっかりつかんだまま撮影したのだが、景色を満喫することは出来なかった。
この後、園内にある堺市歴史館に寄る。
その名の通り、市の歴史に関する資料が展示されている。とりわけ埴輪など百舌鳥古墳群の資料が多い。
市役所21階ロビーに展示された資料と重複しているので私の関心を集めるものは少なかったが、古代から奈良時代まで日本の中心である奈良を思い浮かべると、大阪湾一帯無しには奈良が存在しえなかったことに改めて気づいた。
戦国時代、堺は貿易港として発展した。その展示物を拝見していると、NHK大河ドラマの「黄金の日々」を思い出した。堺の貿易商や当時の自治制度を描いていたので、「あの戦国時代にしては画期的な街だ」と思って毎回興味深く拝見していた。
考えてみれば堺は古代から外国の窓口として存在し続けていた。栄枯盛衰はもちろんあったが、進取の精神は涵養されただろう。その土台の上に千利休や与謝野晶子という大輪が花開いた。
私はこの資料館では古代より中世以降の展示に惹かれた。
ここからJR坂和線の百舌鳥駅が近い。
阪和線に乗り、一気に天王寺駅へ。この駅はハブ駅なのだろう、多くの路線が集合している。
次の目的地は大阪市立美術館である。駅から近いのだが、この一帯は公園になっている。平日だというのにすごい人出である。どちらかと言えば日本人の方が多い。動物園もあるせいか、小学生から高校生までの学生の姿が目に付く。
この美術館の建物は趣がある。正面の階段の大きさが館を引き立てている。
美術館では大阪万博のイタリア館で公開された「天空のアトラス」などの国宝が引き続き展示されると聞いていたので、入ろうとしたら、予約者のみだという。
常設展の一部なら鑑賞できるというので入館したら、古代中国の仏像関係ばかりだった。絵画作品は見られなかった。パンフレットもなかった。がっかり。あまり関心がないので飽きてしまった。
常設展の展示物は住友財閥を初めとした富裕階級の寄与らしい。
裏手には「慶沢園」という日本庭園が広がっている。戦前住友が寄贈したという。
この手の日本庭園は京都や東京で数多く見て来たので感興を覚えなかった。
夕飯の時刻にはちょっと早いが、四天王寺夕陽ヶ丘駅から歩いていける「ロイヤルホスト」で夕食を食べた。
ここでも使えるギフト券をもらったからだ。この高級ファミレスの味が私は好きだ。
満足してホテルに戻る。
[4日目:10月29日(水)]
これから神戸に行き、兵庫県立美術館を訪れる。
今から6年前、お遍路の帰りに一度神戸に立ち寄った。その目的は横尾忠則のイラスト作品(ポスター)と小磯良平の「斉唱」を観るためである。
『腰巻お仙』(横尾忠則)
『斉唱』(小磯良平)
それらが展示されているのは横尾忠則現代美術館(兵庫県立美術館王子分館)と神戸市立小磯記念美術館であると思い、まず横尾美術館に行った。
そうしたらここには展示されていない。あるのは彼が80年代に画家に転身してから描いた絵画作品ばかりである。
私が観たいのは彼がイラストレーター(グラフィックデザイナーでもよい)時代のすなわち60年代70年代のイラスト作品である。わざわざ神戸まで来たのにかの有名な『腰巻お仙』をはじめとしたポスターが全く観られない。
事前に調べてから来ればよかったと後悔した。
次に幾つかの電車に乗って神戸市立小磯記念美術館を訪れた。
そうしたら『斉唱』がないのである。ここにあるのは代表作ではない作品と再現したアトリエなどであった。
館員に尋ねたら『斉唱』は兵庫県立美術館にあるという。調べたらそこに「小磯良平記念室」があり、代表作の多くが展示されていることが分かった。
2度目の失敗。幾つもの電車に乗り換え、慣れない土地を歩き回った結果、見果てぬ夢に終わってしまった。このショックは大きかった。
今回は失敗しないように『斉唱』が本日展示されているかどうかを美術館にメールで問い合わせた。
公開されているという。その返信を得たので満を持して訪れた。
まずJR大阪駅に行き、朝食に大阪名物きつねうどんを食べた。
阪神線で行くことにしたので大阪梅田駅に行き、直通特急という意味が分からない電車に乗った。
御影駅で各駅停車に乗り換え、岩屋駅で降りる。
駅から10分程海に向かって坂を下ると、目指す建物が見えて来た。屋上から巨大なオブジェが顔を突き出している。ユニークな外観である。
入り口は運河側にあった。こちらにもオブジェが建っていた。
美術館は白色に統一されたお洒落で斬新な造りである。階段の幅も広い。貿易都市神戸に似合う。
会館時刻前のせいか並んでいる人は少ない。
小磯良平記念室は常設券で観られるので企画展の券は買わなかった。真っ先に記念室に向かう。我々だけである。他の人たちは企画展の方に行ったらしい。
おかげでじっくり鑑賞でき、『斉唱』を独り占め出来た。立って観たり座って観たり、遠近をつけて観たり、幸せなひと時を過ごせた。なんとここの常設展作品は写真撮影可である。太っ腹な美術館である。早速スマホに収めた。
この絵の魅力は何だろう。画面から漂って来るのは清潔さだ。乙女たちの服の黒が圧倒的である。何しろ絵の3分の2を占めている。顔の白さと背面の壁の白が黒を引き立たせている。彼女たちの顔立ちは西欧人に近い。神戸に育った人なので西欧へのあこがれが強いのか。彼女たちはなぜか裸足。無心に歌う姿は純粋で無垢だ。
この絵が描かれたのは太平洋戦争直前である。よく知られているように彼は日中戦争の従軍画家であった。本作の創作に戦意高揚の意識もあったかもしれない。
しかしこの絵から戦争は感じられない。それだからこそ今でも人を引き付け彼の代表作となっているのだろう。
この1点の絵を観に栃木からやってきた甲斐があった。
他の作品でも幾つか惹かれるものがあった。
『斉唱』同様色の使い方がけばけばしくなく、パステルカラーのような色が用いられ、明るく、静謐さが感じられた。
彼の絵は私の感性に合う。
満ち足りた気分で帰途に就く。感動のあまり岩屋駅を過ぎてしまった。前方にJR灘駅が見える。そう言えば6年前横尾展を見に行くのにここに降りたことを思い出した。両駅がこんなに近いとは驚きだ。
さてこれで今回の旅は終わりである。来た電車で大阪に戻り、
新幹線の「ひかり」に乗り込む。時刻は1時過ぎ。最近いつもこの時間帯の「ひかり」を利用している。がらがらに空いているからだ。
夜の7時過ぎ、無事に故郷の駅に着いた。
ーーー終 わ りーーー
※次回は絵画の話をしようと思います。私の趣味の一つに絵画鑑賞がありますが、絵画については一度しか語っていません。語りたい画家はたくさんおります。トップバッターに尾形光琳を取り上げます。




















































































