さて今回は往年のアメリカ名画についての思い出を語りたい。これでアメリカ映画編は終わりとする。

 これらの作品は戦前から1960年代前半までに公開され、ハリウッドで作られた。言わばハリウッド映画全盛期を飾る作品ばかりである。

 名画なので、東京の名画座や場末の映画館によく掛かっていた。それだけ一定の集客が見込まれたのだろう。

 

 戦前の映画から見てみたい。

 まずチャップリンの映画である。 

  彼の名は小さい頃から知っていたが、彼の映画を見たのは大学時代になってからである。初めて見たのは『モダン・タイムス』(1936年:チャップリン)で、確か新宿のパレス座だったと思う。有名な作品なので期待して見に行ったが、正直言って彼の面白さが今一つ分からなかった。

 その後、『独裁者』(1940年:)を見たが、これも心底から笑えなかった。

(白黒映画なのになぜかポスターはカラー)

 映画の主題は分かる。ただ、彼の喜劇スタイル、いわゆるドタバタ劇が私には合わなかった。ルイド・フュネスの喜劇の方がはるかに笑えた。白黒の画面や無声スタイルも古臭く感じられた。

 しかし、それから半世紀後、私はNHKBSプレミアムで上記の2作を見た。その時、笑いと涙に包まれ、最後は感動した。この名作の素晴らしさに圧倒されてしまった。このチャンネルは『キッド』、『殺人狂時代』、『街の灯』など彼の代表作をほとんど放映したので、私は見逃さなかった。

 彼のすごさが分かるまで半世紀を要した。人生経験を経ないと分からない面があったのだ。話は飛ぶが、これと似た経験は小津安二郎でも味わった。

 

 次は、ハンフリー・ボガードの映画である。

 彼が主演した映画は2作見た。いずれも名画座である。一つはハードボイルド作品『マルタの鷹』(1941年:ジョン・ヒューストン)で、白黒映画である。

(これまたポスターはカラー)

もう一つは恋愛映画『カサブランカ』(1942年)で、これも白黒である。

(これもポスターはカラー)

 これらの感想もチャップリンの映画と同じようなものだった。それなりに面白いのだが、引き込まれるような感動はなかった。私の同時代の作品はアメリカのニューシネマや仏伊の斬新な映画である。これらの作品をリアルタイムで味わっていた私には上記の作品は物足りなかった。場面の展開、音楽、演出、白黒画面が時代的なのである。古色蒼然さは否めなかった。

 同じく感動したというのではなかったが、強い印象を残した作品には『市民ケーン』(1941年:オーソン・ウエルズ)が挙げられる。主演もウエルズで、白黒映画である。

  作品自体に力があり、戦前のアメリカの大衆資本主義社会の現状を新聞という切り口で暴いてみせた。その巨大な渦を操縦しようとした男の人間性がえぐられていた。伏線として張り巡らせた「バラの蕾の謎」が最後まで観客を引っ張てくれた。

 戦前の映画で私が感動した作品は次の2つである。

 1つは、『嵐が丘』(1939年:ウイリアム・ワイラー)である。監督のW・ワイラーは戦後、『ローマの休日』や『ベン・ハー』など映画史に残る名作も作った。ハリウッドを代表する名監督である。

 この映画は戦後何度か公開された。私が高1の時にも公開され、その時もヒットした。私は見ることが出来ず、大学生になって見た。

(『嵐が丘』と言えば、このポスターである)

 白黒映画だが、かえってだからこそ19世紀前半の荒涼としたイングランド中部の田舎の雰囲気を再現出来た。ローレンス・オリビエ扮するヒースクリッフの存在が際立ち、キャサリンと彼との狂おしいまでの純愛が私に強烈な印象を残した。

 白黒映画でこんなに感動した洋画は初めてと言ってよかろう。その後、私は原作を読んだが、原作はもっと素晴らしかった。映画で描かれたのは原作の第1部であることも分かった。サマセット・モームが「世界十代小説」の1つに選んだのは当然である。ドストエフスキーの作品に通じる、色々な意味で重厚な作品である。

 もう一つは『風と共に去りぬ』(1939年:ヴィクター・フレミング)である。この映画は質量共に優れ、ハリウッドを代表するまさに「すごい」作品に仕上がった。

 私は中3の時に原作の小説を読んだ。読解力が育ってない当時の私にとって、あまりにも長過ぎ、途中で何度も辟易したが、数か月間かかってなんとか読了した。

 その経験があったのでなんとかこの有名な映画を見たかったが、高校時代にお目にかかる機会がなかった。それゆえ大学時代に名画座に掛かった時、すぐ見に行った。

 最新のテクニカル・カラー技術で撮影され、上映時間も3時間40分という大長編である。費用もすごくかかっているだろう。戦争や、館の炎上シーンに迫力があり、思わず前のめりになってしまった。クラーク・ゲーブルとヴィヴィアン・リーの演技力も素晴らしく、食い入るように見つめたことを覚えている。

 こんなカラー映画をアメリカは太平洋戦争が始まる前に完成させた。そんな国と戦争したのだから、日本が負けるのは当たり前である。戦前、日本国民がこの映画を見ておけば、アメリカのすごさに圧倒され、開戦気分にブレーキがかかったかもしれない。

 

 さて、戦後に移ろう。

 昭和20年代に作られた映画で強烈な印象を抱いたのが『欲望という名の電車』(1951年:エリア・カザンである。白黒映画である。

 ヴィヴィアン・リーは、『風と共に去りぬ』とは全く違う一面を見せた。その演技力は素晴らしかったが、それ以上にインパクトがあったのはマーロン・ブランドである。この前に、やはりカザンの『波止場』(1954年)を見ていたが、この時も彼に圧倒された。

(ポスターはカラーだが、映画は白黒である)

 ハンサムではない。悪の臭いが感じられるが、それだけではない。存在そのものに凄みを感じるのだ。老年になってゴッド・ファーザーのボスの役が回って来たのもうなずける。

 彼は役者としては名優だろう。スクリーンに登場すると、他の役者がかすんで見えた。『欲望という名の電車』の主人公はヴィヴィアン・リーだが、私の記憶にあまり残ってない。

 これら2つの作品が白黒だというのもブランドの存在感を際立たせた。白黒は陰翳の美を醸し出すので、ブランドのような「暗」が強い俳優には向いているのである。

 彼の前では、私の最も好きな俳優であるポール・ニューマンも小さく見えるのではないかと思った。

 結局私は、彼の強烈な個性についていけなかったのだろう。上記の作品しか見なかった。好きな俳優という範ちゅうを越えてしまった。

 

 エリア・カザンで思い出したが、カザンと言えば、ジェームス・ディーンを主役に用いた『エデンの東』(1955年)について語らなければいけない。私はこの映画を高校生の時に見たが、正直言って、つまらなかった。この作が人気があるのはディーンが若くして死んだからだろう。主題曲が日本人好みであることも挙げられよう。

 場末の映画館や名画座で本作は『シェーン』と共によくかかっていた。だから私は否応なく何度も見る機会に恵まれた。当時は今と違い、2本立てか3本立てなので何かの作品と併映されることが多かった。

 そのうち、本作の持つ良さが味わえるようになった。この映画を最初から最後まで支配しているのはディーンの寒々とした孤独感である。それが日本人の感性に合っているように思われた。日本人は今でも太宰治が好きである。それがディーンにも現れているのだ。

 彼はたった3本の映画にしか出なかったが、他の2本『理由なき反抗』と『ジャイアンツ』も見た。どちらも私には今一つの作品だった。

 

 ディーンはエリア・カザンが関わったアクターズ・スタジオで学んだ。

                      (エリア・カザン監督)

(アクターズ・スタジオはニューヨークのマンハッタンにある)

 この演劇スタジオはハリウッドの登竜門と言うべき学校で、数多くの有名俳優を輩出した。マーロン・ブランド、ポール・ニューマン。スティーブ・マックウイーン、ダスティン・ホフマン、アル・パシーノ、メリル・ストリープなど映画界を代表するスターがそうである。まことに圧巻ともいうべき学校である。

 カザンは有名俳優を育て、映画史に残る名作を立て続けに発表した。やはり名匠というべき監督である。

 

 昭和20年代から30年代に日本人にインパクトを与えたアメリカ女優は何と言っても、マリリン・モンローである。

 

 彼女の映画など見たことがなかったが、私は小学生低学年の頃には彼女の名を知っていた。ちなみに彼女が自殺したのは私が小5の時で、その朝登校すると、その話題で持ちきりだった。田舎の小学校においても話題になるということはそれだけ彼女が日本人に人気があった証拠である。

 しかし、それから約10年後、大学生になっていた私は彼女の映画に全く関心がなかった。彼女は私の好みの女性でなかったからである。したがって名画座で上映されても見に行かなかった。

 その中で、唯一見た作品が『帰らざる河』(1949年)である。たまたま他の作品を見に行ったら、併映されていたので見たことを覚えている。

 この映画のモンローはよかった。特に酒場で主題歌『帰らざる河』を歌うシーンは忘れられない。あの鼻にかかったような甘い声、まさにセクシーボイスだと思った。

 モンローより日本で人気が出たのは、何と言ってもオードリ・ヘップバーンである。

 ただ、彼女も私の好みではなかった(私は、ソフィア・ローレンに代表されるイタリア人女優が好みだった)ので、進んで見ようとはしなかった。『ローマの休日』(1953年)や『マイ・フェア・レディ』(1964年)もたまたま見たに過ぎなかった。ゆえに感動するまでに至らなかったが、唯一大好きな作品は以前の記事でも触れたように、『ティファニーで朝食を』(1961年)である。ここに登場したヘップバーンは私を虜にした。したがって大学時代にも見た。

                    

 

 戦後のアメリカ映画で日本で人気があったのは西部劇である。その傑作と言えば、『シェーン』(1953年:ジョージ・スティーヴンス)である。前述したようにこの作品は日本人に人気があるため名画座で時々上映された。

 ふらりとやって来て、弱気を助け、終わると去って行くという構成は古今東西の娯楽映画の常道である。副主人公の寡婦と結ばれず、新たな旅に出るシェーンの名を寡婦の息子が呼び続けるラスト・シーンは有名であり、哀愁のある主題曲が観客の感情をかき立てる。この名シーンを見たいたがために、2度目と3度目は途中退場しなかったのだ。

   

 

 西部劇と言えば、ジョン・ウエインの名が浮かぶが、私は彼の作品に興味がなかったのでほとんど見なかった。

 他に西部劇で私の印象に残ったのは、『荒野の七人』(1960年)である。ユル・ブリンナー、スティーブ・マックウィン、ジェームス・コバーン、チャールズ・ブロンソン、ロバート・ヴォーンなど私の好きな俳優が勢ぞろいしたことと、本作が黒澤明の『七人の侍』のリメイク作品だったことに私は強い関心を抱いた。作品自体は典型的な娯楽作品なので時間をつぶすには好都合だった。

 

  続いて『風と共に去りぬ』のような大作を見てみよう。それは『ベン・ハー』(1959年:ウイリアム・ワイラー)である。厖大な予算で、ハリウッドの威信をかけて作られたと思われる史劇というべき作品だった。

 その最大の場面がローマの競技場におけるチャリオットの競争シーンである。当時はCGがない。全て実写である。ゆえに迫力があり、観客の一人になった臨場感を味合わせてくれた。

 しかしこのような大仕掛けの場面中心の映画に終始していたらこの作品はアカデミー賞を獲得しなかっただろう。キリストとのからみがこの作品を質の高い作品に仕上げさせた。「隣人を愛せよ」というキリスト教思想が作品の背骨になっていた。

 史劇に近い文芸大作をもう一つ見た。『戦争と平和』(1956年)である。ただ、時間の制約もあり、本作は原作のストーリーを追うだけで精一杯だった。秀作とは言えない。ソ連版の『戦争と平和』もあるが、こちらの方がどちらかといえば優れていた。

 ナターシャ役はオードリー・ヘップバーンである。私は原作を読んだが、ヘップバーンはこの役に向いていると思った。なお、原作は世界最高の文学である。

 文芸物で一番感動したのは、ヘミングウェイ原作の『武器よさらば』(1957年)である。上記のような大作ではない。予算が多いからと言って名画が誕生する訳ではない。

                             

 これは第一世界大戦のイタリア戦線が舞台である。そこで負傷した主人公は従軍看護師の女性と知り合いになり、愛し合い、結婚する。看護婦の名はキャサリン・バークレー。戦争の後の平和。しかし平和はいつまでも続かない。彼女は初産の後に亡くなってしまう。雨の中病院を主人公が病院を去るラスト・シーンは今でも焼き付いている。「禍福は糾える縄の如し」という格言に基づいたようなストーリーだった。

 『戦争と平和』、『ドクトル・ジバゴ』、『誰がために鐘は鳴る』(ヘミングウェイ)も同様だが、戦争を舞台にした作品の恋愛は死が隣り合わせなので、観客に深い感銘を与えられる。

 映画に感動した私は早速原作を読んだ。

 ヘミングウェイの文体は簡潔で、描写力に富んでいる。冒頭の自然描写は目に浮かぶような名文になっている。こんな点も彼が日本で人気のある理由だろう。

 『誰がために鐘はなる』についても言えるが、彼の作品は映画に向いていると思った。


 第二次世界大戦が終わって10年くらいたつと、アメリカでは新しいスターが現れた。エルヴィス・プレスリーである。歌手として大成功した彼をハリウッドは放っておかなかった。彼は瞬く間に映画スターにもなった。 

 私は、自作自演する才能に恵まれた歌手やグループが好きなので、エルヴィスの音楽には今一つ興味がなかった。まして映画は尚更である。ほとんど見なかった。

 そんな私に強烈なパンチを浴びせたのが、『ブルー・ハワイ』(1961年)である。

 青い海と強烈な太陽を賛歌し、観客を楽天的でハッピーな気分にさせる典型的な娯楽映画である。主題歌の『ブルー・ハワイ』、挿入歌の『好きにならずにはいられない』『ハワイアン・ウエディング・ソング』など名曲ぞろいである。

 最初から最後まで楽しめた。館を出た後、「海に行きたい!」と痛烈に思った。

 私は中学時代に加山雄三主演の『海の若大将』が大好きだった。その元祖ともいうべき映画なので、後で気づいたのだが、好きになるのは当然だった。

 

 その他、やや印象に残っている作品を羅列してみよう。

 高校時代はミュージカルが好きだったが、大学生になるとあまり興味が持てなくなった。『足長おじさん』(1955年)やジュリー・アンドリュースの『メリー・ポピンズ』(1964年)を見たが、それほど感動しなかった。

                        

 戦争を背景にした映画もよく見た。ただ、印象に残ったのは、『栄光への脱出』(1960年)や『大脱走』(1963年)くらいである。

 最後に、ヒッチコック監督の映画についてふれよう。

 私は彼の作品に興味が湧かなかった。チャップリンの場合と同じである。しかしどこかの名画座でたまたま見た『鳥』(1963年)には衝撃を少なからず受けた。普段見慣れている鳥が人間が襲うという発想が素晴らしかった。その恐怖を特撮でよく表現していた。

 住民がその原因をその地区にやって来た女主人公のせいにするという魔女狩り的見方も、いかにもアメリカ人の特性をとらえているように思われた。トランプ大統領支持派の保守層を見ても分かるように、アメリカには反知性主義の国民が岩盤のように存在している。

 しかし、鳥の獰猛化の原因を追究しなかった点は惜しまれる。もし環境汚染に求めるなら、現代の環境問題を予言した映画になっていただろう。

 60歳を過ぎてから、NHKBSプレミアムでヒッチコックの映画をたくさん見た。NHKはなぜかチャップリンとヒッチコックの作品の多くを繰り返し放送した。今でも視聴者に人気があるのだろう。

 その結果、ヒッチコックのよさが次第に分かって来た。また、一作ごとにテーマや趣向を変え、絶えず進化する姿勢が見られた。ユーモアも素晴らしい。やはり偉大な監督である。

  今回この記事を書くに当たって資料を調べた結果、自分では多くの作品を見たと思っていたことが、実は幻想に過ぎなかったことが判明した。ほんの一部しか見てないのである。見逃した名画はたくさんあった。それだけアメリカ映画の幅が広く、奥が深いことを証明している。

 

 なお今回から副題の「自伝抄」を「青春回顧」に変更した。

 

                      ――― 終り ―――

 

 ※次回は「イギリス映画の思い出」を語る予定である。