年明けて早々悲しい知らせが届いた。『青春グラフィティ1971・大学1年』で紹介したKA君が亡くなったのだ。72歳だった。男性の平均寿命に遠い年齢である。

 彼に賀状を出したが、返事がなかった。毎年交換することを忘れない律儀な性格なので、気になっていたところ、数週間過ぎて奥様から寒中見舞いのハガキをいただいた。そこに記されていたのである。昨年の12月末に亡くなられたそうだ。

 KA君は私より2歳上で、私が慶応大文学部に入学した時、語学のクラスで一緒になった。彼は落第し、1年生2回目だった。北海道美唄市の出身で、生活費を自分で稼いでいる苦学生だった。慶応には二浪して入った。慶応は金持ちの子弟が多いが、KA君のような苦学生も少数派ながらいた。

 話してみると、相性が合い、仲良くなった。年上で自活しているせいか世間をよく知っていた。私は彼から多くのことを学んだ。文学では戦後文学が好きだった。

 どちらかと言えば、私が兄事する形の付き合いだった。しかし1年後、彼は慶応を退学させられた。文学部は語学の単位に厳しく、一つでも落とせば落第なのである。そして2年連続落第すると即退学だった。

 彼はM先生のドイツ語を落としてしまった。それも2年連続だった。M先生に掛け合ったが、拒絶された。

 実は私もその年落第した。私は学生運動がらみで大学に失望し、行かなくなってしまった。当然M先生の授業に出席せず、テストも放棄した。

 せっかく苦労して入った大学である。彼だって辞めたくなかった。1年生での放校は、中退扱いにならない。その後彼はアルバイト生活をした。田舎から出て来た金もない若者が広い東京に放り投げられた形になった。ある日彼は私に言った。

「来年は絶対に進級しろよ。大学は辞めてはいけない。辞めたら馬鹿にされるぞ。世間は厳しい」

 私はその言葉を胸に、1年生2回目を頑張り、なんとか進級した。

 しかしKA君は逆境をはねのけた。猛勉強して共同通信社の校正係を受験し、何十倍という競争率の難関を見事通り抜けた。力量と意志と勇気の点で私などは足元にも及ばなかった。

 以降、互いの人生が異なったこともあって交遊は途絶えた。

 そして40数年が過ぎた。8年前、共通の知人を介して、幸運にも再会出来た。彼は子会社の役員になっていた。たぶんハンディをバネにして頑張ったのだろう。一家を構え、持ち家を埼玉に持つまでになっていた。

 私は、あっぱれだと思った。田舎から上京し、名もなく、貧しい若者が東京で生き抜くことは大変である。しかし彼は見事に克服した。この事実だけでも尊敬に値する。

 KA君、50年前の交遊、ありがとう。合掌。

 

 さて、本題に移ろう。

 イギリス映画のヒット作は大体アメリカ資本で作られている。アメリカとの合作とも言っていいだろう。たとえアメリカとの合作でも、イギリスを舞台にしているなら、ここで取り上げる。

 

 私にとってイギリス映画と言えば、まずデヴィッド・リーン監督なのである。それだけ彼の作品から影響を受けた。

 ただ、私が見たのは、5本だけである。高校時代に見た『旅情』(1955年)と『ドクトルジバゴ』(1965年)、上京してから見た『ライアンの娘』(1970年)、『戦場にかける橋』(1957年)、『アラビアのロレンス』(1962年)である。いずれも映画史に残る傑作ばかりである。

 『旅情』と『ジバゴ』についての感想は『我が懐かしき映画高校編』とその続編ですでにふれた。

 両作共大学時代にも鑑賞し、感動を新たにした。

 『ジバゴ』は73年か74年に再度封切公開され、この時は大学時代の友S君と封切館に見に行った。名画座と違う大劇場なので最新の4チャンネルのスピーカーが導入されていた。落ち葉が転がる音や列車音がリアルに聞こえて来たのにはびっくりした。また改めて音楽の素晴らしさを堪能した。

 鑑賞後、S君と焼き鳥屋で一杯やりながら、「ああ、ララのような女性と恋をしたい」と語り合ったものである。

 

 『ライアン』『戦場』『ロレンス』の3作は大学時代に見た。いずれも戦争や紛争を取り上げているせいか、莫大な制作費用がかかり、上映時間が長い大作になったが、アカデミー賞に輝いた。

 

 この3作で私が好きなのは『ライアンの娘』である。リーンには、『ライアン』、『ジバゴ』、『旅情』に代表される女性が主人公の映画と、『戦場』と『ロレンス』のような男性が主人公の映画があるが、私は前者の方にひかれた。彼が描く女性と、恋愛の在り様に私は感動したのである。

 『ライアン』は20世紀初頭のアイルランド独立運動を背景にしている。アイルランドの僻村に住む人妻が現地にやって来たイギリス人の若い将校と恋に陥る。姦通であり、相手が敵国の青年であるというダブルの掟破りは当然悲劇を招く。

 リーンは主人公の女性の揺れ動く感情の機微を巧みに表現した。その際、広い砂浜や急峻な断崖などアイルランドの雄大で美しい自然を上手に用いた。断崖でパラソルが舞い上がったり、砂浜を夫と共に歩いたり、森の中で恋人と逢引したりするシーンは詩情豊かなシーンである。

 これだけでも十分堪能させられたが、ここに独立運動の場面をからめたことでさらに重厚な作品に仕上がった。

 本作からアイルランド独立運動や宗教対立(カトリックと英国国教会)を学ぶことが出来るので、両国の歴史の教材に最適ではなかろうか。

 似たようなことは第二次世界大戦下の日本軍のビルマ侵攻を背景にした『戦場』や、第一次世界大戦下のアラブ独立を舞台にした『ロレンス』にも当てはまる。

 どちらとも戦闘シーンに迫力があり、そのすさまじさに観客は目が釘付けになる。なにしろ当時は実写なゆえ、CGでは味わえないリアル感を画面は与えてくれる。だが、これだけではただの娯楽映画に過ぎない。リーンの映画が素晴らしいのは登場人物たちの人間性を掘り下げている点である。戦争は人を殺し、殺されるという極限状況である。それを生み出す起因は政治である。極限状況における苦しみ、政治に翻弄される悩みを描かなければ、深みは増さない。

 その点でこの映画は成功している。

 

 続いて、私が最も感動した作品にふれよう。3作共71年から74年までの間に作られたので、リアルタイムで見ることが出来た。

 まず『小さな恋のメロディ』(1971年)である。

 これはロンドンに住む小学生の男女が惹かれ合う内容で、一種メルヘン的な、それでいてコメディ的でロマンチックな作品である。当然観客は随所で甘酸っぱい思いにとらわれる。なかなか完成度が高い。

 この映画が成功しているのは主人公及び彼らを取り巻く群像の描写である。主人公、同級生、先生たち、保護者たちの個性を上手に描いている。その点で日本の漫画家の「ちばてつや」と同じである。

 舞台となる小学校の生活(授業ばかりでなく体育、給食、校外活動)や家庭生活の風景を織り交ぜた点も作品の厚みを増すことになった。

 もう一つの成功は音楽である。ここで用いられたビージーズの曲が実に映像と調和している。したがってそのシーンを盛り上げる。『メロディ・フェア』『若葉の頃』『イン・ザ・モーニング』など耳に心地よい曲ばかりである。イージーズを採用した監督やプロデューサーの眼識は高いと言えよう。

 私は高1の時にビージーズが好きになり、一時よく聞いたが、そのうち彼らの甘さが鼻につき、聞くのを止めた。しかしこの映画で彼らを再発見することが出来た。

 ビージーズ以外にCSN&Yの曲が1曲使われている。ラストシーンで流れる『テーチ・ユア・チルドレン』である。実に効果的に流され、トロッコに乗って遠ざかる二人を祝福しているかのようだ。曲名も意味深である。

 この作品の主題は興味深い。大人、既成の価値観に対する疑問である。したがって本作品は60年代末に世界中で起きた若者の反抗の延長上にある。この種の映画は欧米でたくさん作られたが、小学生に視点を置いた作品はこれが初めてだろう。

 たぶん観客は終了後胸いっぱいになるだろう。小学校時代を思い出し、自分もこのような体験があればなあと見果てぬ夢を追想するのではないか。ハッピーでピースフルな気分にさせられることは間違いない。

 

 二番めは『フォロー・ミー』(1972年:キャロル・リード)である。この作品については『ロンドンへの旅』でもふれたので、詳しい感想は抑える。

 本作はコメディを織り込んだ恋愛映画と言えよう。脚本や演出がかみ合い、見事な作品に仕上がった。   

 主演のミア・ファーローは個性的で面白い役を演じている。彼女は元々妙に存在感のある演技をするのだが、本作では、道化役とも言えるトポルの存在の方が強かった。見終わった時、彼の存在が一番心に残った。彼こそこの映画を素晴らしくさせた功労者といえよう。

 重要な舞台としてロンドンを流れるテムズ川、ランドマーク、ストリート、公園が多用されているのでロンドン観光に役立つ面も有している。

 音楽が素晴らしい。007シリーズで有名なジョン・バリーである。美しく甘酸っぱいメロディが様々な編曲で繰り返され、各シーンを盛り上げる。ストリングスの響きが実にいい。女性歌手の鼻にかかったような歌声も耳に残る。一度聴いたら忘れられない曲である。あまりにも心を動かされたのでこのシングル盤を買ってしまった。

 見終わった時の感動は大きかった。大作がいい映画とは限らない。低予算でも監督をはじめとしたスタッフの総合力で名画が作れることを監督のキャロル・リードは実践して見せた。彼は『第三の男』で有名な名匠であり、本作は遺作となった。

 私はこの映画から何を学んだか。シンプルである。愛の素晴らしさである。恋愛や人間愛の元をなす「愛」である。言うまでもないが名作の条件は「愛」を見事に表現できるかにかかっている。

 トポルのような人が多ければ世の中はもっと平和に楽しくなるのではないかと思われた。

 

 最後は『ウイークエンド・ラブ』(1973年)である。

 本作は『フォロー・ミー』よりコメディ色が濃かった。ロマンチック・コメディというような映画だった。上質なコメディは、笑いだけでなく、涙と感動と勇気も提供する。

 シェークスピアの作品やチャップリンの映画でも見られるように、イギリスには「ユーモア」の伝統がある。そこからアイロニーを含んだ小説も派生している。モームはその代表である。

 このよき伝統を現代に移植した作品が本作である。それは見事に成功した。私は笑い転げ、涙ぐみ、最後は感動し、イギリス人の奥深さを改めて知った。

 主役の一人のグレンダ・ジャクソンの演技が素晴らしい。美人ではないが、私は魅せられた。この人も目で芝居する人だと思った。

 以前の記事『我が青春の名画座』でふれたように私は本作を「大塚名画座」という小さな映画館でたまたま見た。日本では『フォロー・ミー』と同様、ヒットしなかった(欧米はその反対)。しかし映画ファンの間では評価が高かった。キネマ旬報ベスト10に確か選ばれていたと思う。これらの映画が日本でヒットすればいいのにと、自称映画通の私は当時嘆いたものである。

 

 60年代におけるイギリスのサブカルチャーの代表に007とビートルズが挙げられる。

 まず007について語ろう。私は中高時代に熱中したが、卒業後興味を失くした。主役のショーン・コネリーが降板し、作品が徐々に喜劇化し、大仕掛けの道具に頼り過ぎるようになったからである。

 コネリーが主演した1作目から5作目の『007は二度死ぬ』までは緊張感にあふれていた。大仕掛けの道具も作品の質を落とさなかった。とりわけ『ロシアより愛をこめて』は優れていた。これらを高校時代に田舎の映画館で手に汗をかきながら見た。

 しかし私が大学生になった時、ロジャー・ムーアになり、内容が喜劇になった。ボンドが不死身のスーパーヒーローに変化した。『死ぬのは奴らだ』(1973年)や『黄金の銃を持つ男』(1974年)を見てがっかりし、それ以降見なかった。

  それから、私にとってのジェームズ・ボンドは永遠にショーン・コネリーになったのである。

 似たようなことはビートルズに当てはまる。

 名画座で彼らの映画、『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』、『ヘルプ!4人はアイドル』を見たが、心が揺さぶられなかった。作品の出来が今一つだった。面白くないドタバタ劇のコメディにしか見えなかった。

  ただし演奏シーンはよかった。名曲であり、かっこよかった。

  映画に感動しなかった理由の一つに当時クラシックにのめり込み、ビートルズを聞かなくなったことも挙げられよう。

 中高時代に見たなら興奮したと思われる。だからその後『レット・イット・ビー』が公開されても見に行かなかった。

 

 イギリスの演劇と言えば、シェークスピアであるが、映画化された作品は一つも見ていない。白黒時代に結構作られた(ローレンス・オリビエ主演の『ハムレット』など)らしいが、名画座でお目にかからなかった。

 白黒映画で覚えているのは、『第三の男』(1949年)である。監督は『フォロー・ミー』のキャロル・リードである。

 映画史の古典ともいうべき作品なので、名画座で拝見できると知った時、期待したが、期待外れに終わった。サスペンス感はあるのだが、展開が大味で、登場人物の描き方も弱かった。上映時間の短さが関係しているのかもしれない。有名な最後の別れのシーンも心に響かなかった。ただしチターを使った主題曲(アントン・カラス)はよかった。

 

 その他、記憶に残っている作品を列挙してみる。

 まず、まあまあ良かった作品。

 『いつも心に太陽を』(1967年)。先日亡くなったシドニー・ポワチエ主演の学園映画である。荒れた高校に赴任した教師が学級を再生する内容である。この種の題材の作品は実に多い。古今東西をまたいで作られる。作り手側から見れば、学校は誰もが経験する場なので、観客を感動させるのに手頃な題材なのだろう。

 ただ、先生が黒人で生徒が白人という設定は当時斬新だった。

 出演したルルが歌う主題歌は全米NO.1になった。

 『フレンジー』(1972年)。ヒッチコックの作品なので前回の記事で紹介してもよかったのだが、舞台がロンドンなのでここでふれる。ストーリーの展開が面白かった。ユーモアが効いている。

 『オリエント急行殺人事件』(1974年)。アガサ・クリスティ原作の映画はこれが初めて。小説も読んだことがなかった。ただ、犯人が乗客全員だったという結末に関心した。そこにいたる展開が面白い。娯楽ミステリー作品としては完成度が高い。有名俳優を勢ぞろいさせた点も印象的。

 『Ifもしも・・・』(1968年)。高校生が銃を持って学校に立てこもり、生徒や先生を撃ちまくるという衝撃の内容。実際にアメリカではあるが、イギリスでは起こりにくい。発想はユニーク。舞台がパブリックスクールなのでエリート養成に対する反発が顕著である。これも当時の学生運動の影響を受けた映画の一つと言える。

           

 反対に期待外れの作品を並べてみる。

 『チップス先生さようなら』(1969年)と『チキ・チキ・バン・バン』(1968年)。どちらもイギリス版ミュージカル。前者は現実、後者はファンタジーだが、子どもと大人が楽しめる作風。楽しくほろっとする場面はあるが、今一つ乗れなかった。この頃ミュージカル作品に興味を失ったことも関係している。

 『冬のライオン』(1968年)。中世のイギリス王室内の政争を取り上げた史劇というべき作品だが、展開に退屈さを感じた。テンポがゆっくりし過ぎる。ただ、映画評論家の評価は高い。

 主演の一人は『チップス』や『ロレンス』のピーター・オトゥールである。当時彼は人気絶頂だった。

 『恋する女たち』(1969年:ケン・ラッセル)。原作がD・H・ロレンスなので興味を抱いた。この頃、ロレンスに関心を持ち始め、『チャタレイ夫人の恋人』や『女狐』などを読んでいたからである。映画にはがっかり。映画は限られた時間の芸術なのでメリハリがある展開でないとついて行けない。その反対に進んだような映画だった。ロレンスの恋愛を映画で表すことの困難さも感じた。

 こうみると、イギリス映画の数は少なかった。ただ、以前紹介したが、『嵐が丘』(1939年)や『欲望』(1966年)に代表されるように、イギリスが舞台になった外国人監督による作品やアメリカ資本による作品もある。

 イギリスはフランスやイタリアのような明るさや華やかさはない。ただ、シックで、落ち着いた、大人の気風が感じられる。それが当然映画に反映されている。

 

                         ――― 終 り ―――

 

 ※次回は「その他の国の映画の思い出」を語ります。