■ふたたび読んでみたいホイットマンの詩。――

アメリカの治信条を謳歌したォルト・ホイットマン

 

おはようございます。

英語の「Weatherperson」を訳せば「気象予報士」となります。「お天気師」でもよさそうなものですが、しかしこれは、とんでもない誤訳になるそうです。

たいていの英語の辞典には、「詐欺師の一種と書かれているんですよ」といったら、電車の吊り手にぶら下がって話す60年配の女性は、びっくりしたみたな顔をしてぼくの目をじっと見つめていました。対称的に、暴風を語源とする「ウェイザー」には、また「荒天」という含意がもともとあるらしいのです。英語の現代語の意味の下に、寒々しい古層が顔を出すときがあるようですね。

「きょうは朝から暑くなるわね」とその人はいった。

そういう荒天もあるのか、と考えた。

ウォルト・ホイットマンの「草の葉」は有名ですが、ほんとうに「草の葉」をわれわれは読んできたのだろうか、そういう疑問がまず浮かびます。

ホイットマンを口にするけれど、ほんとうのホイットマンをぼくらはまだ知らないのではないかしらと。ポーなんかよりももっと厄介なテーマを持っていて、もっと俗悪なやり方で詩作しています。翻訳不可能なくらい、粗野で猥褻な詩が多い。

 

 ウォルト・ホイットマン。

 

そこでぼくは、ここでは「ウォルト・ホイットマン、一個の宇宙、マンハッタンの息子」(Walt Whitman, a Kosmos, of Manhattan the son)という作品を取りあげようと思います。「草の葉」はむずかしすぎて、ぼくの手には負えません。

詩のタイトルを見てもわかるとおり、自分の作品に麗々しく自分の名前を出すというずうずうしさや慎みのなさは、かえって挑発的に見えます。

タイトルからして高踏的な印象を与えます。

ちょっと考えれば、露骨な自己宣伝のようなこういった「名乗り」も、ホイットマンらしい自己宣揚のほんの一部だということを知るだけでも、ホイットマンが、どんな詩人なのかがおよそ見当がついて、おもしろいのではないでしょうか。

タイトルの「Kosmos」はもちろん「宇宙」という意味の「コスモス」ですが、ちょっと見ると「cosmos」の間違いではないか、と思われますね。ところが間違いではなく、彼は気取って、ギリシア語みたいに、わざわざ「Kosmos」と書いているわけです。

「コスモス」とはもともとギリシア語です。

語源のギリシア語を意識して、このようないかめしいタイトルにしてしまったわけです。ギリシア語でも、ピュタゴラス学派によって用いられた元来の意味は、「秩序と調和のとれたシステムとしての宇宙」というものでした。

その宇宙の一部である自分もまた小宇宙なのだといわんばかりに取り入れているわけです。ちょっとむずかしそうな詩に見えます。

 

 

 

 

ところが、つぎに「マンハッタンの息子the son of Manhattan」というべきところを「of Manhattan the son」ということばの倒置を行なっています。マンハッタンのこの土地をインディアンのことばに置き換えますと、「ウェブスター英語辞典(第3版)」によれば「Mannhatta」となります。「Mannhatta」と題された詩。

 

 もの狂おしく、肉づきよく、好き者で、食って飲んでは子をつくり、……

 Turbulent fleshy, sensual, eating, drinking and breeding,……

 

ここには3つの形容詞のあとに、現在分詞3つがならびます。

「Turbulent」というと、お天気なら「荒れ狂う」、世情なら「騒然とした」、群衆なら「無法をはたらく」というような意味で、要するに混乱して動揺ただならないという意味になりそうです。

感情的には「心が高ぶった」「思い乱れる」というような意味にもなります。「fleshy」は「ふっくらとした肉づきがいい」、「sensual」は「享楽的な」とか「放縦な」、食べ方や性的な快楽に目がないというような意味にもなります。そういう人間が食べて、飲んで、さかんに子どもをつくるというのです。

子どもをつくるの「breed」は、あまりいいことばではないようです。ふつうは動物の交接に使われていることばです。

「あいつもよく子をつくるね!」などと、陰口をいうときなんかに使われます。その動物とは英語ではなぜかウサギです。「ウサギみたいに、よく子どもをつくるなあbreed like rabbits」という表現があります。ホイットマンは、わざわざこういういい方をしているわけです。

 

 情に溺れず、男や女の上に立つことも、ひとり遠ざ

 かることもせず、……

 No sentimentalist, no stander above and women or

 apart from them,……

 

「sentimentalist」の「感情的な人間」ではないということは、やりたい放題の人物像で、粗暴な人間のイメージから見ると、男らしい意志の強さ、行動のたくましさを意味しているようです。

あとにつづく文脈からみると、感傷に惑わされないたしかな目、透徹した判断力を強調しているとも思われます。「no stander above and women」は福沢諭吉の「人の上に人をつくらず……」云々ではありませんが、「相手が男だろうが女だろうが、自分は誰の上にも立たない」。

そして「(no stander) apart from them」の「彼らに距離をおいて、超然と遠ざかることもしない」といい、自分はあらゆる人間と平等であり、しかもその仲間のひとりだ、というのです。

 

 慎ましくもなければ、不謹慎でもない。

 No more modest than immodest.

 

「modest」でも「immodest」でもないといいます。これは駄洒落の一種です。

この調子からして、語り手は謙遜ぶかい人物でもなければ、慎しみのないずうずうしい人間でもないのだと、自分でいっています。どんなに放縦に見えても、決して人間の品位や節度を踏み外したりはしないのだ! というのです。

 

 すべてのドアから錠をねじり取れ!

 ドアそのものを戸柱からねじり取れ!

 Unscrew the locks from the door!

 Unscrew the doors themselves from their jambs!

 

 

 

 

 

「screw」は「ねじこむ」だから、「Unscrew」はその反対で「ねじを弛るめて錠(ドア)を取り外せ」となります。「jambs」というのは「脇柱」の意、入口や窓などの両側を支える垂直のフレーム枠のことです。そこからドア自体も取り外してしまえ。人を狭い空間に閉じ込め、他人との自由な交流を防げる障壁などは、さっさと取り除いてしまえというわけです。

まず錠を、つぎにはドアも取り外せという、この2行の展開のしかたには、音楽のクレッシェンドのような、勢いがありますね。

クレッシェンド(crescendo)は「だんだん大きく、しだいに強く演奏せよ」という意味のイタリア語。その反対は「デクレッシェンド」で、「だんだん小さく、しだいに弱く演奏せよ」という意味。詩の場合も、演奏気分で、クレッシェンドしていくように読むと、気分も出てきますね。

こうして調子を高めておいて、節をあらため、さてそれがどこへいくかといいますと、――

 

 誰であれ、他人を貶(おとし)める者は、私を貶める者だ。

 どんなことばも行ないも、結局は私にかえってくる。

 Whoever degrades another degrades me,

 And whatever is done or said returns at last to me.

 

というのです。

「他人を辱める者は誰でも、私を辱めるのと同じことだ」。どんな理由であれ、おなじ人間仲間を卑しめるような人間がいたら、私は黙っていないぞ! と。その不当さは、その人のみならず、自分自身の尊厳をおびやかすものだから、私が抗議にいくというのです。

そして、「何であれ、この世で行なわれたり、いわれたりすることは、まわりまわって、ついには私に帰する」と。

人間の行為は、何であれ直接自分にかかわってくる、けっして他人ごとではないというわけですね。

ホイットマンの場合は、このようにあらゆる人間は人間として同等なのだというだけでなく、この世で巻き起こっていることは、すべて自分をその一部とする宇宙の出来事なのだけれど、冒頭でいうように、じつは自分自身が「宇宙」そのものであって、自分はそのなかで起こることはすべてに責任がある――だから、どんな些細な悪や不正も放ってはおけないのだという。

壮大な気概がこめられているように読めます。

ここでまた節が変わって、こんどはたった2行で独立した、かなり力こぶの入った節がきます。

 

 私を通して霊感の波が押し寄せ、潮流と指針が押し

 寄せる。

 Through me the afflatus surging and surging,

 through me the current and index.

 

「ウェブスター英語辞典(第3版)」によれば「afflatus」はもともとラテン語で「息を吹き込む」という耳慣れない語で、「霊感inspiration」とほぼ似たような意味です。――ついでにギリシア神話に出てくるピュグマリオンの話をしますと、ピュグマリオンは自分がつくった象牙の像に恋をします。

そこで、アプロディーテのパワーを借りて象牙の像に命の「息を吹き込んで」もらうと、彼はその像を妻に迎え、結婚してしまいます。つまり、ここでいう命を「息を吹き込む」とはそういう意味です。

余談ですが、この話をもとにして、バーナード・ショーは、「ピグマリオン」という作品をつくりました。のちに映画になって、それは、ロンドンのコヴェント・ガーデンの野菜市場で花をあきなう花売り娘の「ちょいとだんな方、花はいらんかねぇ?」という、聞くにたえないような英語を、ちゃんとしたことばに替えていくドラマでした。ヒギンズ教授は、淑女に変身した彼女にとうとう恋をしてしまうという物語です。映画「マイ・フェア・レディ」でおなじみの物語ですね。

しかし、この「afflatus」を、たとえば辞典を引いてみると「神が知識や力を授けること」「超自然的な、または圧倒的な衝撃」とあって、この「霊感」は、ときには猛烈な勢いで人を突き動かすこともあるようです。

「surge」は波のように「うねる」、あるいは「打ち寄せる」という意味ですが、「surging and surging」というのは、つぎからつぎへと大波が押し寄せてくることをいい、ちょうど強い電流が通るとからだがしびれるように、「私」は押し寄せる「霊感」のなすがままになっているというわけでしょう。

それと同時に、「current」の「流れ」「潮流」と「index」が「私」のなかを押し通るというのですが、この解釈はちょっと厄介です。――「index」はもともと「人差し指」のことで、そこから何かを指し示すもの、つまり計器や時計の針、指針=ガイドライン、指標ないし徴候、最後に「索引」などを意味するようになりました。

あらためてこの行の対句的な構成を見ると、前半の「the afflatus」と後半の「the current and index」は、どうやら同じものを指すらしいと見当がつきます。後者がただひとつの「the」でくくられていて、「current」と「index」が分かちがたい不可分の一体として扱われていることです。

押し寄せてきて、からだのなかを通っていく「霊感」は、「流れ」と「指針」からなっているらしい。この流れは、ただ猛烈に人を突き動かすだけでなく、ある種の方向性というか、向かうべき方角の適切な指示を含んでいるらしいことがわかります。まさに霊感とはそういうものであって、天来の衝動とともに、あるひとつの方向指示が「私」を通して伝わってくるというのです。

つぎの行からは、霊感の具体的なあらわれをうたったものでしょう。

 

 私は太古の合言葉を唱え、民主主義の合図を送る。

 誓っていう。私は何ひとつ受け入れはしない、みんな

 が同じ条件で、そっくり同じものを入手できる限り。

 I speak the pass-word primeval, I give the sign of

 democracy,

 By Good! I will accept nothing which all cannot

 have their counterpart of on the same terms.

 

「太古の合言葉pass-word primeval」は、「民主主義の合図the sign of democracy」をそのまま指しています。「pass-word」とは、「山といえば川」というぐあいの合言葉で、聖書ではこれを「試し言葉test word」といっています。

合言葉は聖書から使われてきたのかも知れません。しかし「pass-word」と「test word」の具体的な違いについてはわかりませんが、聖書で使っている合言葉は、有名な「shiboleth」です。これを正しく発音できたら通すという合言葉になっていて、それで見破られて殺された人びとが4万人を超えたという記事が「士師記」にでています。

詩では「私」が口にする合言葉は、原初のはじめから、太古の合言葉であり、それは「民主主義」なのだというのです。「民主主義」は太古以来の人類の原理であり、「私」の仲間とそうでない人間、人類の敵とを区別する合言葉であるというわけです。

ここではむずかしいものは何もないと思います。

 

 周期的に繰り返される準備と成長の声、

 星々をつなぐ糸の、そして子宮や精液の声、

 Voices of cycles of preparation and accretion,

 And of the threads that connect the stars, and of wombs and the father-stuff,

 

ここでホイットマンはとつぜん、話を抽象的な次元に舞いあがらせます。

このあたりがホイットマンの詩のむずかしいところで、反面おもしろいところでもあります。そうかといって、彼は語彙カタログ集みたいなものを手当たり次第にならべているわけではありません。

まずはじめの疑問、「準備とaccretionとの周期の声」とは、いったい何でしょうか? 「accretion」とは生物などの「成長」、あるいは外からの付加や累積による「増大」をときに意味したりします。まず準備があり、それから成長・増大のプロセスがあり、その繰り返しが一定の周期をなして、永遠につづいていくというわけでしょう。

ですから人間や、もろもろの生物をはじめ、宇宙全体の発展の原理をいっているらしいことがわかります。すべてそうした有機的な過程の規則的な反復によって、発展していくというわけです。

そういう宇宙発展の原理の「声」が、「私」を通して聞こえてくるといっているのでしょう。おもしろいのは、壮大きわまる宇宙の営みと、超微細な生命の誕生とが、何食わぬ顔をして詩形に呼応して平然と並置されているところです。

「星々を結びつける糸」という表現――この宇宙にあるすべてのものは、たがいに「糸」で結ばれている。何者もけっして孤立してはいない。その星々をつなぐ糸の声。それは「子宮」と「精液」の声なのだというわけです。

顕微鏡的な生殖のありさまを、ことば巧みに表現しています。

「father-stuff」という語も耳慣れないことばですが、「父親(ならでは)のもの」というような意味です。単に男なのではなくて、精子を持った男、すなわち「father-stuff」というわけです。これをいいえ換えると「精液」となります。「子宮」にたいして「精液」と書いたのは、たいへんいい詩だと思います。

これは、ホイットマンらしい遠まわしにいう迂言法(うげんほう)の例で、これを採用しているわけですが、そこは詩語らしく、ホイットマンにしてはめずらしく上品ぶった詩にしています。

 立ちこめる霧や、糞(ふん)の玉をころがす甲虫(こうちゅう)たちの声が。

 Fog in air, beetles rolling balls of dung.

 

ここで、またまた展開が一転して、人間社会から離れます。

霧や虫、そういうものたちも、「私」を通して声をあげる。極大の宇宙から地上の人間や生物たち、さらには気候現象にいたるまで、まるで手放しの、無条件の共感の輪をひろげていくかのようです。

いかにもホイットマンらしいところです。

「beetle」の「甲虫」は、甲虫目(鞘翅目))の昆虫を指すわけですが、この語は、昆虫はおろか、あらゆる動物のうちで最大の種類を持っているそうです。調べてみるとなんと28万種というので、びっくりです。

コガネムシ、テントウムシ、ゾウムシに見られるように鞘翅と呼ばれる堅くて厚い前翅(前はね)があり、からだと膜質の後翅(こうし)を保護しています。飛ぶときはこの後翅をひろげて飛ぶわけですね。

動物の糞をころがして食べるのは、dung beetle(食糞コガネムシ)のたぐいで、よりによってこういう「毛嫌い」される虫をわざわざ出してくるのです。それはもちろん、世にさげすまされている弱者への共感のあらわれなのですが、それと同時に、ちょっとユーモラスな、露悪的なニュアンスをかもし出しているわけです。意識的に良識ある読者にショックを与えようとしているかのように見えます。

ところで、「ザ・ビートルズThe Beatles」の名前ですが、これは「ビートbeat」と「カブトムシbeetle」をかけたものです。

 

 私を通して、禁じられた声、

 男女の性と肉欲の声、蔽い隠された声(私がその蔽

 いを剥ぎ取ろう)、

 卑猥な声が(私がそれを清め、美化しよう)。

 Through me for bidden voice,

 Voices of sexes and lusts, Voices veil’ d and I

 remove the veil,

 Voices indecent by me clarified and transfigur ‘d.

 

アメリカでもイギリスでも、ながく宗教と美徳の厳格な管理下におかれ、きびしく抑圧されてきた性欲と性行為でしたが、ここではあけすけに肯定され、称揚されます。

ある意味では、性もまた不当な差別の対象だったというふうに。

これまでヴェールの影に隠蔽されてきたその「卑猥な」声が、「私」によってヴェールを剥ぎ取られ、浄化され、解放されるのだというのです。

「sexes」は複数形ですから、ここではいわゆる「セックス」ではなく、「男女(の性別)」を意味します。「lusts」は「肉欲」「色欲」。――「ウェブスター英語辞典(第3版)」によれば、「特に、激しく放埓(ほうらつ)な」罪深い性欲をいうとあります。同性愛などは、極度にはしたない行為としてさげすまされてきたけれど、そのような行為も含んでいるのでしょうか。

「and I remove the veil(そして)私がその蔽いを剥ぎ取ろう」は、これまで同格に扱われ、「Voices声」にたたみかけてきた構文のなかに、とつぜん独立したセンテンスとして割り込む形で挿入されています。

しかしこれは、「蔽い隠された声」に軽く添えられた挿入節みたいなもので、きわめて口語的です。そこがホイットマンのやり方です。

「clarified浄化された」と「transfigur’d形を変えられた」というふたつの受身の過去分詞がありますが、これは行頭の「Voices indecent卑猥な声」にかかる語です。「transfigur’d形を変えられた」は、ほんの一部の意味で、単に「形を変える」という意味もあれば、「神々しい」とか「理想化する」という意味もあります。

どちらの動詞についても、ふたつの意味の片方に決めてしまうよりも、むしろ両方の意味を含んでいると見たほうがいいでしょう。語り手は、具象的な意味と抽象的な意味の双方が生きるようないい方を、わざとしているように思われます。

 

 私は自分の口を封じたりせず、

 腸(はらわた)を語るにも、頭や心を語るのと同じ嗜(たしな)み

 のよさを発揮する。

 性交も死と同様、少しもいやらしいとは思わない。

 I do not press my fingers across my mouth,

 I keep as delicate around the bowels as around the

 head and heat,

 Copulation is no more rank to me than death is.

 

最初の行「I do not press my fingers across my mouth,」を直訳すると「私は指を口に押し当てはしない」となります。これは、「(黙らせるために)人差し指を口に当てるPut a finger to one’s mouth」という成句の変形です。まわりに気を遣って、自分から口に栓をするようなまねをしない。

つまり、けっして黙っていないぞ、というわけですね。

つぎの行は、「腸のあたりについて、発言をdelicateに保つ」という意味だとわかります。「delicate」は「心遣いのこまやかな」、あるいは「典雅な」という意味。おなじ肉体の部分どうしを理不尽に差別して、いっぽう頭と心を高尚なものとし、そうでないものを卑俗なものとする偏頗(へんぱ)な見方を「私」はとらないというのです。あくまで公平に。――おもしろい表現ですね。つまり、上半身と下半身を公平に、というわけです。

ホイットマンの民主主義というのは、そもそもおもしろい。

こうして個々の内臓器官にまでおよぶわけです。性交についてもおなじだといっています。「性交」を指す語はいろいろありますが、用いるのには抵抗があっても、ここではわざわざ話を一般化していっています。「rank」は「(腐ったような)いやな匂いがする」、「むかつくような」、「下品な」などの意味があります。「死」がむやみに嫌悪すべきものではないように、「性交」もことさらにタブー扱いして、目をそむけるべきではない。性交は子孫を残す偉大な行為である、というわけですね。「死」もまた、ごたいそうな儀式で周囲を固めることによって、日常社会から隔離され、疎外されているわけです。そうであっちゃいけない、といっているわけですね。

それにしても、「腸のまわり」とか、「性交と死」とか、当時としてはかなりショッキングな道具だてで詩作していることがわかります。

さて、このようにホイットマンの詩は、具体的なことを語っているかと思うと、何のまえぶれも、継ぎ目もなく、抽象的な方向にとつぜん転換し、飛躍します。水と油のような具象名詞と抽象名詞が、平気で肩をならべるわけです。

このやり方は、フランス象徴派のスタイルに通じるように見えます。ボードレール、ヴェルレーヌをはじめ、マラルメやランボーが大いに用いた語り口とそっくりですね。

――具象語と抽象語を強引に引っ張ってきて、具象的なものを精神化したり、またそのぎゃくに抽象的な概念を、生き生きと肉づけしたりという語りのセンテンスに磨きをかけています。ホイットマンはボードレールの2年先輩で、「悪の華」は「草の葉」が出た1855年の2年後に出ています。

ホイットマンの文章は聖書の文体に似ているとよくいわれます。

ホイットマンのリズムの原理が、ごく骨太な対句法や列挙法の外形を利用しているためで、これは外形であって、中身ではありません。

ですから「聖書」の文体に似ているけれど、全体の生み出す効果はまるで違っています。長いものも、短いものも、しなやかで柔軟な、緩急自在の呼吸を示しています。

詩に用いられている語彙も、ふだん使い慣れた具体的な日常語のすぐとなりに、おそろしく難解な抽象語がならぶという文章構成で、ちょっと口にするのもはばかれるような「下品な」語がぬけぬけと顔を出すというやり方です。ここにも熱烈なロマン派らしい、繊細な感性のはたらきと、鋭い自意識から生まれるアイロニーが見え隠れしています。

さて、ホイットマンのこの詩は、見てのとおりの自由詩で、韻律や脚韻や連(れん)分けなど、機械的な形式上の約束ごとにはいっさいしばられないで、自由闊達なスタイルで通しています。

そのリズムにまとまりと変化をつけているのは、気分のリズムと、肉体のリズムですが、この種のリズムはむしろ雄弁術のそれに似ていて、弁論技術としての修辞法のテクニックとがふつうの詩よりもずっと前面に押し出されて、目立ったはたらきをしていることが分かります。

その代表的なものが「聖書」の記事で、その流れを汲む「並行法」です。一種の対句法。――前後の構文や意味の対照・対比をなしているものです。「聖書」でも、旧約聖書のほうです。このリズムを確立したのは「草の葉」です。

修辞法にはいろいろありますが、「並行法」とともに、詩のリズムの基本をなしているのは「列挙法」(enumeration)です。それは、ひとつ、ふたつと数えられるほど、カタログ的手法とも呼ばれ、ホイットマン独得のものです。

思想上でも文体上でも、画期的な新生面をひらいていったホイットマンですが、その後、アメリカ文学に大きな影響を残しました。

詩人たちは、最初はホイットマンを嫌い、敬遠したりするのだけれど、やがてここに帰ってきて、やはりホイットマンこそアメリカの詩の父だという認識を持つようになります。そしてホイットマンから豊かなインスピレーションを汲み取っていくわけです。

アメリカにはホイットマンの心酔者がごろごろいます。一時はロングフェローがアメリカ最大の詩人と目されて人気を博した時代がありましたが(19世紀)、いまでは、ホイットマンとディキンソンにしてやられた感じです。――いま、最もアメリカ的な詩人といえば、このホイットマンとエミリー・ディキンソンでしょう。このふたりのスタイルはまったく違うけれど、彼らに共通していることは、ヨーロッパの真似をしなかったという点です。

ヨーロッパの詩には、彼らと似た詩があるとは思えません。

 

いっぽう、T・S・エリオットは世界の大詩人だけれど、ヨーロッパ的であり、アメリカからヨーロッパに亡命した詩人です。ホイットマンもディキンソンも、中央の詩壇にはるか遠い存在で、まるで縁のなかった詩人でした。

そして生前は、はかばかしい評判を得ることなく、――といっても、ディキンソンの場合は生前、ほとんど作品を発表すらしていなかったので、評判も何もありません。ホイットマンは詩壇の片隅で、いわば変人あつかいされて、孤独な作詩をコツコツとつづけていたに過ぎません。