21世紀のは、電車の中で、一日の終盤になってび立つのさ。

ちょっと古い作品だが、映画監督・青山真治の書いた「帰り道が消えた」という小説、いまごろになって想いだされてきた。さっき、28歳の青年とおしゃべりしたからだろう。彼はきょう、はじめて小説を書いた。それを持ってきてくれたのだ。

昼間会っていて、これから帰って、「ぼくは小説を書きます」といって、およそ3時間ほどたって、「小説、メールで送りました」という連絡をもらった。だったら、さっそく読んでみようということになり、彼と事務所でふたたび会うことになった。いい小説だった。A4判サイズの紙に2枚半。400字原稿用紙に換算すると、6枚と少し。

タイトルがない。名前もない。まだ未完成なのだ。

それはそれで、中身は小説になっていた。都内に勤務する「わたし」は、電車のなかで、老婆と出会い、それを見ている少年の話が書かれていて、少年は、主人公の「わたし」のかつての姿に写って見えるという、いまはもうなくなってしまった少年時代のイノセントを描いたものである。いいなあとおもう。

で、あとでぼくは、感想をしたため、メールで送った。

それにはこう書いた。

 

ウォルト・ホイットマン。

 

さっきの小説いいね。――ところで、「老人」なんだけど、もうちょっと描写力のあることばにしては? なぜかっていうと、じっさい彼女は老人なのだけれど、当人にしたら、自分は老人なんだなんておもっていないかも知れないから。そこは、ありきたりな抽象名詞にしないで、年老いた女性でも、たとえば、つえを持った人とか、あるいは、顔はアスパラみたいに艶のある紅をつけた女性だとか、……そういう、どこか、生々しい描写を描き込むと、老人の姿が、読者の印象として、はっきりしてくるのでは?

通勤電車のシートに座る老人なんて、ゴマンといます。そういう漠然とした人なのではなくて、この物語には必要な貫通行動の担い手になるのだから、ちゃんと書いたほうがいいと思います。

もちろん「わたし」が主人公で、貫通行動の担い手です。

それも、年寄りと少年を見つめる人という静観する立場に終始しているので、果たして、どういう「わたし」なのか、読者にはわかりません。けれども、この物語の最後に、それがわかるわけですね。

「――いや、わからない。だって、あんたはメキシコ人とは似ても似つかないだろうが。メキシコ女っていうのは、みんなケツがでっかくて、脚とか悪くて、おっぱいなんか顎の下まで盛り上がってて、肌が黄色くて、ベーコンのあぶらをくっつけたみたいな髪をしているやつらだ。だが、あんたは違う。あんたは小柄で、きれいな白い肌をしてて、髪もやわらかでカールしてる。黒くはあっても、ただひとつあんたとメキシコ人が似てるのは歯だ。やつらはみんな白い歯をしてる。それだけは誰も適わない。」(引用は、たまたまデスクの隅にある「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のページからとりました。

フランクは、コーラにこんなことをいうのです。

男フランクと、食堂の経営者の妻コーラとはじめて交わす最初の会話。

 

彼女はギリシア人の男と結婚し、夫には彼女を、白人なんて見られていない。メキシコ人みたいに思われている。そこに投げかけられたのは、フランクのいう「白い歯」というキーワード。そういわれたコーラは、嬉しくなって、フランクにこころを開いていく。

わずか数行で、彼女のこころを物にする。

セックス以上に、ふたりの関係は濃密になるという話である。

 

――ぼくは、まあ、そんなふうに書いたのである。登場人物をどれだけ描ききれるか、ということ。でさっきの「帰り道……」の小説を想いだしたというわけ。

時の大鎌、人生の逢魔である「時」。

多くの人は、どんな人でも年とともに人生の時間が少しずつ削られて、少しずつ死へと近づいていく。中年の男は、そんなことを考えて、世間という目に見える世界のなかで、目には見えない時の跫音(あしおと)を聴く。

「俺たちみたいに帰るところのない人間は、いつか不安に襲われて自分でも思っていないようなかたちで自分自身をぶち壊しにするようなことをしでかすんじゃないかね」

ことに、夕暮れどきに訪れる、不気味な妖魔の気配を感じたときなんかは。

それにとりつかれるのと同じように、狂いはじめる。

人生の盛りをすぎれば、底知れぬ不気味な誘惑に引っかかり、軌道をはずれてとんでもない世界へとひきずりこまれていく。ほんとうに帰り道が消えたら、ぞっとするだろうなと。

だが、どうだろうか。

それは「時」というものを恐れている前提での話だね。

ぼくはいつも考えることは、自分の過去の半生というものがあって、残された生涯は、まだまだあるとおもっている。「きょう」という日は、これからの残された生涯の始まりの日なのだとおもっている。そうすると、なぜか、新しい年のはじまりのようにおもえてくるのさ。そういう人間もいるということ。

ヘーゲルという人の書いた「法哲学」、その序文にはこう書かれている。

「ミネルヴァのフクロウは、立ち込める、たそがれとともにようやく飛び立つ」と。人は一日の終わりになって目覚め、年の終わりになって目覚め、人生の晩年になってますます目覚める。そういっているのではないだろうかとおもう。

だが、この歳で、いまさら目覚めたくないとおもうよ。

21世紀の梟は、電車の中で、一日の終盤になって飛び立つのさ」、……そんな声が聞こえる。日本人は、車内でよく眠る。平和だからね。

年老いて何かに失敗し、挫折してベッドに臥せっていて、郵便配達が二度ベルを鳴らしても、もう起きられなくなって、彼の目醒めはいっそうはげしくなり、迷いすらなくなっても、立ち上がれないのだよ。

すっかり時の逢魔にやられちゃっても、ちゃんとこころのなかで行動しているのだ。

さっき、別の人のブログ記事を読んでいて、ぼくは、そこに書かれた文章に惹かれた。

それは、ウォルト・ホイットマンの詩「草の葉」の一節である。

《「青春」、――そいつはでっかくて元気が良くて、愛情いっぱい――優美さと、力強さと、魅力で溢れそうな青春よ。君は知っているか、「老人」がおそらくは君たちに劣らぬ優美さと力強さと魅力をそなえて、君のあとからやってくるのを》。――そう書かれていた。

老人は、起き上がれなくても、平気だって、ウォルト・ホイットマンはそう詠ったのだよ。