■「何かあやしき」定型詩。――

雲人にぐべきことならず」

林あまりさん58歳。

 

むかし、20代のころ、雑誌の編集をしていたころですが、編集長を訪ねてひとが訪れました。

「編集長、お客さまです」

「だれ?」

「なべかまさんという方です」

「鍋釜? いま、間に合ってるといってくれ」

「北海道医療なんとか会の会長さんだそうですが。間に合ってますっていいましょうか?」

「きみ、紛らわしいな、ちょっと待ってくれ。応接室に通してくれ! 丁重にな」

そういう会話をしたことがあります。

戦後は、物売りがけっこう訪れました。

 

 「大坂はよいところなり橋の雨」

 「友だちは男に限る昼の酒」

 「杯は淋しからずや友かわる」

 「子守唄(こもりうた)里のみやげは嘘(うそ)ばかり」

 「ずッしりとこがねを載せて人を轢()き」

 

 「休みなく地震(ない)して秋の月明にあはれ燃ゆるか東京の街」 晶子

 「世を挙(こぞ)り心傲(おご)ると歳久し天地(あめつち)の譴怒(いかり)いたゝ゛きにけり」 白秋

 

岸本水府は、グリコの以前、福助足袋の広告部にいてえらく光彩を放っていたそうです。昭和50年7月発行の「中央公論」に「広告五十年」として水府に触れる記事があり、それはもっぱらグリコ時代の仕事で、岸本はキャラメルやチョコレートの広告をせっせと書いていたそうです。

ぼくにも、「こういう句が好きやねん」そういって亡くなった大阪の友がいました。

何も大坂にかぎりません。いいものは、いいんです。川柳は、「時局がら」とかいう日本陸軍の強い意向で潰されることなく、戦時中も堂々たる存在感を見せたのです。岸本水府のおかげです。そんな話が田辺聖子さんの「道頓堀の雨に別れて以来なり」には載っていて、圧巻です。

そのころ、連作短歌とか連作俳句とかいうのがありましたね。

俳句のばあいは、水原秋櫻子とか、山口誓子とかが旅に出て、小樽なら小樽の句を連作してつくって一緒に発表する。これは、小説でいえば、「サイクル」ということでしょうね。つまり、一団とか一群という意味でしょうか。

シャーウッド・アンダーソンの「ワインズバーグ・オハイオ」なんかそうですね。ヘミングウェイなら一連の「アダムズ・シリーズ」とか。

アナトール・フランスなんか、聖書をハイジャックして短編小説を書いたわけですよ。石川啄木もいってみれば、函館とか、小樽とか、釧路にいって歌を書いたわけです。ウソも書いた。

釧路には千鳥なんていないのに、「しらじらと氷輝き千鳥鳴く釧路の海の冬の月かな」と歌ったのです。

それで釧路が有名になりました。

ぼくは釧路に行ったとき、食堂のおばさんにきいてみたんですよ。するとおばさんは、「釧路には、千鳥なんかいません」というんですよ。それはそれでいいんだ、というわけです。

啄木は苦労して借金してお金を工面しておきながら、それを、何の縁もない女郎に気前よくあげちゃうんです。人がいいというより、啄木はさびしかったんですね。だから啄木の歌には、ウソもあるけれど、みんな赦せるとおもってしまう。啄木の業務勤怠は有名です。

小樽では野口雨情と組んで、主筆の排斥運動なんかをやっちまう。で、啄木はクビになるわけです。

 

 かなしきは小樽の町よ

 歌ふことなき人人の

 声の荒さよ

 

 子を負ひて

 雪の吹き入る停車場に

 われ見送りし妻の眉かな

 

俳句とか短歌とかは、なんだか旅とともにあるような気がします。

――芭蕉なんか旅に出て句を詠む。

ただし、「古池や蛙飛びこむ水の音」は、長谷川櫂さんの説によると、「古池や」で切れて、「蛙飛びこむ水の音」とつづく。

古池が目のまえにあるわけじゃない。古池を見たとき、カエルが水に飛び込む光景を想い出したというわけです。俳句には「区切れ」というものがある。「区切れ」があるから、別の世界がつながるというわけ。

この「つながる」というのが俳句の妙味ですね。切れ字があってもつながる。

「端」という字、これは漢より前の時代にできた字ですが、モノの端をいい、鉛筆なら、端は左右ふたつある。端と端をつないだのが「橋」なんです。

「橋」は漢の時代にできた。詩だって1本、2本とブラックライン=黒い線、または畝がならびますね。英国人はこれを「ブラックライン」といったのです。第1連がおしまいの連にきて、リフレーンするわけです。つまり、橋のようにつながるというわけです。

丸谷才一さんが書いていますが、加藤楸邨の「鰯雲人に告ぐべきことならず」という句、あれは、さーっと読んでしまうと、わかりませんね。

俳句の初心者は「鰯雲ってきれいだな」とおもう。ただ、それだけです。

人にいっても、この美しさは、きっとわからないだろうとおもってしまう。

俳句作者は、そうじゃない。

鰯雲はきれいだなあって眺めつつ、――ところで加藤楸邨の句なんだけど、いま、じぶんが悩んでいる女の問題、おそらくそれは金銭のからむ難しい問題なんだけれど、そいつは、だれにも相談できないなとおもいつつ詠った句です。

やっぱり、いわないほうがいいとおもったりする。この句には、その両方のおもいが秘められているんじゃないか。だから、「鰯雲人に告ぐべきことならず」と、加藤楸邨は詠ったのでしょうね。

鰯雲人に告ぐべきことならず……とくれば、人にはいえないいろいろな情景というものが想い浮かぶ。で、じぶんで何か書いてみる。よくできた句をひとつ選んで、こんどは詩箋に書いてみる。

 

 「鰯雲帯ほどく妻の背を見はる」

 

へたくそな句だ。

つい伎癢(ぎよう)の念でやってはみたものの、ぼくはむろん、加藤楸邨にはなれないとおもう。だが、やってみることと、やらずに、ただ想像することとは、雲泥の差があります。読みなれた福音書(タナック)を持ち出してきて、それを気のきいた短編に仕立てる。テーラーみたいなものかとおもえる。アナトール・フランスは、そうしてネタを多く利用した。

林あまりという詩人、――58歳で、美しい女性歌人なんですが、読んだことありますか? ぜひ読むといいとおもいますよ。まず読んでいただきます。

 

 まず性器は手を伸ばされて

 悲しみがひときわ濃くなる秋の夕暮れ

 

 突きとばす意志が背中にはっきりと

 刻まれる今はもう戻れない

 

 舌でなぞる形も味もあなたは知らない

 わたしにはこんなになつかしいのに

 

――すごい歌ですね。解説しなくても、だれにだってわかるでしょう。

しかしよーく読んでみると、少なくとも男のぼくにはわからない。

「舌でなぞる形も味もあなたは知らない」といっていますが、何をいっているか、もうおわかりでしょう? そう、そんなこと、じぶんじゃできませんから。舌でなぞることもできませんし、その形も味もわからない。

それをすっかり知り尽くしているのは女ほうです。生身の人間の、匂い立つ「あっ」と驚くエロスがいっぱいの作品。圧倒的なパワーですね。

 

 うしろからじりじり入ってくる物の

 正体不明の感覚たのしむ

 

この記事を書いているいま、午後7時30分、書をやっているはずのヨーコが、じぶんを呼んでいる。ハッとして、はーい、と返事をしてしまった。

――さて、ちょっと古い作品ですが、映画監督・青山真治氏の書いた「帰り道が消えた」という小説、いまごろになって想いだされてきます。さっき、31歳の未婚の青年とおしゃべりしたからでしょうか。

彼はきょう、はじめて小説を書いた。それを持ってきてくれたのだ。

昼間会っていて、それから帰って、「ぼくは小説を書きます」といって、およそ3時間ほどたって、

「小説、メールで送りました」という連絡をもらった。

だったら、さっそく読んでみようということになり、彼とふたたび会うことになった。いい小説だった。A4判サイズの紙に2枚半。400字原稿用紙に換算すると、6枚と少し。でもタイトルがない。名前もない。まだ未完成なのだ。

それはそれで、中身は小説になっていた。

都内に勤務する「わたし」は、電車のなかで、老婆と出会い、それを見ている少年の話が書かれていて、少年は、主人公の「わたし」のかつての姿に写って見えるという、いまはもうなくなってしまった少年時代のイノセントを描いたものである。

いいなあとおもう。

で、あとでぼくは、感想をしたため、メールで送った。それにはこう書いた。

 

ウォルト・ホイットマン。

 

さっきの小説いいね。――ところで、「老人」なんだけど、もうちょっと描写力のあることばにしてはどうでしょう? 

なぜかっていうと、じっさい彼女は老人なのだけれど、当人にしたら、自分は老人なんだなんて少しもおもっていないかも知れないから。

そこは、ありきたりな抽象名詞にしないで、年老いた女性でも、たとえば、つえを持った人とか、あるいは、顔はアスパラみたいに艶のある紅をつけた女性だとか、……そういう、どこか、生々しい描写を描き込むと、老人の姿が、読者の印象として、はっきりしてくるのでは?

通勤電車のシートに座る老人なんて、ゴマンといます。そういう漠然とした人なのではなくて、この物語には必要な貫通行動の担い手になる人物なのですから、ちゃんと書いたほうがいいと思います。

もちろん「わたし」が主人公で、貫通行動の担い手です。

それも、年寄りと少年を見つめる人という静観する立場に終始しているので、果たして、どういう「わたし」なのか、読者にはわかりません。

けれども、この物語の最後に、それがわかるわけですね。

 

「――いや、わからない。だって、あんたはメキシコ人とは似ても似つかないだろうが。メキシコ女っていうのは、みんなケツがでっかくて、脚とか悪くて、おっぱいなんか顎の下まで盛り上がってて、肌が黄色くて、ベーコンのあぶらをくっつけたみたいな髪をしているやつらだ。だが、あんたは違う。あんたは小柄で、きれいな白い肌をしてて、髪もやわらかでカールしてる。黒くはあっても、ただひとつあんたとメキシコ人が似てるのは歯だ。やつらはみんな白い歯をしてる。それだけは誰も適わない。」

(※引用は、たまたまデスクの隅にある「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のページからとりました)。

 

フランクは、コーラにこんなことをいうのです。

男フランクと、食堂の経営者の妻コーラとはじめて交わす最初の会話。

彼女はギリシア人の男と結婚し、夫には彼女を、白人なんて見られていない。メキシコ人みたいに思われている。そこに投げかけられたのは、フランクのいう「白い歯」というキーワード。そういわれたコーラは、嬉しくなって、フランクにこころを開いていく。

わずか数行で、彼女のこころを物にする。セックス以上に、ふたりの関係は濃密になるという話です。

 

――ぼくは、まあ、そんなふうに書いたのです。

登場人物をどれだけ描ききれるか、ということ。でさっきの「帰り道……」の小説を想いだしたというわけ。時の大鎌、人生の逢魔である「時」。

多くの人は、どんな人でも年とともに人生の時間が少しずつ削られて、少しずつ死へと近づいていく。

中年の男は、そんなことを考えて、世間という目に見える世界のなかで、目には見えない時の跫音(あしおと)を聴く。

「俺たちみたいに帰るところのない人間は、いつか不安に襲われて自分でも思っていないようなかたちで自分自身をぶち壊しにするようなことをしでかすんじゃないかね」

ことに、夕暮れどきに訪れる、不気味な妖魔の気配を感じたときなんかは。

それにとり憑かれるのと同じように、狂いはじめる。

人生の盛りをすぎれば、底知れぬ不気味な誘惑に引っかかり、軌道を逸れてとんでもない世界へとひきずりこまれていく。ほんとうに帰り道が消えたら、ぞっとするだろうなと。

だが、どうだろうか。

それは「時」というものを恐れている前提の話ですね。

ぼくはいつも考えることは、自分の過去の半生というものがあって、残された生涯は、まだまだあるとおもっている。

「きょう」という日は、これからの残された生涯の始まりの日なのだとおもっている。そうすると、なぜか、新しい年のはじまりのようにおもえてくるのさ。そういう人間もいるということ。

ヘーゲルという人の書いた「法哲学」、その序文にはこう書かれている。

「ミネルヴァのフクロウは、立ち込める、たそがれとともにようやく飛び立つ」と。人は一日の終わりになって目覚め、年の終わりになって目覚め、人生の晩年になってますます目覚める。そういっているのではないだろうかとおもう。

だが、この歳で、いまさら目覚めたくないとおもうよ。

「21世紀の梟は、電車の中で、一日の終盤になって飛び立つのさ」、……そんな声が聞こえる。日本人は、車内でよく眠る。平和だからね。

年老いて何かに失敗し、挫折してベッドに臥せっていて、郵便配達が二度ベルを鳴らしても、もう起きられなくなって、彼の目醒めはいっそうはげしくなり、迷いすらなくなっても、立ち上がれないのだよ。

すっかり時の逢魔にやられちゃっても、ちゃんとこころのなかで行動しているのだ。

さっき、別の人のブログ記事を読んでいて、ぼくは、そこに書かれた文章に惹かれた。

それは、ウォルト・ホイットマンの詩「草の葉」の一節である。

 

《「青春」、――そいつはでっかくて元気が良くて、愛情いっぱい――優美さと、力強さと、魅力で溢れそうな青春よ。君は知っているか、「老人」がおそらくは君たちに劣らぬ優美さと力強さと魅力をそなえて、君のあとからやってくるのを》。――そう書かれていた。

 

老人は、起き上がれなくても、平気だって、ウォルト・ホイットマンは詠ったんだよ。