トニー・レア首相とージャー首相

 トニー・ブレア。2007年

 

ぼくはガラにもなく、いま政治の話をちょっとしてみたい。

1962年はじぶんにとって、東京元年の年だった。なにもかも、1962年からはじまった。

1962年にはアメリカの生物学者のレイチェル・カーソンが「沈黙の春」を著し、農薬などの化学物質の危険性を告発し、1969年にはアメリカの思想家バックミンスター・フラーは地球をひとつの宇宙船と見なし、化石燃料や鉱物資源には限りがあることを訴え、適切な資源利用について訴えた。

1989年、イギリスでは雑誌「Ethical Consumer(エシカルな消費者)」が創刊された。

以来、エシカルな消費についての考察や、グローバル企業が人道的に配慮して企業活動をしているかを調査し、結果を公表する動きが出始めた。

きらきら輝く、じぶんの《好き》を今後もあきらめたくないという考えがあちこちに芽生えた。この動きによって、英バークレイ銀行は南アフリカから撤退を余儀なくされた。人種差別問題や動物虐待など、目に見えるた形でボイコット運動がおこなわれたからだ。

トニー・ブレア元英首相は、若いころ、母の実家の援助でオクスフォード大学にいくことができた。オクスフォード大学出身の政治家はまことに多いが、とうじは、議員になることなど考えてもいなかった。

学生仲間とつくったロック・バンド「アグリー・ルーマーズ(醜い噂)」のボーカリストとして活躍した。ロングヘアをたらし、胸をはだけて、ミック・ジャガーを気取っていた。

もしもトニー・ブレアがロックスターになろうとしているといわれたら、そりゃあだれもが信じただろう。だが、労働党のリーダーになろうとしているといわれたら、みんなはクビをかしげただろう。それほどトニー・ブレアという男は、政治とは無縁だった。

大学では社会科学を専攻した。やがて社会問題に興味を持ちはじめ、ブレアは何か感じたのかもしれない。ほどなくして労働党に入党し、政治活動を活発化させていく。

結婚したばかりの妻チェリー・ブースが政治に強い関心を持っていたこともその一因かもしれない。だが、政治に関心を持ったからといって、だれもが政治家になれるとはかぎらない。

しかし、彼には幸運がついてまわった。はじめて労働党の候補者になった補欠選挙では敗れたが、つぎの1983年の総選挙で北イングランドのセッジフィールドから立候補した姿は、ブレアの未来を象徴していた。

大学時代、ブレアが専攻したのは「イギリス社会学」だった。 

かつて貴族とジェントリーがイギリスの上流社会をつくってきた。両者の特権の差はほとんどなく、社交界を通じて通婚もしばしばあった。地方の貴族同様に、土地所有者として不労所得で優雅な暮らしを送っている。この貴族制(アリストクラシー)というのが、貴族・ジェントリによる寡頭支配を意味している。ブレアはこれを少しでも打破したいとおもっていた。

1983年6月の総選挙を一ヶ月前にして、妻が開いたブレア30歳の誕生日のパーティは憂鬱だった。ほとんどの選挙区で候補者が決まっていたが、彼が出馬する選挙区がまだ見つかっていなかった。

パーティの席で、彼の生まれ故郷に近いセッジフィールドは、まだ労働党の候補者が決まっていないことがわかった。翌日ブレアはカバンひとつ抱えて、セッジフィールドに出かけた。妻の話では、選挙がおわるまで帰ってこなかったそうだ。

現地に行くと、労働党活動家5人は、そろいもそろって、サッカーのテレビ中継に夢中になっているところだった。

サッカーがおわり、ブレアはここにやってきた理由を話しはじめた。そのうちに、労働党の未来はどうあるべきか、EUに対してもイングランドはどういう方策をとるべきか、彼自身の国の在り方を情熱をこめて話した。

「ここに、労働党を心底から改革しようとしている人間がいる」という印象を強く残した。

そこには、ブレアとは考えの違う左派系の男もいたが、党の改革をめざすことにおいては目的はおなじで、ブレアをセッジフィールドの労働党候補にするため、強く後押しすると約束した。

こうして、ブレアは選挙区内の各地区支部の指名を受けることができ、サッカー観戦でぐうぜん出会った5人組の男の選挙運動がはじまったのである。

代議員の支持を得なければ正式な候補者にはなれない。ここは日本とちがって、候補者選びの段階で、民主主義が強く作用する。

そして、1992年の総選挙はどうであったか?

敗北したキノック労働党党首が引退し、ジョン・スミスが党首になった。

彼の現実的な政策は多くの支持者を納得させた。もしもスミスが首相になれば長期政権も可能といわれた。世論調査もそれを物語っていた。

ところが、スミスはとつぜん心臓発作に見舞われ、急死してしまった。労働党は茫然となった。最有力者は、ブレアとゴードン・ブラウンだった。ふたりは1983年に議員となったいわば《同期》であり、議員事務室も共有し、右派的思想もおなじだった。けれども、ふたりが党首選に立候補すれば共倒れする危険性があった。党内分裂はどうあっても避ける必要があった。

ふたりは話し合い、ブレアが党首選に立候補することになったのである。ブラウンは涙を飲んでブレアを支えることになった。のちにブラウンを影の内閣の蔵相、労働党政権成立後には蔵相として遇した。右派をまとめたブレアの手腕は、みごとに花を咲かせた。

イギリスのリーダーシップを見ると、民主主義のあらゆる形を見ることができるといわれている。そこにはリーダーシップのさまざまな姿を見るだけではなく、リーダーとはどうあるべきか、リーダーひとりの意志と行動によって国がどれだけ変わるか、恐ろしいほどにわかる。

イギリスは第2次世界大戦を機に、超大国としての地位をすべり落ちたが、世界の模範となる福祉国家を実現し、気を吐いた。

ストライキに象徴される英国病で、経済的に日独米から遅れをとったが、サッチャー革命によって息を吹き返し、ブレア政権は一時期、新しいイギリスをスローガンに《世界の信号塔》となった。

日本の政治体制はイギリスにならい、立憲君主制、議院内閣制、二院制、小選挙区制など、もっとも根幹的な政治システムというものをイギリスを範としてずっと受け入れてきた。日本の皇室は、基本的にイギリス王室を模範としてきた。

1931年には、「ウェストミンスター憲章」が制定され、「ブリティッシュ・コモンウェルズ・オブ・ネーションズ」が発足した。その構成単位は、本国イギリスと、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、ニューファンドランド、南アフリカ連邦、アイルランド自由国の6つの自治国で成り立つ。ただし、1949年以降は、「ブリティッシュ・コモンウェルス」という名称にかわって、たんに「コモンウェルス(連邦)」が正式の名称になった。

 

そのころのじぶん

 

ブレアの舌は、口でいうほど保守と決めているわけではなかった。ときには、ひつじの「カレー風味のマトン(a dish of curried mutton)」なんかを食する。この時代、カレーはもうすでに庶民の料理になっていたという証拠である。

上流階級のイギリス人がインドにわたり、そこでおぼえたインド料理として持ち帰ったのがスパイシーなカレー料理だったというわけである。

もちろんカレー・ルーのことではなく、カレー粉(curry powder)のことである。

ぼくらが子供のころに食べたカレーも、もとはカレー粉だった。

もともとインドにはカレー粉はなかったという話を聞く。カレー粉にしたのはイギリスである。それを輸入したのが日本だった。

イギリスでカレー粉を大量生産されるまえは、どこの家の主婦も、あたりまえのように、手づくりでカレー粉をつくっていた。イギリスの料理研究家の本によれば、カレーのつくり方がちゃんと書かれているのである。

なかでも、「マトンの腿肉(a leg of mutton)」は、とくに紳士には好まれたようだ。知られているように、シャーロックホームズ「白銀号事件」を描いたころには、すでにカレー粉が出まわっていたようで、ならば、調理はいたって手軽にできたことだろう。

で、ぼくはけっきょく間違えて、ブリティッシュ料理をつくるつもりが、イタリア料理をつくってしまったわけだった! 

途中で牛のブロック肉をひとつつくり、それをメインにした「ジェノぺーゼGenovese」というのを仕上げてみた。真っ白な皿に盛りづけし、真っ赤なプチトマトを乗せる。見た目もおいしいし、忙しい人も、日本人ならカプッチーノcappuccinoなしでも、気軽においしく食べられそう。

「プチって、何?」ときく人がいる。

これ、フランス語で「小さい」という意味。イタリア語では「ピッコロPiccolo(男性)」、または「ピッコラPiccola(女性)」と聞える。

首相になったブレア首相は、晩餐会の食を取り仕切る24歳のシェフのジェイミー・オリバーにすべてをまかせ、成功した。

 ジョン・メージャー

 

ある人から、「もしも20世紀の時代にタイムスリップすることができるとしたら、何年に戻りたいですか?」と質問された。ぼくはどういう返事をしただろうか、と考えてみた。

そう、もしもそういう勝手がゆるされるとしたら、

「ぼくは、1964年に戻りたい。1964年、ぼくは21歳でした。ロンドンでBBCのラジオ放送を聴いて、政治家の演説する音声をはじめて聴いたときの感動を、いまおもい出す。すばらしい演説に聞こえました」本場のイギリス英語というものをはじめて聴いた瞬間だった。りっぱな標準語に聞こえたのである。

その話を書いたところ、ある読者の方から、

「私も基本的にそうあれば良いと最後の文面を読んで感じました」というコメントをいただいた。

それに応えて、ぼくはつぎのように書いたのだった。

「たとえばイギリスの歴代の指導者たちの足跡を読んでいますと、サーカス芸人の息子で、貧乏で名がなくても、高校中退で学歴がなくても、強烈なリーダーシップのもと、保守党の党首となり、首相になった人がおります。まさにジョン・メージャーという男がそうであったように、政治家には強烈なリーダーシップが求められます。慣習法の国、イギリスにおける「首相」の座は、米大統領以上に権限があります。彼の首相職の在にあった9年間は、怒濤の9年間でした。

20世紀で最も若い47歳で首相となり、サッチャーから引き継いだその9年におよぶ彼の活躍は、現在のEUを牽引する交渉の責任者として、英国の利益を押し通した人として、ぼくには忘れられない人物です。

EUの統一通貨を蹴り、英国のポンドを守った人です。

そして、英国の金融センターを守った人。

街角では《石鹸箱》の上に立って、街頭で演説をした人で、古臭くてシャイで、多くのメディアはそういう彼をТVで流しました。湾岸戦争がはじまって、彼は前線に飛んで行ってイギリス兵士を激励しました。

選挙では、過去30年間で最も高く票をあつめ、彼は、英国で最も人気のある首相でした。政治家のリーダーシップとは何かということを絵に描いたように見せつけた男、そんな印象を持ちます」

と書いたのである。

ちょっといい過ぎだったかもしれない。

ちょうど、柄にもなく、必要があって、ぼくはジョン・メージャー政権時代を調べているところだった。

ぼくはふたたび黒岩徹氏の書いた「指導者たちの現代史 イギリス現代政治の軌跡」(丸善ライブラリー、平成10年)という本を、もう一度ひっぱり出してきて読み返した。そこにはジョン・メージャーの話がもっとくわしく描かれている。1902年に「日英同盟」がむすばれ、ともに海洋国家同士は、21年におよぶ同盟関係にあった。日本とイギリスは、それ以来の長いつき合いである。

だが、われわれはイギリスについて、どれほどの知識を持っているだろうか?

地理的にはユーラシア大陸の西と東の洋上に位置し、大陸から大きな影響を受けてきた国である。われわれにはイギリスはヨーロッパのなかで、もっとも親しみを感じる国といわれている。

だが、イギリスという国は、日本のような単位民族で成り立っていない。古来から、海や大陸を通って渡ってきた民族である。ケルト人、ローマ人、アングロサクソン人、デーン人、そしてノルマン人などの侵略、対立・抗争を経て現在に至っている。

日本の比ではない。

「ドーバー海峡は浅いが、イングランドを守り得るにはじゅうぶんな深さであった」とはいわれているが、とんでもない。クロムウェルのアイルランド侵攻以来、隣国のアイルランド共和国にとっては怨み骨髄の関係にあり、北アイルランド紛争は、同国の主権侵害にかかわる政治的な怨念を爆発させた事件であった。

スコットランドも同様である。

サミュエル・ジョンソンの辞典によれば、

「カラス麦は、イングランドでは馬が食い、スコットランドでは人間が食べる」と出ている。それを見た弟子のスコットランド人ボスウェルは、

「だから、イングランドでは馬がすばらしく、スコットランドでは人間がすばらしいのです」といったというのである。

そうはいっても、日本の政治体制はイギリスに倣い、立憲君主制、議院内閣制、二院制、小選挙区制など、もっとも根幹的な政治システムというものをイギリスを範としてずっと受け入れてきた。日本の皇室は、基本的にイギリス王室を模範としてきた。

1931年には、「ウェストミンスター憲章」が制定され、「ブリティッシュ・コモンウェルズ・オブ・ネーションズ」が発足した。

その構成単位は、本国イギリスと、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、ニューファンドランド、南アフリカ連邦、アイルランド自由国の6つの自治国で成り立つ。ただし、1949年以降は、「ブリティッシュ・コモンウェルス」という名称にかわって、たんに「コモンウェルス(連邦)」が正式の名称になった。

メージャーは、1985年のマーガレット・サッチャー内閣の内閣改造の際に保健社会保障省関連の役職に就いた。ついで1987年に財務首席政務次官として初入閣。閣内では予算削減継続の管理能力を高く評価された。

1989年7月にサッチャーと対立したジェフリー・ハウ外務・英連邦大臣の辞職に伴い、代わって外務・英連邦大臣に就任した。

ところが外務・英連邦大臣の就任から3カ月後の同年10月にナイジェル・ローソン財務大臣がサッチャーの経済問題アドバイザーであるアラン・ウォルターズと対立して辞職したため、代わって財務大臣に転任することになった。

サッチャーはメージャーを財務大臣に任命するに当たって「ナイジェルほど経済に精通していないが、少なくとも過去の政策の失敗に囚われて身動きできなくなるようなことはない。彼は、政策の失敗から引き起こされた結果にはるかに容易に対応できるはずだから」と彼のことを評価した。

メージャーが財務大臣になったころの景気はきわめて悪く、経常収支が大幅赤字でインフレが急速に進行し、金利が上昇していた。メージャーはサッチャーに欧州為替相場メカニズム(ERM)加盟を進言し、消極的だった彼女を説得して実現にこぎつけた。

20世紀に入って、長期政権を保持してきたサッチャーが舞台から降りると、サッチャーの息のかかったジョン・メージャーが政権を引き継いだ。もう一度書くけれど47歳だった。

サッチャーはメージャーのことを「じぶんの息子」といったくらい可愛がっていた。だから、彼はサッチャーの政策を180度転換するのはむずかしかった。

けれども、彼の得意技は、党の亀裂を修復するコンセンサスを執ることだった。保守党の信頼を勝ちとることをメージャーの最大政策に置いた。そのため、彼が首相になっても、サッチャーの顔を立てた。彼は、イギリス国民を長いあいだ分裂させてきた階級をなくし、「クラスレス社会」の実現を旗印にかかげた。

そのころ、イギリスでは階級意識が緩和されつつあった。これを機に、《階級なき社会》をめざすことを訴えたのである。

さっきもいったように、メージャー自身が体験してきた下層階級の悲哀をなくそうとした。父親はサーカスの団長で、母親はサーカスの踊り子として活躍していた。その話は、メージャーが首相になってからあきらかになった話である。

メージャーは16歳のとき、当時の受験校だったグラマー・スクール「ラトリッシュ校」を中退した。大学にも行かず、高校中退という人物が、やがて保守党の党首になること自体、奇跡といわれていた。

彼の社会経験は、バスの切符切りからはじまるはずだったが、面接に行くと、背が高すぎるという口実で採用にならなかった。もしも採用されていたら、メージャー首相の誕生はなかったかもしれない。けっきょく、銀行員となり、保守党のランベス地区の区会議員となった。そこはロンドンの貧民街といわれていた街である。

やがてイースト・アングリア地方の保守党候補者になり、1979年の総選挙ではじめて下院議員となった。このとき、保守党が勝ってサッチャー政権が誕生した。81年には、内務担当国務大臣の政治秘書の役につき、83年に院内総務補佐となり、院内幹事となった。

そのいずれのときにも、運のいいことに、彼を後押しする後見人があらわれる。社会保障大臣になったとき、大蔵大臣になったとき、首相になったとき、いつのばあいも、メージャーには力強い後押しがあった。それで47歳という若さで、メージャー政権が誕生することになったのである。

それでも、いま手元にある黒岩徹の「指導者たちの現代史 イギリス現代政治の軌跡」によれば、こう書かれている。ある晩餐の席でのことである。フルコースがすすんで、やがてメインコースが出たとき、サッチャーはいきなり政治の話をした。そしてメージャーに経済政策について報告するようにといった。院内幹事のメージャーは、こういった。

「租税を控除することと減税との違いを、一般大衆が理解しているわけではありません」と。

そのとたん、サッチャーは、

「あなたのいっていることは、おかしい!」といった。

で、晩餐の席で議論することになった。

この話は、かねてからのメージャーの自説であり、さすがのサッチャーにもゆずらなかった。メージャーの同僚だったロバート・ボスカウェンが味方する発言をすると、サッチャーはボスカウェンに向かって、

「あなたは、党のために立とうとしない臆病者よ」といって、批判した。

議論は白熱し、つかみ合いになりそうな騒ぎになった。

そこでとつぜん、トランピントン男爵夫人が、

「首相は正しい!」と声を高めた。

すると、サッチャーが、

「何について?」と尋ねる。夫人は、

「えーと、忘れてしまいました!」と答えたので、大笑いのままその場はおさまった。

この一事でもかるように、メージャーの経済政策には、明確なスタンスがあった。夕食が終わって、廊下を歩きながら、サッチャーの夫デニスがメージャーの背中を叩いた。

「むろん心配は要らない。彼女は、楽しんでいたよ」といった。だが、これで首相から嫌われてしまったと判断し、メージャーはこういった。

「首相は、院内幹事として別の人間を見つけるでしょう」と。

これはのちに分かったことだが、サッチャーはメージャーという男の優秀さを知る機会となった。メージャーは社会保障省の政務次官に任命され、翌年の86年には、同省の大臣となり、87年からは、大蔵担当国務大臣(閣内相)に任命されたのである。

だが、メージャーの首相としての活躍は、ぱっとしなかった。

サッチャー政権下で活躍した実績が大きいためだと評価する論調が多い。そのなかにあって、マーストリヒト条約の批准をめぐる活躍は、サッチャー以上だったとおもう。

 

 ①条約にある労働者の権利、労働時間を規定した社会憲章を、イギリスだけ、「除外する」こ

  と。

 ②1999年までのスタート日程についても、イギリスだけ「除外する」こと。

 ③EUの単一通貨について、イギリスだけこれを「除外する」こと。

     イギリスはユーロを受け入れず、ポンドを維持することに成功する。

 

以上3つのイギリスの採った政策は、ことごとく成功した。

これはジョン・メージャーの功績である。

これについてはいろいろと政治的な曲折があるものの、そのころのイギリスの当面の課題は、サッチャー政権の後期から不況期に入って、イギリス経済が低迷したときであった。

それはどんなものだったか?

メージャーは、ERM(ヨーロッパ為替相場メカニズム)に参加しつづけることを経済運営の主軸にすえていたが、経済は、先行きの不安と投機筋が93年9月のポンド高をきらって売りに出ていた。そのため、ポンドの投げ売りにたいして、イングランド銀行が買い支えをつづけていた。

ドイツ連銀のシュレジンジャー総裁は、ヨーロッパ通貨システムの再調整が避けられない、と発言。これはポンド切り下げも当然というニュアンスを残した。

この発言で、9月16日水曜日は、ヨーロッパ為替市場でポンドが怒濤にように売られた。メージャーは緊急閣議を開き、ひとまず公定歩合を10パーセントから2パーセント切り上げて市場の沈静化をはかった。

しかしそれでも止まらず、ポンドのERMからの離脱を決めたのだった。世にいわれる「ブラック・ウェンズデー」と呼ばれる最悪の日となった。

メージャーの経済戦略は、完全に狂ってしまったのである。

このとき以来、メージャーは保守党内の反ヨーロッパ派には屈しなかったものの、いってみれば、「単一通貨にはしない」、「ヨーロッパには協力しない」といっただけの政治家と見なされるようになった。

そのころイギリスの新聞に踊ったのは、「スリーズ(sleaze)」ということばだった。「いかがわしさ」という意味である。どうもおかしいぞ! という意味である。

ぼくは先日の記事で、メージャーはイギリスの「金融」を守ったと書いた。

守ろうとして通貨ポンドを維持してきたのだが、最後の最後になって、それが裏目に出たというわけである。経済は魔物である。政治のおよばないところで動く。

そのまさかが、こんどは2008年の英銀ロイヤルバンク・オブ・スコットランド(RBS)の破綻劇となったのである。それでもポンドは堅調だった。――EU離脱をめぐる議論において、メージャーはEU残留派であり、EU離脱の是非を問う国民投票の再実施を主張した。2018年12月11日にはEU離脱の手続きは当面停止する必要があるといい、EU離脱は英国の国際的な影響力の低下につながると警告した。2012年(平成24年)5月8日、旭日大綬章(日本勲章)。

なぜジョン・メージャーのことばかりしゃべるのか? って。ぼくはジョン・メージャーと年齢がおなじなのだ。考えもおなじなのだ。