■スタンダールの時代。――

死んだ「と黒」がを吹き返す!

 

イポリット・テーヌの功績
 
 ――ここでついでながら、文芸批評家が小説家の心理を云々するとき、その心理ということばの使い方は、心理学者が使う用法とはかならずしもおなじではないようです。小説家が心理を云々するときは、たいてい文芸批評家はその小説家が作中人物の行動よりも、むしろ動機、思考、感情に力点をおいていることが多いからです。

ところが、実際の上からいって、小説家がそのようなことをした場合、嫉妬心とか悪意とか、利己心とか卑劣とか、人間の邪悪な面――実際にいって、人間の善良な性質よりも下劣な性質をもっぱら暴露する結果になるのが当然です。

が、それがまたいかにも真実らしくおもえるのです。自分自身、心に憎むべき性質をいかに多く持ち合わせているか、完全な阿呆でないかぎり、人間だれしもじゅうぶんによく心得ているでしょう。

まさに16世紀イギリスの牧師かだれかがいったように、「神の恩寵(おんちょう)がなければ自分もおなじ運命にあるところだ」

スタンダールは、19世紀フランスが生んだ3大小説家のひとりであることは、だれもが認めるところであろうとおもわれますが、小説家として見るスタンダールの場合は、いちじるしく変わったところがあります。

偉大な作家は、むかしから多作で知られるけれど、なかでもバルザックとディケンズはその最たるもので、もしも老齢に達するまで生きながらえたとしたら、相変わらず物語を次から次へとつくりつづけていったことでしょう。そうしたことから、重要なのはスケールの大きな、強靭な創作能力だと考えられます。

ところが、この才能を、スタンダールはほとんどまったく欠いています。

しかし、数多い小説家のなかで、おそらくもっとも独創的なのが彼なのです。彼は若いころ、有名な劇詩人になりたいとおもいながら、ただの一編しか戯曲を書くことができなかったし、テーマすらおもいつくことができなかったけれど、同様にまた、小説を書きはじめるにあたっても、自分の頭でプロットを考え出すことが、ほとんどできませんでした。

彼の最初の小説は、先にも述べたように「アルマンス」です。

そのころたまたまド・デュラ公爵夫人が書いた2編の小説が、いずれもテーマが大胆なものであって、悪い意味で評判になっていたところです。そこへ当時多少は名が知られたアンドリ・ド・ラトゥシュという作家が、性的不能者を主人公にした小説を、公爵夫人の作としてくれることを狙って匿名で出版しました。

スタンダールは「アルマンス」を書くにあたって、このラトゥシュの小説から、テーマばかりか、プロットまで勝手に借用したうえに、ラトゥシュが主人公に使ったオリヴィエという名前さえも、そのまま自分の作品の主人公に使っているのです。オクターヴという名前に変えたのは、ようやく後になってからのことです。

 

 

 

 

スタンダールはこの作品で、心理的リアリズムとでもいえるような手法を使って、ラトゥシュのテーマを臆面もなく、潤色してしまったわけです。

全体としてどうみても不出来な小説であることには変わりがないけれど、事件という事件がまったく荒唐無稽であり、この作品に登場する人物に性的不能というテーマを与えていますが、そのような男が、若い娘と激しい恋に陥り、性的関係を迫るなどというようなことがあろうとは、ぜったいに信じられないからです。

「赤と黒」の場合は、後にあらためて詳しく触れますが、実際にあった有名な裁判事件を起こしたひとりの青年の経歴を忠実に追っている作品で、「パレムの僧院」のなかで、サント・ブーヴが称讃に値すると考えた唯一の文章は、ウォータールーの戦いの描写ですが、その称讃に値する描写というのが、実はヴィトーリアスペイン北部の都市、1813年、ここでの戦いでフランス軍が敗れたの戦いに参加したイギリス一軍人の回想録から示唆を受けたものであり、それ以外の箇所も、すべてイタリアの古い年代記と回想録に材料を仰いでつくられたものです。

彼は作品のプロットというものを、ふしぎなことに、どこからか手に入れています。

ときには、直接体験したり目撃したり、あるいは人から聞いたりした実人生に起こった事件から採られています。概して何らかの理由で想像力を刺激したほかの人物たちを完全に自分のものにしたことから、というのが普通です。

第一級の小説家のなかで、スタンダールのように、自分の読んだもののなかに直接霊感を見出した作家をあげるとすれば、島崎藤村であり、有島武郎であり、大江健三郎氏であろうとおもわれますが、スタンダールのようにプロットまで借用におよんだ作家は、ぼくは知りません。

――しかしこれは、スタンダールを誹謗(ひぼう)していっているのではありません。

プロット(ストーリー立て)はのちにも述べるように、大した問題ではないのです。ストーリーは主題を補強してはくれるけれど、けっして主題にはなり得ない。主題になった作品の例をひとつもおもい出すことができないからです。――なぜスタンダールが偉大であったか、それをぜひ知ってほしいとおもいます。

 

 

 

先にあげたテーヌがその有名な文章で注意の大半をそそいだのは、「赤と黒」でした。

しかし、彼は歴史家であり、哲学者だったので、彼の興味はもっぱらスタンダールの心理的な鋭さと、洞察力のすぐれた動機の分析と、その考え方が新鮮で独創的である点に向けられました。まことに正しい判断です。

スタンダールがこの事件を描いたのは、事件そのもののためではなく、作中人物の感情、その特異な性格、情熱の変化を描いたのであって、事件がひき起こす範囲内にかぎられており、そればかりでなく、スタンダールは劇的な事件ではあっても、劇的に書くことをけっしてしなかった作家です。

たいていの作家ならば、こうした場面を一大事件と見なして長口舌をふるうだろうとおもわれますが、「赤と黒」で、事実スタンダールは、例をあげるならば、つぎのように書いているだけです。――

 

独房の悪い空気は、ジュリアンにとって次第に堪えがたいものになってきた。幸い、死刑執行をいい渡されたその日は、美しい太陽が自然を活気づけ、ジュリアンは勇気が出た。戸外を歩くのは、長い航海に出ていた船乗りが久しぶりに陸上を歩くのと同様に、いうにいわれず快い。さあ、これで万事うまくいく。おれは勇気を失ってはいない。彼は自分にいった。彼は頭が、いままさに断たれようとしていたそのときほど、詩的になったことはかつてなかった。ヴェルジーの森で楽しく過ごした瞬間のすべてが、この上なくいきいきと、一時に脳裡に甦ってきた。事はすべて簡単に、正しく運ばれた。彼は彼で少しも気取りを見せなかった。

(スタンダール「赤と黒」)

 

しかし、イポリット・テーヌの論文に触発されて「赤と黒」を読んだ者のなかには、おそらく失望をおぼえた人もいただろうとおもいます。

なぜなら、テーヌの論評は芸術作品として論評しているわけではなかったからです。芸術作品として読むと、この小説は恐ろしく不完全な作品です。

しかしイポリット・テーヌこそ、スタンダールの発掘者です。

彼はのちに有名な哲学者、文学史家となります。

しかし、それでいて、ジュリアン・ソレルという人物像は、19世紀を代表しているのです。スタンダールは、ほかのだれにたいしてよりも、自分自身にたいして一番興味を持った最初の人です。

彼の「アルマンス」のオクトーヴにしても、「パレムの僧院」のファブリスにしても、つねに彼自身であり、「赤と黒」の主人公ジュリアン・ソレルは、できれば自分がなりたかった種類の人物であったろうとおもわれます。

スタンダールは、どのような犠牲を払っても、自分自身そうありたいと願いながら、そのとおりにいったことは残念ながらめったになかった。ジュリアンを女にとってひじょうに魅力ある男に描き、また女の心をやすやすと得ることができる男に描いています。

しかも女性にたいして目的を遂げるのに用いる方法というのが、ほかでもない、自分自身が使うために日ごろ考案しておきながら、ついぞ自分自身、使ったためしがない方法なのです。

さらにまた、自分自身と同様、才気縦横の話しの語り手にしています。奇妙にも、しかし賢明にもというべきか、ジュリアンの縦横の才気をしめす実例は、ひとつとして描かれてはいません。ただそうだと断言しているだけです。心憎いほどうまい。

小説家が作中のある人物について、機知に富んでいると読者にことわるのはいいけれど、さてその機知の実例をあげるとなると、たいていの読者の期待を裏切る場合が多いことを彼はちゃんと心得ていた。

ジュリアンには、驚くほどたしかな記憶力のあることをはじめとして、勇気、臆病、野心、するどい感受性、計算ずくの頭脳、邪推深さ、虚栄心、怒りっぽさ、破廉恥さ、忘恩など、すべて彼自身のものを惜しみなく与えています。

ですから、ジュリアンは彼自身だったといえるのではないか、そうぼくは考えます。

だから、あのようなすばらしい人物を創造することができたとおもうのです。

先にも述べたようにスタンダールは、自分の頭で何ひとつ物語をつくり出す才能に欠けていたので、「赤と黒」の場合も、当時大評判になっていたある刑事事件を新聞で読み、それからプロットを採ったにすぎません。

その事件というのは、アントワーヌ・ベルテという若い神学校の学生が、はじめはミシュー氏という人の家で、それからド・コルドン氏という人の家で家庭教師をしていたが、最初の家ではミシュー夫人を、つぎの家では令嬢を、誘惑しようとしたか、誘惑したかしたもので、両方ともクビになった。

そこでふたたび勉強をつづけて聖職につこうとしたところが、悪い評判がたって、どこの神学校でも入学を許してくれません。これはミシュー夫妻の仕業であるとおもいこみ、復讐心にかられて、ミシュー夫人が教会へ出かけたところをピストルで射ち、それから自分も自殺を計った。

ミシュー夫人は死亡しますが、彼は致命傷にはいたらず、彼は裁判にかけられ、気の毒なミシュー夫人に罪を着せて助かろうとしますが、けっきょく死刑を宣告されて処刑されたという実際の記事です。

この醜悪で不潔な事件は、スタンダールの心に訴えるものがありました。

彼はベルテの犯罪を、たくましい反抗的な人間が社会秩序にたいしておこなった反逆行為であり、人工的な社会にはつきものの因襲に少しも災いされない自然人としての自己表現であると解します。

――奇妙といえば奇妙な解釈です。