フランス・ロマン派文学・スタンダール。6

像力だけで恋愛する「の恋愛」?

 

けれども、ジュリアンが彼とかかわりを持つ人びとに不快な気持ちを起こさせ、また彼にたいして、もっとも警戒しなければならない理由のある人びとを除いて、他のすべての人びとから疑いの目をもって見られていた事実に、ときおり読者の注意をうながすことを忘れていません。

ジュリアンが家庭教師をしていた子供たちの母親レナール夫人は、小説家が描き出すのにもっとも困難をおぼえる人物とおもわれます。

この作品のように、この種の女性をつくり出そうする小説家が書いて、それに成功している作品にお目にかかったことが、ぼくには一度もないのです。

悪人を描く方法は10も20もあります。

しかし、レナール夫人のような貞淑で、誠実で、魅力のある女性ではありますが、その夫人が不安とためらいをおぼえつつも、しだいにジュリアンを愛するようになっていき、最後にその愛が激しく燃えあがるあたりの叙述は、まさに名人芸の感があります。このような人物を書いて成功している他の作品をぼくは知りません。

小説家が狙って、なかなか描けないタイプの人物でしょう。

レナール夫人は、これまで文学作品のなかで描かれた女性たちのなかで、ぼくの知るかぎりにおいて、もっとも感動の深い人物のひとりであろうとおもわれます。ジュリアンは、それが、じぶんにたいする義務ででもあるかのようにおもえて、ある日の夕方、彼女の手を握ることがなかったら、いっそ自殺してしまおうと決心します。――それは、とっておきの縞ズボンをはいて、ここと定めた地点に達したとき、ダリュー伯爵夫人に、わが胸中を打ち明けなかったならば、ピストルで頭を射ち抜いて死んでしまおうと、作家自身がじぶんに誓った姿そのままです。

けっきょくジュリアンは、レナール夫人を誘惑するのですが、最初は、それは彼女を恋したからではなく、ひとつには彼女の属する階級にたいして恨みを晴らそうとしたからであり、またひとつは、自分自身の虚栄心を満足させるためでもありました。

ところが、やがて真実彼女を恋するようになって、彼の卑しい本能はしばらくのあいだ活動を停止するのです。

彼は生まれてはじめて真剣に恋するようになって、幸福感を味わいます。読者も、ここで彼に共感をおぼえはじめます。

ところが、レナール夫人の軽率な振る舞いからよくない噂が立ちはじめます。ジュリアンは聖職につく準備のために神学校に入って勉強する話がきまる。ジュリアンのレナール家での生活や、神学校での生活のシーンを描いた箇所は、まことにもって完璧の出来栄えで、間然するところがありません。これ以上を望むことはとうてい不可能のようにおもわれます。

ドストエフスキーもトルストイも、フローベルも書けなかった人物を書いて成功しています。ここで、スタンダールが真実を語っていることは、少しも疑うことができません。

だが、シーンがパリへ移ったとたんに、作品のはこびが、そのままではどうしても受け取りにくくなります。――少し詳しくいいますと、だいたいつぎのようになります。

ジュリアンは神学校を卒業すると、校長がラ・モール公爵の秘書という地位を斡旋してくれて、こうして彼は、首都パリのもっとも貴族的な社会に出入りすることができるようになります。

ところが、スタンダールが描いているその社会というのは、読めば分かるとおりけっして上流社会なのではなく、あくまでも中産階級の社会なのです。

スタンダール自身は、上流社会に出入りしたことは一度としてなかった。

彼が嫌でもよく知りつくしている社会というのは、中産階級社会でした。だから、育ちのよい人びとがどのようにふるまうか、彼は知らなかったのです。名門の名前、生まれの誇りというものに、出会ったことがなかったからです。

スタンダールは、本質的にはリアリストですが、人はだれしも、どれほど受けまいと努めても、生まれ合わせた時代の精神的雰囲気からの影響は、けっしてまぬがれるものではありません。しかも、もっとも感受性の強い14、5歳から20歳ごろの境遇に身につけたものは、終生、その人の考えを決定させます。

スタンダールも、18世紀の良識と洗練された文化がじゅうぶんによく理解できたにもかかわらず、ロマン主義から深い影響を受けないではいられませんでした。

さきに指摘しておいたように、彼は良心の咎めにも後悔の念にもわずらわされることなく、野心を遂げ、飽くことを知らぬ欲望を満たし、あるいは体面を傷つけられ、その恨みを晴らすためには何の躊躇もせず、恐ろしい罪をもあえて犯します。イタリア・ルネサンス時代の残酷きわまる人びとの持つ魅力のトリコとなります。そして彼らに見られる精力、――さらには結果の無視、因襲にたいする蔑視、――それらは魂の自由にも匹敵する尊いものに考えたのです。

「赤と黒」の後半が意に満たない出来栄えなのは、こうしたロマンティックな好みが原因になっているとおもわれ、後半になると、とうてい真実とは受け取れないことを、真実とおもいこみ、いっこうに意味をなさない出来事に興味を持つことを読者は強く要求されるようにできあがっています。

作品に出てくるラ・モール氏には令嬢がひとりいます。

名をマチルドといい、美しいけれど、高慢ちきで、高貴の生まれであることをつねづね強く意識し、ひとりはシャルル9世の御世に、いまひとりはルイ13世の御世に、それぞれ偉大な報酬をねらって命を賭け、あげくは死刑に処せられたふたりの祖先のことを異常なほど誇りにおもっています。

その彼女が、自然の暗号で、スタンダールとおなじように「精力」を価値あるものに考え、結婚を求めて近づいてくる平凡な青年貴族たちを心から軽蔑していました。

ところで、エミール・ファゲ(1847~1916年)というフランスの批評家は、その興味ぶかい論文のなかで、スタンダールは恋愛のさまざまな種類を数えあげながら、「頭の恋愛」を書いていると指摘しています。

この「頭の恋愛」とは、想像のなかに生まれ、想像のなかで成長し、死滅する恋愛のことで、ラ・モール嬢は、この恋愛を父親の秘書にたいしておぼえはじめていきますが、その段階を描くスタンダールの巧妙さは、まことに鮮やかで、比類ない文章です。

マチルドはジュリアンに心ひかれ、と同時に嫌悪をおぼえながら、けっきょく深く愛するようになります。

それはジュリアンが周囲の青年貴族たちとはちがって、彼がじぶんと同様に彼らを軽蔑していることを知ったからです。そして彼の生まれが卑しいこと、じぶんに劣らず自尊心が強いこと、その野心、残酷さ、良心の欠如、邪悪さを感じとったこと、そして最後に彼を恐ろしくおもったことが原因しています。

そのあげく、マチルドはジュリアンに手紙を渡し、家じゅうが寝静まったら、ハシゴを持ってきて、じぶんの部屋まであがってくるようにと命じ、足音を忍ばせさえすれば、階段をあがっていってもよかったことが後になって分かるのですが、彼女がそのようなことをしろといったのは、おそらく彼の勇気を試すつもりだったのでしょう。

かつて、クレマンチーヌ・ド・キュリアル夫人は、スタンダールを隠した地下の穴倉へハシゴを使って降りていきますが、この経験が彼のロマンティックな想像力を刺激したことは疑うことはできません。

現に彼は、パリへ出かけるジュリアンを、途中レナール夫人が住んでいるヴェリエールの町で止まらせ、ハシゴを手に入れ、真夜中それを使ってレナール夫人の寝室へしのびこませているのです。

だが、スタンダールは、主人公が、夫人の寝室を訪れるのに、ひとつの作品で二度までおなじ手段を使わせては具合がわるいと感じたらしく、マチルドの手紙を受け取ったあと、ハシゴのことでジュリアンに「おれはこの道具を使うように運命づけられいるのだな」と、皮肉な調子でいわせています。

だが、いくら皮肉をいわせてみても、ここまできてスタンダールの創意がつきてしまったことは、隠そうにも隠しようがないのです。

誘惑がおこなわれてからあとの部分の叙述は、これが、まえの文章に劣らずすばらしいのです。

利己心が強く、怒りっぽく、気分の変わりやすいふたりの男女は、熱烈に愛し、それとも気が狂うほど憎んでいるのか、ぼくにはわかりませんが、お互いに相手を支配しようとし、お互いに相手を怒らせ、傷つけ、恥かしめようと努めます。

そして最後にジュリアンは、陳腐な手段を弄して、この自尊心の強い女を足もとに跪かせます。そしてまもなくラ・モール氏はやむなくふたりの結婚を承諾します。

ところが、この偽りと駆け引きによって、じぶんの野心を満たすすべてのものが、いままさに実現されようとしたそのとき、ジュリアンはとんでもない愚かな失策をしでかすのです。

それからあと、この小説は、支離滅裂の状態に陥ります。

ジュリアンは、頭のいい、世にも悪賢い男だと読者は聞かされています。

ところが、その彼がじぶんを推薦するのに、あろうことか、ほんとうの未来の父に、レナール夫人への手紙を見せて、夫人からじぶんの人物証明書をもらってほしいというのです。彼は、夫人がじぶんの犯した姦通の罪を心から後悔していて、そのような場合、女性ならば、だれでもやることでしょうが、彼女もまた自分自身の弱さをタナにあげ、彼のことを激しくののしり、責め立てるかも知れないことを知っていました。

また夫人が、熱烈に愛してくれていることが分かっていたので、とうぜん気がついていたことでしょう。

夫人は、懺悔僧の指図どおりに、侯爵へ手紙を出し、一家の平和を破壊しようとて、うわべは無欲を装いながら、いつかは家の主人をじぶんのおもうままに従わせ、その財産を自由にすることにあるのだと暴露します。

しかし、いずれの非難にせよ、おかしなことに、彼女がそのようなことを咎めたてる理由は少しもないのです。また彼女は、ジュリアンが偽善者であり、陰謀をたくらむ卑しい男だともいうのです。

読者には、ジュリアンの心の動きがはじめからひとつ残らず明らさまに語られいるので、彼がそうした男であることが分かっていても、レナール夫人には分かっていたはずがないことに、スタンダールは気づかなかったらしいのです。

彼女に分かっていたのは、わが子の家庭教師として、ジュリアンがその努めを申し分なく果たし、子供たちの愛情を得るまでなったこと、それから彼女を深く愛するあまり、ふたりが最後に会ったさい、彼女とわずか2、3時間をすごすために、じぶんの立身出世を、いや、命さえ賭したという、それだけにすぎません。夫人は、もっとも良心的な女として描かれています。

その彼女が、懺悔僧からたとえどのような強制を受けたにせよ、真実であると考える理由が少しもない事柄を、わざわざ手紙に書き記すことに同意したとは、読者としてし、どうしても信ずることができません。

レナール夫人の手紙を見て、ラ・モール氏は愕然とする。

娘との結婚を断然拒絶する。だが、そのとき夫人の手紙はウソ八百ならべたてたもので、嫉妬に狂った女がわめき立てるヒステリックなたわごとにすぎないと、なぜジュリアンはいわなかったのでしょうか。

そして、レナール夫人の愛人であったことを認めてもよかったのではないかという疑問がわいてきます。――夫人は30歳で、彼はまだ19歳というのですから、誘惑したのは、彼であるよりも、むしろ夫人のほうだったと考えても少しもおかしくありません。

小説のうえでの事実は、そうなっていないのです。

ラ・モール氏は、酸いも甘いも知りぬいた男です。

この種の人間は、他の連中のことをできるだけ悪く考えようとする向きがあり、火のないところに煙は立たないと天から信じこんでいる皮肉屋でもあります。いっぽう、人間の脆さにたいして、寛大な態度に出るというのもこの種の人間です。

ですから、じぶんの秘書が社会的に重要でない、いなか者の妻を相手に恋愛沙汰を起こしたからといって、ラ・モール氏は、不都合におもうよりは、むしろ「おまえ、なかなかやるじゃないか」くらいに、おもしろくおもったかも知れないのです。

いずれにしても、切り札のすべてを握っていたのはジュリアンです。

ラ・モール氏は手をまわして、彼を精鋭部隊の将校にしてやり、またじゅうぶんな収入が得られる地所をくれてやりもしています。

マチルドは堕胎をこばみ、恋に狂っていたので、挙式をおこなおうがおこなうまいが、ジュリアンと同棲する決心を固めていたことを明らかにしているのです。だから、ジュリアンが、そうした事実をありのままに述べさえすれば、それだけで侯爵は折れて出ないわけにはいかなかっただろうと、ぼくにはおもわれます。

読者は、ジュリアンの強みはもっぱらその自制心にあると、作品のはじめからおもいこまされているからです。――嫉妬、憎しみ、誇りといった情熱が、彼を完全に支配することはぜったいにない。

なぜなら、あらゆる欲望のなかで、もっとも強力な肉欲にしても、当の作者自身のばあいと同様、のっぴきならない欲望ではなく、むしろ虚栄心の問題のほうが強かったからです。

ところが、ジュリアンは、この作品の重大な場面にきて、小説の主人公として致命的なことをしでかします。

役柄とはおよそかけ離れた行動に出ます。――つまり、レナール夫人の手紙を読むが早いか、ピストルを取りあげ、夫人の住むヴェリエールに馬車を走らせて駆けつけます。そして、夫人めがけて発砲し、殺すまでにはいたらなかったものの、殺意をもって発砲し、負傷させてしまうのです。

このジュリアンのなんとも奇妙で不可解な行動に、たいがいの読者はおそらく面食らったことでしょう。

多くの批評家たちも、少なからず当惑をおぼえたに違いありません。これまで多くの批評家は、さまざまな説明を与えてはその謎解きを試みていますが、どれひとつとして納得できる説を、ぼくは読んだことがありません。