フランス・ロマン派文学・スタンダール。7

ロドラマ風の痛快な件。

 

 

Le Rouge et le Noir(赤と黒)。

 

小説をメロドラマ風な事件に、――それもなるべく悲劇的な死で終わらせようとするのが当時の流行であったとして説明している批評家が圧倒的に多いのですが、考えてみれば分かるとおり、スタンダールには、もともと時代の流行なるものには大いに反抗する気分が見られたし、だからこそスタンダールが、それだけに、このやり方を押し通すにじゅうぶんな理由となったに違いありません。もとより、スタンダールは暴力的な犯罪にたいして異常な讃美者であったことから、その面から推論をたくましくする批評家もいます。

スタンダールが、じっさいに起こったアントワーヌ・ベルテの犯罪を「すばらしい犯罪」と見なした事実は間違いないとしても、じっさいに作品に描かれたジュリアンが実在の恐喝者とはまるで違った人物として設定されていることは、これまた事実なのです。

だからジュリアンという人物はすばらしいのです。事件の主人公とは別人なのです。

さらにおかしなことは、小説を精読すると、ヴェリエールという町は、パリから250マイルも離れた地点にあることです。

ジュリアンは、レナール夫人の手紙を読み終えるとただちにヴェリエールに向けて馬車を走らせています。宿場ごとに馬を取り替えて走らせたにしろ、また昼夜兼行で、馬車をぶっつづけで走らせたにしろ、ヴェリエールまでにはおよそ2日はかかる距離なのです。

それだけながくかかれば、その間にはさしもの激しい怒りも次第におさまり、常識の命ずるところにしたがう気持ちになったかもしれません。

そうなれば、スタンダールがあれほど鋭い洞察力をもって描いたジュリアンなる人物は、そのまま後に引き返し、マチルドの妊娠というありのままの事実をラ・モール氏につきつけ、結婚をむりやりにも承諾させても、いっこうにふしぎはないのです。

でも、スタンダールはそうしませんでした。それはなぜ?

ではいったい、どうしてスタンダールはこの偉大な小説の欠陥とだれもが認めるふしぎな過ちを、あえて犯すことになったのでしょうか。――これは明らかに、首尾よく結婚させるわけにはいかなかったからです。

マチルドとラ・モール氏のふたりを後ろ楯にして野望を遂げ、そのあげく財産を手に入れるというようなジュリアンにさせるわけにはいかなかったからです。かりにもし、そうなっていたとしたら、できあがった作品は違ったものになります。どのように違ったものになるのか、――たとえばのちにバルザックが、「ゴリオ爺さん」その他に登場させているラスチニャック野心家を扱った作品でいえば、その違う見本をいろいろと書いています。

しかし、スタンダールには、ジュリアンは死んでもらわなければならなかったのです。これがバルザックであったならば、おどろくほど豊かな想像力で、幾とおりもの別の「赤と黒」を書いたであろうとおもわれます。

スタンダールには、はじめにも書いたように、プロットの発展に独創性がないばかりか、まことにもって不幸なことに、アントワーヌ・ベルテの事件をあまりにも忠実に追いすぎてしまった。

しかしなから、スタンダールの「赤と黒」という作品は、それにもかかわらず19世紀文学のきわめて偉大な作品であり、これを読むことで、得がたいひとつの経験をわれわれに与えてくれています。スタンダールは、じぶんで描いたジュリアン・ソレル、その男に恋をしたかのように描くのです。そして、なれるものなら、じぶんもジュリアン・ソレルになりたい! そうおもったにちがいありません。だから彼は、こう書くのです。

 

天才の特徴は、凡人がひいたレールに自分の思想をのせないことだ。

(スタンダール 「赤と黒」)

 

現在、スタンダールを読み返してみると、映画的ともいえる主人公の視線に沿った新しい描写、――フラッシュバックのような回想シーンがいたるところに挿入されています。

内面的な独白など、当時にあっては斬新な手法を随所に取り入れています。バルザックが多数の登場人物群によって社会全体、時代の断面を小説のなかに再現しようとしたのにたいして、スタンダールはあくまでも特定の個人の意識に執着し、主人公の内側から社会全体を描くことにこだわりました。

ここに、バルザックとスタンダールに見る、近代小説のふたつの源流を探求することができるのです。――この作品をリアリズム小説の観点からのみ評価することができないことは、先にも触れました。バルザックには見られない内部矛盾する魅力ある新しいテーマと、強いロマン派青年を描いているともいえるからです。

これを写実小説、あるいは恋愛小説として見たばあい、小説の最後で、処刑されたジュリアンの生首を抱いて、抱擁するマチルドの現実離れしたグロテスクな神話的ヒロイン像は、「嵐が丘」にも見られるように、愛憎なかばしながらも、死後の合体へといざなう究極のロマン派文学というものを感じさせないではいられません。

「嵐が丘」を書いたエミリー・ブロンテは、ほとんどじぶんの経験しない、空想の話として書きました。

ところが、スタンダールは、そうではなかったのです。

「スタンダール氏のこの小説には、何ひとつ架空の話はないのです」と、スタンダール自身、別のところでちゃんといっています。

そこにおいて、ぼくはひそかにおもうには、これは敗北を超えたヒロイズムを裏書きする作品、そのように位置づけたいのです。

ぼくはいま、2018年2月の時点で、「赤と黒」を再読し、スタンダールのプロットということにあらためて考えさせられています。

プロットを考えるのに、詳細緻密で、周到なプランが果たして必要なものとはどうしてもおもえなくなりました。いざ、それぞれの人物が動きはじめると、タカが知れているプロットなど、むしろ余計なもののようにおもえてきます。じゃまにさえなります。

プロットなど、どうでもよく、ただ人物を描く。――これが最大のテーマのようにおもえてきます。スタンダールはけっしてプロットを軽視したわけではないとおもわれるものの、人物を描くことに最大の関心をもってのぞんだ作家であり、バルザックのような天才的な才能はなかったかわりに、スタンダールには、余人のおよばぬ、並みはずれた洞察力はひたぶるに登場人物に向けられたために、バルザック、フローベル、スタンダールの三大作家中もっとも普遍的で、もっとも突出した独創的なジュリアン・ソレルという人物を創造することができたとおもわれます。

この才能はトルストイも、ドストエフスキーもおよばぬ才能で、ラスコーリニコフは消えても、ジュリアン・ソレルはけっして消滅しないだろうとおもわれます。その理由はすでに述べたとおりです。

「赤と黒」とともにその双璧をなす作品は、おそらくドストエフスキーの「罪と罰」のラスコーリニコフでしょう。あるいは、「嵐が丘」のヒースクリフ、またはキャサリンかもしれません。

スタンダール、バルザック、それにつづく系譜は、フローベルの「ボヴァリー夫人」でしょう。「ボヴァリー夫人」を語るには、フローベルからはじめるのは都合がよくないとおもわれます。なぜなら、ラ・ファイエット夫人の「クレーヴの奥方」の延長線上に位置する作品だからであり、エミール・ゾラの「居酒屋」、あるいはモーパッサンの「女の一生」、トルストイの「アンナ・カレーニナ」に直結している作品でもあるからです。その意味でも、スタンダールの「赤と黒」は、大きな文学的なテーマを投げかけてくれています。

ちなみに、タイトルの「赤と黒」ですが、主人公のジュリアンが出世の手段にしようとした軍人()と、聖職者()の服の色をあらしているといわれています。また、ルーレットの回転盤の色を表し、一か八かの出世に賭けようとするジュリアンの人生をギャンブルにたとえているという説もあります。

――先日からぼくは、スタンダールのすごさに圧倒されています。

ぼくの考えとちがう考えのお持ちの方がおられたら、ぜひご意見を聴かせていただきたいとおもいます。ここまでお読みいただき、ありがとうございます。ぼくのスタンダールについての読後感は、ここらで擱筆したいとおもいます。