「ちよつと、イタイわね」
 真由さんがカウンターのいちばん奥にゐる二人連れを目知らせする。
 
 女はどうみても五十歳は過ぎてゐるが、真つ赤なインナーの上になめし革の紺のブレザーを羽織り、わけても異様なのは、十代の女が履くやうな、腰下何センチもない、太ももをあらはにした短パンでパイプ椅子に掛けてゐることだ。
 
 真由さんは女がこの店では最高クラスの赤ワインをボトルで注文した直後にさう言つたので、それは女同士のやつかみのやうに聞かれたが、「イタイ」と言はれれば確かにさうかなと思ふ。
 
 女は連れの若い男と冗談を言ひ合つて、ボーイが抜栓するのを待ち兼ねるやうにボトルを自分で手に取ると(いくら池袋の場末のバーでも、これはエチケット違反だらう)、黒の野球帽をかぶつた連れの男のグラスになみなみと注いだ。
 
 真由さんの言ふ「イタイ」は、痛々しいといふ意味の皮肉だらう。そろそろ初老といはれても仕方のない女が、精一杯に若づくりのファッションで若い男に高価なワインを奢つてゐる。
 
 一方の真由さんはといへば、まだ二十代の美人バリスタ(珈琲職人)であるにもかかはらず、七十男とちびちびグラスワインを飲んでゐる。
 
 「彼女と真由さんでは、まるで逆だね」
 とぼくは若づくり女からすぐ視線を戻し、ささやいた。
 
 男女の年齢差や、スポンサーの羽振りの良さが対照的といふ意味だつたのだが、真由さんは自分と女が同列に論じられたのが不満らしく、
 「わたしはああはなりたくない。ムリムリが丸見えぢやない」
 とまだ女のファッションにこだはつてゐる。
 
 「いいぢやないの。ムリしてても楽しさうだし」
 「さうかしら。よそからムリしてるのが丸見えでも、楽しいのかしら。周りからどんなにイタく見えても」
 
 「ぼくだつて、周りからはイタイと見られてるかも」
 その日ぼくは黒のV衿セーターに黒の上着、青いストールを巻き、黒の中折れ帽をかぶつて、胸元には銀のネックレスに鍵を垂らしてゐた。
  真由さんはあまり豊かではない胸を反らしてぼくを上から下まで観察すると、「ふふ……」と笑つた。
 
 衆院の解散問題が急浮上してきたが、実はこの秘策は9月ごろから自民党内でささやかれてゐた。
 マスコミの目が瞬時永田町から離れる安倍首相の外遊中、しかも新聞休刊日で政治記者の動きが鈍る今月9日の昼夜、与党内工作が急に進んだ。
 
 消費税の再引き上げを決定したら選挙どころではなくなる。先の内閣改造の成果はスキャンダルが続出して思はしくない。下り坂に入つた安倍政権の支持率が、この先、好転することは望めさうにないーーまさに「痛々しい」環境の中での解散、イタイッ!解散である。
 
 真由さんの論法なら、「ムリしてるのが丸見えでも、楽しいのかしら。周りからどんなにイタく見えてもいいのかしら」だらうが、それが政界だ。
 
 
 
 よく流れるニンニク薬剤のテレビCMがある。夕暮れらしい薄暗い平地にひらけたニンニク畑。ジーンズ姿の高倉健が登場して、例の鋭角的な頬骨のニヒルな顔で腰をおろし、目の前のしつとりとした真つ黒な畑土を右手でひとつかみして立ち上がると、茫漠たる畑をながめる。
 
 セリフもない。画面はほとんど色彩のない暗さである。健サンの表情と、ひとつかみの土だけで見せる。土の豊饒が薬効あらたかなニンニクを育てるといふ趣旨のナレーションがかぶさる。
 
 土には何かしら私たちの郷愁をよぶものがあるらしい。無限の豊かさと温かさを湛え、生きるものの生命力の根源がそこにあるかのやうなイメージがある。
 
 人の死を「土に還る」と表現したりするのも、さういふ心理のあらはれだらう。さう思ふことによって、死後の世界に対して慰藉をえる。本当は肉は焼かれ、骨が土に埋められるだけだ。
 
 ぼくは幼いころから泥とか土が嫌ひだつた。小学校のころからさうだつた。
 土は汚いし、虫もゐるし、どんな細菌が潜んでゐるか分からないし、見た目にも決して心地良いものではない。
 
 父親は仕事の合間に、庭先の二百坪ほどの畑地でトウモロコシ、ナス、トマト、キューリなどを作つてゐたが、一人息子はまるで手伝はなかつた。土に手を触れるのが怖かつた。
 
 最近、近くのイトーヨーカドーでは園芸コーナーを半分にして駐車場をひろげた。もう一つの園芸専門店では、芝刈り機などの器具や庭石、レンガ、鉢などを置いてゐたスペースを削つてマンションを建てた。
 
 しばらく前から園芸ブームのやうなことが言はれてきたが、不況が長引いて、このところ園芸品の売れ行きは落ちてゐるのだらうか。
 
 あるいはーー意外にも若い人のあひだに、ぼくのやうな「土嫌ひ」が広まつてゐるのだらうか。
 
 都会に住む人たちは、表向き「土に飢ゑてゐる」などと自然派を標榜しつつ、その実、子供のころからコンクリートに囲まれ土に親しんでゐないから、大人になつても土を遠ざけてゐるのか。
 
 手に一握り土をにぎるのは、八十歳を過ぎた健サンだからサマになるのかもしれない。
 
 「それでは、台風が接近しつつある東京都心の様子を見てみませう」
 
 テレビ画面はJR新宿駅南口に切り替はる。昔から浄水場しかなかつた南口は、改札口から南にむけて広々と展けてゐる。
 
 「次は、若者の町・渋谷です」
 画面は、渋谷駅ハチ公前のスクランブル交差点を映し出す。広い交差点をタクシーや人がせはしなく動き回る。
 
 沖縄や九州、四国に台風が接近するとき、テレビは観光地として名高い岬の海岸線や、漁港、空港、地元放送局前の風雨の模様を伝へる。
 
 大阪や名古屋など人口密集地帯に移動すると、決まつてJR駅からの風景が多くなる。駅とその周辺の画面は、列車の運行状況、困惑してたむろする利用客、「2時間遅れ」などの電光表示をひろへるから、臨場感もあり、ナマの情報として意味があるのは間違ひないが、都会といふと「駅」を映し出す狙ひは、それだけではないだらう。
 
 息子が就職のとき、ぼくは安直に新聞記者を継がせたかつた。息子は「新聞記者の家庭つて、いつも父親が留守がちで、ほとんど母子家庭だから、ぼくはイヤだ」と言つて、JR東日本を受験した。
 
 最近、ふたりで酒を飲んだをりに、「あのときJRを希望したのは、『母子家庭』を作るのがイヤだつただけか」と尋ねた。
 
 「消極的理由はね。でも、本当は『駅』が好きなんだ。だからJRに入つた」
 四十を過ぎて、息子は父親に初めて本心を打ち明けた。
 
 「駅つて?駅長になりたいのか」
 「いや、駅長がどうかうではなくて、駅つていいぢやない?」
 「何がいいんだ?」
 
 古来、ヨーロッパでも東洋でも、駅を扱つた映画は数多い。海岸線のうらぶれた無人駅を描いた高名な絵画もある。文学でももちろんだし、演歌でいへば三橋美智也の「哀愁列車」をはじめ、昔から男女の分かれは駅か港であるーー最後に父親に気を遣つたのか演歌まで例に挙げた。
 
 
 「駅つて、人間生活のすべてを一点に集約してゐる気がする。朝、みんな駅へ行つて仕事に出る。帰りは駅から自宅に戻る。最近は車でバイバイもあるけど、今でも一生心に残るやうな別離は駅の改札口やホームぢやないかな。ーー駅つて、人の生活と心の、確乎とした拠りどころといふ気がするんだ」
 
 20年もJRにゐるとここまで洗脳されるかと少々をかしさを覚えつつも、息子の「駅」への愛着には同調できなくもない。たしかに駅は「人間臭い」。だからこそテレビは都会の台風情報の背景に「それではJR新宿駅南口をーー」とくるのかもしれない。