帝国ホテルで好きなものが二つあります。
一つは別館地下1階にあるフレンチ、ラ・ブラスリーの「舌平目のムニエル」です。
メニュー自体はどこにもあるありふれた料理ですが、シャリアピンステーキとならぶこのホテルの「伝統料理」ださうで、料理人が客のテーブルの横まで機材を運んで来て、フライパンに舌平目をのせ、塩味を抑へた醤油ベースの、ナッツ臭の効いた特製ソースでこんがりと焼いてくれます。
フライパンに熱が回るほどに周囲にわき上がる香ばしいかをりが何ともいへない美味で、さう、ここでは舌平目が焼ける匂ひにもすでに味覚があるのです。
この段階からもう、客は茶に焦げた魚の味はひに思ひを致し、大海を泳いでゐた魚肉の凛とした歯応へを予想し、咀嚼によつて、その魚肉とソースとが幸せに融合する確かな旨みが口中にひろがる予兆を我がものにするのです。
ですから、魚が焼き上がつてバター片が飾られ、再びソースがまぶされ、料理人の巧みな手さばきで白い皿に移されて、さて、魚用の銀のナイフ・フォークでいざ口に運んで噛みしめる味は、さつき目の前で焼き上がるのを待つてゐた時間に堪能した幸福感の復習に過ぎません。
帝国ホテルの犬丸一郎さんと知り合つたのは三十代半ばでした。当時、よく通つてゐた高輪プリンスホテルのバーで飲んでゐると、隣りの男性がボーイとウイスキー談義をしてゐます。
酔つた果敢さでぼくもそこに加はらうとすると、その五十男が犬丸さんでした。帝国ホテルの社長がなぜ高輪プリンスで飲むのですかと質問すると、実はご自宅が改築中で、仮住まひが高輪プリンスの裏手だつたのです。
あくる日、会社に出ると、高級なスコッチウイスキーが届いてゐます。前夜、話の出た、犬丸さんご推奨の「ライトなスコッチ」でした。さすが「親の代から帝国ホテル」の犬丸さん、粋なことをするものだと思ひました。
以来、ホテルの社長室へずうずうしくお邪魔したり、夜には赤坂のピアノバーなどへ連れて行つてもらふやうになり、そこで毎年頂戴するやうになつたのが、このホテルで好きな第二のもの、「帝国ホテルの手帳」でした。
一カ月が見開きに納まり、細身で薄くて、胸のポケットに入れてもかさばりません。もう四十年近く愛用してゐます。犬丸さんが社長を退かれてからは、社長秘書の女性Oさんから毎年、この季節になるとホテル特製のクリスマスカードと一緒に送つて頂きました。Oさんが他の部署に異動されてからもずつとです。
その手帳がことしは届きません。なんと厚かましいことと恐縮しながら、Oさんに催促がましいメールを打ちました。一週間しても返信がありません。
そこで初めてはつとしました。ぼくは6年前にリタイアしましたが、Oさんだつていつまでも「若い女性秘書」ではないのです。おそらく、ことし定年退職されたのでせう。
他の部署に異動されてからも、秘書時代の縁で、二、三十年間も毎年社内のどこからか手帳を工面し、送り続けてくれたご苦労にいま気が付きました。
人生の半分以上も使ひ続けてゐたものが一つ、手元からなくなるといふのは、長年のペットを喪つたやうな寂しさです。年を取るといふのは、たぶんかういふことなのです。
※後日談があります。↓にコメントしました。
Oさんは健在で、手帳も送つて頂き、1月7日に入手しました。
