年賀状の整理をしてゐたら、20年ほど前に付き合つてゐた女からの久々の一葉があつた。
 
 付き合つてゐたといつても、深い仲ではない。サントリーのワイン教室の講師だつた彼女の講座にぼくが受講者として通つてゐて、講座のあと、しばしば錦糸町や新宿のワインバーで飲んだ。ただの講師と受講者の間柄である。
 
 年賀状には、どこか海外の旅行先の彼女が、ひとり林の中でバッグを振り回して、にこやかにこちらを振り向いてゐる写真が印刷されてゐる。
 
 彼女から年賀状をもらふのはおそらく十年ぶりくらゐだから、なんで今ごろ、と気になつて、住所の下のアドレスにメールを打つてみた。 「また、ワイン談義でもしたくなりました」
 
 すぐ返信があつた。 「ぜひぜひ、また麻布のワインバーででも」
 
 ワインバーの場所がぼくの思ひ出とは異なるなとは思つたが、まあ、瞳の大きな、スレンダーな、髪の長い美人講師だし、一晩くらゐ、どこかの店で最近のワイン事情を聴くのも悪くないなと思ふ。いまはワインの輸入会社に勤務してゐるらしい。
 
 今月の下旬がいいかな、と手帳をみながら、ふと悪い記憶がよみがへつた。この中年女性には握手を拒否されたことがあつた。それも一度ではない。覚えてゐる限りでも、ぼくが差し出した握手に三回は反応しなかつた。
 
 バーのカウンターでいろいろな話題に盛り上がる。プロ野球の松井秀樹が巨人からヤンキースに移籍したころで、彼女は「松井は二度と日本には戻らない。アメリカ野球に骨を埋める決意だらう」と言つて、「将来は巨人の監督」と主張するぼくと正面から対立した。
 
 女性とはいへワイン講師だから酒には強いのだが、ふたりでつい飲み過ぎて、山の上ホテルのワインバーの高い椅子からふたりで転げ落ちたこともあつた。
 
 駅での別れぎは、ぼくが当然のやうに握手を求めると、彼女はそつぽを向いて、聞こえなかつたふりをする。こちらも意地になつて、もう一度、手を差し出す。彼女はニヤリとするだけだ。
 
 そのころ、彼女には出版社勤務の夫がゐた。
 「横のベッドに夫がゐないと、良く眠れなくて」
 とぼやくことがあつたから、漫画雑誌の編集長をしてゐた夫は外に女がゐたにちがひない。
 
 それにしても、なぜ握手を拒まれるのか分からなかつた。
 ぼくの掌はなにか独特な匂ひでも発して、握手するとそれがウツルのかしらと心配したり、ぼくの手を黴菌の巣だと嫌つてゐるのかとか、握手といふ行為が男女の肉体的接触の第一歩と警戒されてゐるのかしら(こちらとすればその気がなくもないし)などと臆測してみたが、結局分からなかつた。
 
 こんど久しぶりに会つて、また別れぎはに握手を拒まれたらイヤだなと思ふと、デートの約束のメールを打てない。
 2年ほど前から、年に数回、「ITの会」といふ懇親会をひらいてゐる。
 
 会場はレストランが多く、7、8名のテーブル席を予約すると、店側はたいてい「当日、看板はお出ししますか」と尋ねる。
 
 「さうですね。小さな会だけど初めての人もゐるので、出してもらひませうか」
 「会のお名前は何にしますか」
 と担当の女性がメモをとる。
 
 「ITの会、としてくれますか。ITはローマ字です」
 「承知しました」
 
 いまどき、「ITの会」は判りがいい。 だれでもIT機器、IT企業など、いはゆる「information technology」を思ひ浮かべる。
 
 ところが、ぼくたちの会は違ふ。実は「idle talk」の「IT」だ。
 「idle talk」とは、要するに「雑談」「閑談」の意で、ただのおしゃべり会である。
 
 もともとは毎週のやうにワインバーで会つてゐる小学校以来の同級生の医者が、
 「どうせなら、少し仲間を増やしてみないか」
 と言ひだしたのが機縁だつた。
 
 
 「会の名前はどうする?」
 この医者はなかなかの文化人で、漢詩に詳しい。
 唐の時代の詩人・白居易(白楽天)に、「詠老贈夢得」といふ詩があるといふ。
 
 「与君倶老也(君とともに老いたり」と、友人・夢得への呼びかけで始まるのだが、その最後に
 唯是間談興
 相逢尚有余
 (唯これ間談の興 相逢ひて尚余りあり)
 といふ一節がある。
 
 詩の大意は、「キミもぼくも年とつたなあ。細かい字は読めなくなつたし、一日中家に閉ぢこもつてゐる日も多くなつた。若い人との付き合ひも減つたし、残つた楽しみは、キミと会つて無駄話をすることだけだ」である。
 
 この詩を英語に翻訳した英国の東洋学者Arthur David Waleyは、「唯是間談興」を「One thing only,the pleasure of idle talk」と訳した。
 「間談」を「idle talk」と英訳したのだ。(閑談はなぜか間談と表記されてゐる)
 
 友人の医者はこの翻訳文を持つてきて、
 「どう、このidle talkといふのは?ぼくたちがいつもここで話してゐるのはまさにこれぢやないかな」
 と言ふ。
 
 会の呼びかけに応じてくれたのは、今のところ10名ほどだ。
 女性翻訳家もゐれば専業主婦もゐる。大手ゼネコンを役員でリタイアした人もゐれば不動産業の男もゐる。仏具屋もゐれば電気屋さんもゐる。
 
 発起人のぼくと医者だけだと、昔から「世の中の三不良」と言はれる「医者記者芸者」のうちの二つだから、あまり人聞きが良くないが、人から人へ、幸ひにもいろいろな職歴、現職の方が加はつてくれて、アイドル・トークに幅が出た。
 
 idleといふと、まづ頭に浮かぶ日本語訳は「怠惰な」であり「ヒマな」だが、車のアイドリング状態はギアを入れてアクセルを踏めばすぐ動き出す状態である。
 
 もともと人間生活の大半は無駄話から成り立つてゐる。アイドル・トークを交はしながら、この雑談、そこから得る情報が、これからの人生に役立つこともあるのぢやないかなどと、結構真面目なことを考へてゐる。
 
 「中村君、火事だ。現場へ行つてくれ。ーー現場へ着いたら、まづ写真。次に、どのくらゐの規模か、支局へまづ一報。いいね」
 
 入社したばかりの新米記者に火事の取材を任せるのは勇気が要ります。
 火事は写真が命です。写真がなければ、火事の記事はいつでも書けます。つまり、写真に失敗したら、現場に行かなかつたのと同じなのです。
 
 新米記者とは言つても、中村君はぼくより三つも年上。しかも、大学も同じ、学部も同じです。
 本来なら「くん」と呼ぶのさへ勇気が要りますが、入社はぼくが3年先輩ですから、徒弟制度の新聞社、そこは社内秩序が優先します。
 
 仕事を終はつて、中村君と飲みに出ます。当然、大学時代の話が出ます。第一次早稲田紛争のころですから、話題には事欠きません。
 
 「ああ、あれがあつた頃ですか。その頃の話は、よく妹から聞きました。さうだ、無為庵さんは僕の妹と同期なのですね」
 
 こんなことを言はれては、社内秩序を忘れて「中村さん、そろそろ帰りますか」と言ふほかありませんでした。
 
 中村太郎氏 74歳 (なかむら・たろう=元別府市長)1月2日、別府市の病院で死去。 葬儀は近親者で営んだ。遺族は「故人の意向で、弔問は遠慮してほしい」と話してゐる。読売新聞記者、大分県議2期を経て、1987年から95年まで別府市長を2期務めた。
 
 初めて県議選に出馬したとき、別府の国際観光会館のホールで決起集会があり、仕事を休んで駆けつけたことがありました。
 
 「ここにお集まりのみなさんはよくご存知のやうに、けふ、東京の永田町では田中角栄の後の総理大臣を誰にするかに決着がつく日です。そんな大事な日に休暇をくれと政治部長に申し出たのですから、もちろん頭ごなしに怒られました。そこで私は言つたのです。次の総理大臣を選ぶのも大切だけれども、あすの若手政治家を育てることも大切ではないですか、と。そしてここへやつて来ました」
 
 3000人を収容するメーンホールは、期せずして沸き起こつた拍手と歓声で割れんばかりになりました。読売時代の太郎さんに対するぼくからの精一杯の感謝でした。
 
 太郎さんは、ぼくの執筆活動に関する最高の理解者でした。書いたものを読んでもらふと、いつも絶賛してくれました。早稲田の大学院を修へたあと、アメリカの大学で学んだだけに(そのために、ぼくより3年後の入社になつたのです)、つねに思考はグローバルで、嗜好は日本人離れしたところがありました。
 
 1月2日に亡くなつたのですが、ことしも年賀状は届きました。
 「5月に75回目の誕生日を迎へます。良きことも、さうでないことも、随分経験してきました。おいしいものも、まづいものも食べてきました。世界の諸国も観て回りました。そして、やつと気付かされました。心の中の安心を求めてきたのだと」
 
 まるで遺言です。
 太郎さん、やつと安心をつかまへられましたね。