2年ほど前から、年に数回、「ITの会」といふ懇親会をひらいてゐる。
会場はレストランが多く、7、8名のテーブル席を予約すると、店側はたいてい「当日、看板はお出ししますか」と尋ねる。
「さうですね。小さな会だけど初めての人もゐるので、出してもらひませうか」
「会のお名前は何にしますか」
と担当の女性がメモをとる。
「ITの会、としてくれますか。ITはローマ字です」
「承知しました」
いまどき、「ITの会」は判りがいい。 だれでもIT機器、IT企業など、いはゆる「information technology」を思ひ浮かべる。
ところが、ぼくたちの会は違ふ。実は「idle talk」の「IT」だ。
「idle talk」とは、要するに「雑談」「閑談」の意で、ただのおしゃべり会である。
もともとは毎週のやうにワインバーで会つてゐる小学校以来の同級生の医者が、
「どうせなら、少し仲間を増やしてみないか」
と言ひだしたのが機縁だつた。
「会の名前はどうする?」
この医者はなかなかの文化人で、漢詩に詳しい。
唐の時代の詩人・白居易(白楽天)に、「詠老贈夢得」といふ詩があるといふ。
「与君倶老也(君とともに老いたり」と、友人・夢得への呼びかけで始まるのだが、その最後に
唯是間談興
相逢尚有余
(唯これ間談の興 相逢ひて尚余りあり)
といふ一節がある。
詩の大意は、「キミもぼくも年とつたなあ。細かい字は読めなくなつたし、一日中家に閉ぢこもつてゐる日も多くなつた。若い人との付き合ひも減つたし、残つた楽しみは、キミと会つて無駄話をすることだけだ」である。
この詩を英語に翻訳した英国の東洋学者Arthur David Waleyは、「唯是間談興」を「One thing only,the pleasure of idle talk」と訳した。
「間談」を「idle talk」と英訳したのだ。(閑談はなぜか間談と表記されてゐる)
友人の医者はこの翻訳文を持つてきて、
「どう、このidle talkといふのは?ぼくたちがいつもここで話してゐるのはまさにこれぢやないかな」
と言ふ。
会の呼びかけに応じてくれたのは、今のところ10名ほどだ。
女性翻訳家もゐれば専業主婦もゐる。大手ゼネコンを役員でリタイアした人もゐれば不動産業の男もゐる。仏具屋もゐれば電気屋さんもゐる。
発起人のぼくと医者だけだと、昔から「世の中の三不良」と言はれる「医者記者芸者」のうちの二つだから、あまり人聞きが良くないが、人から人へ、幸ひにもいろいろな職歴、現職の方が加はつてくれて、アイドル・トークに幅が出た。
idleといふと、まづ頭に浮かぶ日本語訳は「怠惰な」であり「ヒマな」だが、車のアイドリング状態はギアを入れてアクセルを踏めばすぐ動き出す状態である。
もともと人間生活の大半は無駄話から成り立つてゐる。アイドル・トークを交はしながら、この雑談、そこから得る情報が、これからの人生に役立つこともあるのぢやないかなどと、結構真面目なことを考へてゐる。
