久しぶりに息子がやつてきて、本棚をさがしてゐる。彼がまだよちよち歩きのころ、同じホテルに十泊した鹿児島県沖永良部島の写真が見たくなつたといふ。
 
 アルバムなんて何年も引つ張り出したことがない。屋根裏の物置に上げたままかもしれない。
 
 「口永良部島で噴火があつたでせう。それで急に、名前の似てゐる沖永良部を思ひ出して」
 
 アルバムといふのは、ふと思ひ出して、急に見たくなるものかもしれない。娘の嫁入り道具の一つとして親が持つて行かせる時代もあつたやうだが、最近はどうなのだらう。
 
 それといふのも、撮つたフィルムを町のDPE屋(今ではほとんど死語か)に持ち込んだころと違ひ、いまは現像も焼き付けもしないで、みんなパソコンのなかに保存するやうになつた。
 
 パソコンのなかにあるといふだけで満ち足りて、安心して、見たくなればパソコン画面に呼びだし、部分拡大、色調調整、モノクロ化……といかやうにも加工できるから、わざわざおカネと手間のかかるプリントをしなくなつた。
 
 かつて学校の卒業式といへば、荘重な布織物などの表紙の分厚いアルバムが定番だつたけれど、いまはCD一枚だつたりするのか。
 
 五月末、ブログの知り合ひだつた中年女性が自殺した。来週、郷里の大阪で妹さんが喪主となり「骨葬」を行ふといふ。
 
 彼女のブログに遺書があらはれたのは、ある朝、突然だつた。その日の「午前八時三十分、記事をアップ」といふ予約投稿機能をつかつての「死者からの記事」だつた。
 
 都職員を二十三年間、最後は水道局の一課長だつたが、十年ほど前にはロンドン駐在も経験した「女性幹部候補生」だつた。三十代のころ、心療内科に五年ほどかかつたことがあつたといひ、結局、この心の病の亢進が自然の成りゆきのやうに彼女の命を途中で奪つた。
 
 ぼくはいつも斜に構へ、「女性中間管理職」としての苦悩をつづる彼女にヤジを飛ばし続けた。
 自民党支持を公言し、世相の理不尽を糾弾し、フクシマ以降の過剰な放射能騒動を批判し、女性の社会進出の必要性をさけぶ記事は、共感するしないはともあれ、怖いものなしの「もみじマークの素浪人」からみると、ヤジの格好の標的だつた。
 
 ぼくのヤジは、彼女にあふと、あたかも銀座の女の作法よろしく、膝上で握つたこちらの手がさりげなく、するりと外されるやうに、たいてい一行のコメントで、冷やかに嗤はれておしまひだつた。
 
 遺書の中に、「過去の記事を読み返して頂けると幸甚です」とある。いかに嗤はれてゐたかを再確認するために、彼女の病が進行したとみられる数年前に遡つて、ブログのページを開いてみる。
 
 ペットの黒猫二匹への愛情、時流のファッションへの不満、エゴ丸出しの「市民」への批判(遺書の中でも「都議を使つて無理を通さうとする市民」への怒りが印象的)……
 ときに写真入りで綴られる記事を読み進むと、死者を悼む親族縁者友人が、通夜の晩に、車座になつて故人のアルバムをめくつてゐるやうな心地になつた。
 会合場所の店をさがしながら、神楽坂の料亭街の細い裏道をあるいてゐると、一目でそれとわかる異様な服装の中年男が前からやつて来る。
 
 真つ赤なコットンパンツに緑色のブレザーを着て、何のおまじなひか、前髪からリボンのやうな黄色い布を垂らしてゐる。まるで交通信号が歩いてゐるやうだ。
 
 ファッションに関してぼくはかなり寛容で、とくに近ごろの女性のやうに、色の組み合はせもデザインも、まさに「何でもアリ」の風潮について、特段目くじらを立てることはないのだけれど、こと男性の身なりに対しては知らずと危険予知能力がはたらく。
 
 男の精神状況は、ほとんど着てゐるものにあらはれると確信してゐて、相手の服装を一見しただけで、要警戒レベルの男かどうか判断がつく。長年、永田町でドブネズミ・ルックに接してきたので、「異な身なり」を判定する基準はやや古風かもしれないが、それだけに奇異な格好には過敏である。
 
 といつても、ぼく自身がふだん無難なファッションかといへば、必ずしもさうではない。黒いフェルトの中折れ帽をかぶつて、首にはこの春買つた極薄生地のピンクのストールを巻いてワインバーに行くと、女の子から「そのピンクはないわよ」などと遠慮のないことを言はれる。
 
 中学生のころだつた。
 ことしは戦後七十年だが、当時はまだ戦後十年ちよつと、食糧も十分ではなく、町を行く人の心も服装も暗欝な空気だつたのに、どういふわけかぼくが通ふ中学校の男子生徒の間に、突如、ナイロン製の水色のジャンパーが流行り出した。
 
 男子はみんな仲間意識を確認するやうに、「ナイジャン」と呼ばれた水色のジャンパーを着て通学する。流行がクラスの男子全員に及ぶのをみて、母親に「みんなと同じ、水色のナイジャンを買つて」と頼んだ。
 
 「みんなが着てるからつて、みんなと同じ物を着て何が面白いの。あなたはあなたの服装でいいの」
 
 警察官の妻といふ立場にしては自分の嗜好、意見をもつた母親だつた。着る物についても凝り性で、年に何度か町の老舗の呉服屋を家によんでは季節のきものや帯を注文してゐた。
 
 デパートに連れていかれたぼくは、ウール地のジャンパーをいくつか試着させられ、最後に、白地に薄茶の太い横線が入つたオシャレなジャンパーを買つてもらつた。
 
 
 
 それを着て中学に行くと、ナイジャンの集団がぼくを遠ざけた。社会人になつてからも、目立たないところで他人と異なるファッションを身につけることが趣味になつたのは、この母親の影響が大きいのだらう。
 
 写真コラムを連載してもらつてゐたデザイナーの森英恵さんに、表参道にある森さん経営のフレンチでご馳走になつたとき、「いいスーツを着てらつしやるわね」とお世辞を言はれた。
 テーラーの名を言ふと、「あら、贅沢。失礼だけど、新聞記者さんでそんなのを着てる方、初めて見たわ」と笑はれた。「気付いてもらつたの、初めてです」とぼくも笑つた。
 
 路地を近づいてくる赤いコットンパンツの男に、ぼくは立ち止まつて道をあけた。男は挨拶もなく通り過ぎた。着てゐるもののせゐで、周りの人間に警戒心を抱かれてゐるなんて、男はまるで自覚してゐないやうだつた。ぼくがさう気づかないやうに。
 
 恒例の流の茶会がハネたあと、年に数回、茶会でお目にかかる社長夫人が追ひかけてきた。春の季節感いつぱいの花模様のきものを、おそらく美容室で着付けてもらつたのだらう、一分の隙もなく着こなしてゐる。
 
 
 ホテルの七階にある茶室を出て、これまでふたりで一、二度入つたことのあるロビー階のバーに落ち着く。ここではぼくより社長夫人のはうが馴染み客である。
 
 「けふはちよつといいことがあつたから、お礼の意味で奢らせてくださいね」
 「お礼?」
 ぼくは何のことか分からない。お礼をされるやうな覚えはない。
 
 「行つて来たんですよ。お宅の近くの官幣大社。正月の三日、主人はゴルフに行つたので、わたくし一人で初詣」
 さう言はれて思ひ出した。暮れの茶会のをり、待合の立礼の席の雑談で、数人の女性たちがパワースポットについてしやべり始めた。
 
 ぼくは、わが家の近所にある神社の境内のクスノキの大木が、先日、テレビでパワースポットとして紹介されて以来大賑はひで、散歩の帰りに神社へ立ち寄ると、直径二メートルほどもあるクスノキの木肌に手を当てて、じつと頭を垂れて何かを祈つてゐる女性をよく見かけるといふ話をした。
 
 紀元前の孝昭天皇の世に創建され、かれこれ二千五百年の歴史を有し、全国十六の勅祭社の一つだから、約二キロの参道にも、鬱蒼とした鎮守の森にかこまれた社殿にも、どことなく神々しく荘厳なものがある、とぼくは観光案内まで加へた。
 
 「素晴らしい情報を教へていただいて」
 「で、どうでした、パワースポットの効果は?」
 「それが、霊験あらたか」
 
  
 と社長夫人は、ブランデーのロックを口にしながらも、「霊験あらたか」の中身は教へてくれなかつた。
 推察するに、株に熱心な人なので近ごろの上げ潮ムードでひと儲けしたか、都心のマンションを物色中だつたからどこかに絶好の物件をみつけたか、あるいは去年の今ごろ、故郷の父親が癌を宣告されたと沈んでゐたのが奇跡的に好転したか、それともイケメンのボーイフレンドでもできたか、または最近、ゴルフでホールインワンでも達成したか……いづれそんなところだらう。
 
 
 「不思議ですわよねえ。ただ木に向かつてお願ひしただけで、思ふことが叶ふなんて」
 不思議でもなんでもない。冷静に考へれば、こんなラッキーはパワースポットの「霊験」のお陰ではない。単なる偶然だらう。
 
 しかし、社長夫人は、
 「世の中には本当にパワースポットが存在するのですね。わたくし、神の存在を信じるやうになりました。神秘といふことをーー」
 と続けた。
 
 ぼくも自分が言ひだしたことをわざわざ否定することもないから、
 「どんなご利益があつたのかは知りませんが、それは神秘といふしかないですね。科学では考へられないやうなことがこの世にはあるのですよね」
 と調子を合はせる。
 
 あらゆる宗教は偶然を利用する。偶然起きたことを「神秘」だといふ。偶然をあたかも必然であるかのやうに説法する。
  さういふ宗教を人間が信じるのは、人間のはうに「神秘を信じたい」といふ気持ちがあるからだらう。社長夫人のやうに、神秘は人を酔はせる。
 
 「わたくしに何があつたか、お知りになりたいですか」
 社長夫人は勿体をつける。
 「いえ、別にーー」
 ぼくは話には乗らずに、ボーイにグラスワインをもう一杯注文した。「偶然ですよ」といふ反論がしにくい状況で、「神秘」の内容を聞いても仕方ない。
 
 「さうですね、かういふ話、無為庵さんはあまり信じようとしないタイプですわね」
 帯上げに手をやりながら、社長夫人はこちらの心を読む。
 「でも、神秘を信じないと女性にはモテませんわよ」
 
 そこまでしてモテようとも思はない。