岩手県矢巾町の中学2年の少年が鉄道自殺し、いじめ被害をうかがはせる「生活記録ノート」が父親によつて公開された。
「氏にたい」「市ぬ場所はきまつてゐる」――わざと「死」といふことばを避けたのだらうか、担任教師とのあひだで交はされた「生活記録ノート」の文章は、純朴なだけに却つて切実な感じがある。
文字は筆圧によつて太い細い、濃い薄いのちがひが出る鉛筆で書かれてゐる。これが万年筆やボールペンで綴られてゐたら、また印象も異なつたものになつたに違ひない。
鉛筆がオフィスや生活の場から遠ざかつてどれほど経つだらう。デパートの売り子も宅配便の運転手もボールペンを差し出す。いま鉛筆を目にするのは、選挙の投票所の記載所くらゐぢやないか。
昭和41年(1966)4月、就職して初任地の地方支局へ行つた晩に最初に手渡されたのが、B5判のざら紙にタテ10字、ヨコ6行のマス目が印刷された原稿用紙の束と、3Bの丸い三菱鉛筆だつた。
当時、新聞の1行は15字だつたから、この原稿用紙いつぱいに書くと記事4行になる。おう、ぼくがこの鉛筆で書いた記事が、時には全国へ配られるのだなーー。
20年ほどして、にはかにワープロが登場、職場から鉛筆は消えた。また数年すると、こんどはパソコンで打つてデスクに送信するやうになる。記事は「書く」ものではなくて、「打つ」ものになつた。
ぼくの周りに鉛筆が復活したのは、リタイアした後である。41年間職場で使つた木製の筒状のペン立てを自宅へ持ち帰つた。
いま書斎の机上のそこには、学生時代、最初の原稿料で買つた極太のモンブラン、田中角栄首相から頂戴した金ぴかのパーカー、某文学賞の賞品のメタリックのクロス、などの万年筆や、だれかのヨーロッパ旅行のおみやげのダンヒル(銀製)と100円ショップにある書き味の良い赤と黒のボールペンなどの中に、新聞社から無断で頂いてきた3Bの鉛筆が1本さしてある。鉛筆がいちばん背が高い。
日記とか、封書の宛先、ひとさまの目に触れる文書には万年筆を使ふ(けふはどの万年筆で書かうかと迷ふのが結構楽しい)が、ふだんのメモーー会合、返信、買ひ物の予定、家人への連絡、着想の覚えなどは、つい鉛筆に手が伸びる。
ペン先が紙に当たる感触は万年筆やボールペンのほうがいいのだけれど、鉛筆の、かがやく濃い緑色の丸い軸には地方支局で初めて手にしたときの感動が宿る。ちなみに鉛筆削り器は、カタツムリのやうな格好をした親指ほどの大きさの金属製で、もう50年は使用してゐる。
戦後70年といへば、この間、かまどや風呂釜のやうな生活用品から仕事や趣味や食品などの道具、材料まで、わたしたちの周囲は激越に変化した。
進化して便利になつたものもあるけれど、逆にこれだけは絶滅しなくて良かつたと思ふ物もある。鉛筆もその一つだ。自殺した中学2年生も、身近に鉛筆があつたからあのノートを書き遺せた。
