芥川賞芸人・ピース又吉(又吉直樹)の受賞作「火花」に、こんな一節がある。
「祭りのお囃子が常軌を逸するほど激しくて、僕達の声を正確に聞きとれるのは、おそらくマイクを中心に半径一メートルくらいだろうから、僕達は最低でも三秒に一度の間隔で面白いことを言い続けなければ、ただ何かを話しているだけの二人になってしまうのだけれど、三秒に一度の間隔で無理に面白いことを言おうとすると、面白くない人と思われる危険が高すぎるので……」
ぼくが注目したのは「僕達は最低でも三秒に一度の間隔で面白いことを言い続けなければ」のくだりだ。
3秒に1度、人を笑はせるといふのは、つまり一呼吸置く間もなく、次のジョーク、突つ込み、ボケで、笑ひをとらなければならない。
ピース又吉はそんな無謀な勝負はせずにその場をごまかさうとしたから賢明だが、実際、最近のテレビに登場する芸人たちは「3秒に1度」を実践しようとしてゐる。
芸人が出るバラエティー番組を隣りの部屋で聴いてゐると、ほとんど爆笑の連続である。もちろんこれは若い芸人らの追つかけや女性ファン、要するに「サクラ」が無理して場を盛り上げてゐるにすぎない。サクラにつられて、テレビの前の視聴者が笑つてゐると考へるのは、無能な番組制作者だけだらう。
「笑ひ」といふのは潤滑油である。ぼくも政治関係の講演などで、最初の笑ひが取れるとやや心やすまる。聴衆とつながつた感じがする。少なくとも、「聴いてくれてゐる」の確認にはなる。
しかし、テレビの芸人が強要する笑ひも、素人講師がほつとする笑ひも、さらにいふなら、仲間内の飲み会での笑ひも、街角で立ち話する女性たちの笑ひも、総じて現代の笑ひは「本来の笑ひ」とは遠い気がする。
笑ひといふのは、元来もつと「高尚なもの」ではないだらうか。人の本性に触れた、狡猾、吝嗇、悲惨、醜悪――さういふものをやんわり指摘するところに生まれる面白さ。
人間の持つ生来のいやらしさ、みつともなさを相互に認め合ふなかに浮き出る、どうにも避け難い人間の性(さが)。そこに本当の笑ひが生じる。
そこには連想とかイマジネーションとか経験といふやうな、いくばくかの知的作業が加味されなければ成就しない。
一例をあげるなら、古典落語の下げのやうな笑ひである。聴いて、一瞬、思案して、なるほどうがつたことを言ふ、その通りだと、こみ上げるをかしさを吐き出すやうな笑ひ。
映画でも小説でも、人を泣かせるのはあんがい簡単だが、心底から笑はせるのは難しい。
