たぶん学校の授業で書かされたのだらう。小学3年生の孫から「ジイジ、バアバへ」とハガキが届いた。運動会へのお誘ひである。
二人のわが子に対してもさうだつたが、日ごろ孫たちのイベントはバアバ任せで、ジイジはあまり出かけて行くことはないのだけれど、鉛筆の手書きの招待状を頂戴してはさうもいかない。
上の孫の運動会に顔を出したら、次は公平に幼稚園年長組の下の孫の運動会にもといふことで、この秋、相ついで二つの運動会を見ることになつた。
一度でもご覧になつた方ならご存知のやうに、最近の運動会といふのは、子供や親が黄色い声を張りあげて声援する場である以上に、あつちでもこつちでもビデオや写真を撮りまくる撮影会の場になつてゐる。
少しでもわが子に接近してナイスショットを狙はうとする親たちで、スタートラインやゴール付近は撮影ポイントの奪ひ合ひになる。
冬の火鉢のやうな、無体に巨大で、丸々としたお尻を突き出した母親が、まるでラグビー選手のタックルのやうに、ゴール横に陣取つてゐた男性をその強力な腰で押しのけ好位置を確保する。
男性はそれならばと、暗黙の了解で学校関係者以外だれも立ち入らないゴール反対側のグラウンドに侵入する。数人の父親が後を追つて移動する。あわてて女の先生が男たちを外に追ひ返す。
「ジイジはなんで写真を撮らないの?」
上の孫に質問された。
「写真を撮つてどうするの?」
と答へると、孫はきよとんとした顔をする。
「ーー写真を撮れば、あとで家で楽しめるぢやん」
「だつたら、いま楽しめばいいぢやないの」
小学3年生はいよいよ不思議な顔になつて、ジイジは頭がをかしいのではないかといふ目になる。
運動会に限らない。学芸会などのイベントでも、みんな舞台を見るのを忘れてわが子にカメラを向ける。家族やグループで観光地へ行けば、まづ最優先は自分たちを写真におさめることだ。ぼくが立ち止まつてのんびり景色を眺めてゐたりすると、早くその場所を空けろといふ視線が飛んでくる。
火事や事故現場の写真を撮るのが得意でなかつたぼくがかういふと、言ひわけにしか聞こえないだらうと思つて普段は黙つてゐるのだが、写真を撮ることに気を取られて、その場の一瞬をなほざりにするといふのは本末転倒ではないか。
孫の言ふやうに、ビデオや写真があれば「あとで家で楽しめる」。しかし、それはあくまで旅行やイベントの「おまけ」の楽しみにすぎない。「おまけ」のために、本当の楽しみを犠牲にするのは賢明ではないだらう。
運動会のゴールでは、ファインダーをのぞくのではなくて、自分の目でゴールの瞬間をきちんと見て、その感動に身を委ねるべきではないかと思ふ。
人生は決定的な一瞬一瞬の連続だ。賞味すべきはその一瞬一瞬であり、「あとの楽しみ」のためにその時間を犠牲にするのは勿体ない。
大事な場面では写真を撮るのはやめて、自分のナマの目でぢつと見つめ、何かを感じたほうがいい。日本語には「目に焼き付ける」といふことばもある。
