蕎麦屋の引き戸に「新蕎麦入りました」の張り紙が出る季節となり、さうだ、新蕎麦で一杯やるのも悪くないなと思ひながら、結局は数軒先のいつも
のワイン屋に腰を落ちつかせてしまふのですけれど、新蕎麦の香は、実際に蕎麦屋で注文して、箸でつまんで口にするときよりも、かういふ具合に町
を歩いてゐて、「新蕎麦入りました」の文字を横目にしながら、近々、ここの暖簾をくぐつて、灘か越後の、涼やかな清酒の味を口中にひろげたとこ
ろへ新蕎麦の清浄なかをりを啜りこみたいものだ、などと思ひ描く情趣にその真髄があるので、実際に食べてしまへば新蕎麦といへども蕎麦は蕎麦、
思はず椅子から飛び上がるほど旨いものでもないし、灘にしろ越後にしろ、その酔ひ心地を倍増してくれるものでもなく、よろづ楽しみは「事の
前」にありの感を深くするのですが、蕎麦屋つながりでいへば、いま真つ盛りの衆院選も「もり」とか「かけ」とか蕎麦臭いことが機縁になつたのは
間違ひなく、さて10月22日に開票してみたら結果はどうなるものやら、しばらく情勢混沌としてゐた中で、このところやや霧が晴れて、下馬評
では寄せ集め保守新党「希望」の風が意外に早く萎んでしまひ、反対に「希望に排除され」ての駆け込み寺・左翼新党「立憲民主」があんがいやる
んぢやないか、そんなこんなで選挙後の政界地図はあまり変動なく、自公政権はそのまま継続とみる予想屋が多いやうで、とはいふものの国政選挙は
開票当夜、「意外にも」といふ珍現象が起き、テレビの報道番組や新聞記事は、トッパン主見出しは予想屋の言ふままながら、脇に振る小見出しに困
ることはないことを経験から学んでゐて、今回も「あのスキャンダル候補が当選」とか「大物、落選ぞろぞろ」「当選、即古巣へ、の党替へ表明相次
ぐ」など、当夜にならなければ予想しがたい事態が発生するのも世の常、それだけが開票当日までの想像の楽しみで、これも「事の前」にこそ許され
る選挙の味はひと、秋空の下、新聞の全選挙区立候補者一覧に、勝手に赤のボールペンで〇や×を付けてゐたら、こちらの退屈がどう通じたのか、あ
る方から「ぜひご夫妻で」とJR東京駅前の丸ビル35階にあるフランス人兄弟が経営する高級フレンチのディナー券を頂戴し、家人は「何を着て行か
うかしら」と早くも鏡の前で数量限定のファッションショー、ぼくはぼくで、当日興奮してワイン選びを間違ふと帰宅してからお目玉を食ふなとつま
らない心配をして、それもこれも新蕎麦や衆院選と同じく、「事の前」の興趣であり、逆に言ふと、「事の後」のよろこびが「事の前」のよろこびを
上回ることはないものだといふ世知を、悲しいかな70余年の人生で身につけてゐる不幸を嘆くしかありません。
