いつも行くワインバーで、水商売にしては正直だけが取り柄のやうな店長が、「ウチの店で初めて入れてみたイタリアの安物なんですが、感想を聞かせてくれますか」と赤ワインをグラスに注いでくれた。
「安物」と言つて差し出すのも失礼な話だが、もちろんサーヴィスだから黙つて飲む。
「ウン、飲めるぢやない」と店長の目を見てうなづく。
「どんな味がしますか」
店長にすれば、ぼくの答へによつてはメニューの値付けを千五百円にも三千円にもできるのだらうから真剣である。
「どんな味つて、まあそれなりに飲める、といふ感じ。イタリア物としてはありきたりの味だよね。二千円といつたところかな」
「値段はともかく、どんな味ですか」
「酸味がしつかりしてゐて、どんな料理にも合ふといふ感じ」
「――ありきたりな感想ですねえ」
折角目利きと見込んで味見を頼んだのに、気の利いた評言を得ることができなかつた店長は、ボトルを持つて奥に下がつてしまつた。
勝手に客にテイスティングをさせておいて「ありきたり」もないものだが、言はれてみれば、ぼくは大体がありきたりだ。
たとへば四十余年の新聞記者生活では、朝から晩まで「ありきたり」な表現にお世話になつた。
与野党対決法案が国会に提出され、この先どうなるか分からないときには、「成り行きが注目される」(業界用語では「ナリチュー原稿」。きはめて応用範囲が広い)と結び、また、先行きについては「予断を許さない」と、天気予報みたいな逃げを打つたりする。
与野党攻防が盛り上がつてくれば「ヤマ場を迎へる」で、政府側の答弁が苦境に陥れば、「真価が問はれ」る「正念場」。その結果によつては「雌雄を決し」「明暗を分ける」。
かういふ「ありきたり」なことばほど遣ひ勝手のいいものはない。
ことば自体が曖昧模糊として何を言つてゐるのか不分明だから、状況の正確な把握が出来ず、暗中模索、先の予測など全く立たないとき、避難壕のやうにそこへ逃げ込む。
事態がとんでもない方向へ流れて、世間をあつと言はせる結末になつても、「だから言つたでせう。予断は許さないつて」と居直れる。
次々発生する問題の先行きを予測し、その当否にいちいち責任を感じてゐたらジャーナリストは三日も身がもたないから、みんな挙(こぞ)つて「ありきたり」なことばを多用する。
「さつき店長はありきたりな感想つて言つたけどーー」
帰り際、ぼくは会計をしながら店長に小声で言つた。
「この店で飲ませるワインなんて、ほとんどありきたりな味ぢやない」
店長が血相を変へさうになつたので、慌てて付け加へた。
「それでいいんだよ。みんなが安心してこの店に来られるのはありきたりだからさ。ありきたりでないワインばかり置いてあつたら、みんな怖くて、この店に寄りつかない」
もちろん、人生、何もかも「ありきたり」で済ませればいいといふものでもないけれど。
