「お食事の前に、何かお飲み物でもお持ちしますか」

緑のユニフォームに身を固めた若い女がテーブルにやつて来て、ぼくと連れの女性に革製の重い料理メニュー本を差し出しながら注文をとる。

女性は「私はアルコールが駄目なので」とオレンジジュースを注文した。

食前酒ならシェリーやキールなどワイン系の酒が一般的だけれど、御大層なメニュー本を手にした瞬間、いたづら心がぼくに巣食つた。

ぼくも女性も初めてのフレンチの店で、緊張のほぐれない目つきの彼女に、少し間をかせがせる気持ちもあった。

「マティーニをください。少しドライで」

レストランはバーとは違ふから、バーコーナーのある店でもなければマティーニのやうなカクテルは面倒くさがるのが普通だ。

氷を洗ひ、ジンにベルモットを数滴垂らしてステアすればいいだけのこととはいへ、カクテルのスタッフが常駐しなければメニューには載せられない。革製のメニューにも書いてなかつた。

しかし、ぼくは食事の前にジンのやうな強い酒で食欲をあふるのが好きだ。

「マティーニ、ですか?」

ユニフォームの女は、首をかしげて注文を訊き返した。さらにもう一度確認すると、女は「少々お待ちください」と合点のいかぬ顔をして下がり、すぐに店長風の男を連れて来た。

「お客さま。申し訳ございませんが、当店ではマティーニはご用意できません。ジンのロックでよろしければお持ちできますが」

案の定で、店長風にさう言はれたら従ふほかはない。

都心にフランス人シェフを数人擁し、東京でも名立たるフレンチとして通つてゐる店がさう詫びるのだから、それ以上こだはると雰囲気がこはれて料理の味にもひびきかねない。

食前酒のこの遣り取りで、席に着いて十分もたたないといふのに、ぼくはこの店に妙な違和感を覚えた。

料理は口にしてみなければ分からないものの、ここは言はれてゐるほど「一流フレンチ」ではないなといふ疑問である。

この疑問はざつと二時間後、すべて食事を終へたとき決定的な確信に変はつた。

ユニフォームの女に会計の合図をして、カードを提示する。

やがて勘定書きを持つてきた先の店長らしき男は、ぼくにサインを求めるために、黒い上着の内ポケットから細身のボールペンを取り出して勘定書きの上に置いた。

上等なクロス社の銀のボールペンだが、永年使ひ込んでゐるらしくボディーの銀は黒く錆び、クロスの象徴である頭部の細い金の輪も切れ切れになつてゐる。

匂ひを嗅げば男の掌の臭みがこびりついてゐるにちがひない。

ぼくはそのとき、さつきまで仕事で使つてゐた100円のボールペンでサインした。

それ以降、行く店の良し悪しは店が出すボールペンで判断する癖がついた。

いつも行く銀座のシャツ専門店や帽子屋、二か月に一度しか行かない美容院、家族でときどき利用する中華の店など、どこでも会計のサイン用に店がさし出すボールペンの姿かたちで、店の格といふか質といふか、細部にまで神経を用ゐる店か否か、つまり、総合的に店の品定めをする。

たかがボールペンだが、この判定法は概して当たる。お試しを。