「何であんなことをしたのでせうか」
ざつと半世紀前の昭和45年(1970)の初冬、作家の三島由紀夫が東京・市ヶ谷台で割腹自殺を遂げた直後だつた。新潮社が発行する週刊新潮のデスクのSさんに呼ばれて会ひ、ぼくのほうからいきなりかう質問した。
Sさんは週刊誌デスクの前は純文学雑誌・新潮の名編集者で、売れつ子だつた三島由紀夫を担当してゐた。学生のぼくがたまたま新潮新人賞に応募したことからSさんとの縁ができ、たまに新潮に短編を載せてもらつたりしてゐた。
「それはずつと近くにゐた私にも謎だけど、結局、人生を閉ぢるに際して『何でもいいから何か破天荒なこと』をやつてみたかつたんぢやないのかな」
Sさんからはその日、翌週発行の週刊新潮に「11月25日 三島由紀夫が死んだ日」といふ“特別読み物”を5ページほど書いてみないかといふ話だつたが、遺作「豊饒の海」全4巻を書き上げて人生の先が空白になつた三島が、最後に「何か破天荒なこと」をやつてみたかつたのではといふヴェテラン編集者の見立ては的を射てゐたと思ふ。
「豊饒の海」第3巻の「暁の寺」のなかで、三島は主人公である弁護士の本多の心境をかう記してゐる。
『この年になつて、はじめて彼の奥深いところで、変身の欲望が目ざめてゐた。あれほど自分の視点を変へずに他人の転生を眺めてきた本多は、自分の転身の可能性についてさして思ひ悩むこともなかつたのに、いよいよ年齢がその最終の光りで、平板な生涯の野を一望のうちにしらじらと照らし出す時期が来てみると、不可能の確定が、却つて可能の幻をそそり立てた』
日本刀で切腹、型どほり介錯(かいしやく)を受けるなどといふ、ひと昔前の武士に似た突飛な行為によつて、三島は「何か破天荒なこと」への願望を成就したといふ解釈はもつともだ。
もしかすると、三島に限らず、「何か破天荒なこと」をしてみたいといふのは、誰しも心の奧に秘めた羨望なのではないだらうか。
わが身に置き換へるに、「年齢がその最終の光りで」、来し方を振り返つてもほとんど他人に伝へるに値するやうなことは何も起きなかつた「平板な生涯の野を」、夜中の田んぼの細い畦道(あぜみち)がほのかな月明りに浮かぶやうに「しらじらと照らし出す時期が来てみると」、もはや破天荒なことなどできるはずもないといふ「不可能の確定が、却つて可能の幻をそそり立て」るのである。
本多はかうも考へる。
『さうしてもう一度、この堅固な世界を不定形の裡へ巻き込まなければならない。彼にとつてはもつとも馴染みの薄い何ものかへ!』
確かに、さういふ「不定形」の世界とはぼくも馴染みが薄いけれど。
