最初に異変が起きたのは、委員長席の目の前にある速記者席だつた。

 四人の内の一人の女性が、右手で速記をとりながら突如、左手で自分の頬を音立てて叩いた。

 ふだん左手はテーブル上の白紙が動かないやうにそつと添へられてゐるので、女性のこの奇妙な動きに、質問中だつた野党の若手議員は思はず発言を中断した。
 
 この日は、今国会最大の与野党対決法案である健康保険法改正案(自由診療拡大法案)の審議が大詰めで、与党側はこの日の参院委員会で審議を打ち切り、強行採決をして、会期末となる翌日の本会議で可決、成立させようと目論んでゐた。

 一方、野党側は如何にしてでもこの日の委員会採決を阻止しなければならなかつた。
 
 こんどは速記者席の脇に位置する参院職員席で、時計担当の若い男性が首の後ろの、刈りあげた短髪の下を片手で大げさに左右に払つた。払ふだけでなく、首筋を何度か引つぱたいた。

 「どうした?」
 とおどろいた隣の同僚職員が、低い声音で言つた。

 また速記者席で、男が自分の顔の前で掌を打ち、捕殺した何かを最初に刺された女に見せた。
 
 またたく間に、騒動は与野党の委員席全体に拡がつた。

 数人の議員があわただしく席を立ち、通路に出て、顔や首に吸ひつく虫を追ひ払つた。

 政府攻撃の舌鋒の鋭さで知られた中年女性の野党議員は、自分のスカートに侵入してきた何かに、あられもない悲鳴をあげた。

 それを見た老議員たちは、冷やかしの視線とヤジを浴びせる暇もなく、自分の足元の靴下の上から刺さうとする無数の虫を追ひ払はなければならなかつた。

委員長席はと見ると、長老の委員長はすでに椅子を下りて、毛のない後頭部に噛みつかうとする何かの所在を確かめようと懸命に頭をなでてゐる。

「参議院を浄化する党」の理事が委員長席へ行き、他の理事を呼び寄せた。

「異常事態だ。正常な審議ができる状態ではない。委員会は暫時休憩にすべきだ」

委員長は「暫時休憩」を宣言、この日ふたたび委員会が開かれることはなく、会期内に「継続審議」の処理もできずに、法案は廃案となつた。

翌日、私は平河町の古ビルの一角にある「参議院を浄化する党」の応接室の一室で、厚生労働委員会理事の男と対面した。彼と会ふのは二度目である。

「約束通り、やることはやりました」
私は沈静に言つた。

「きみが言つてゐた以上の成果だつた。それには感謝してゐる」
理事は強度の近視で、政治家になる前は学習塾の英語教師だつた。

最初に面会を求めて党本部を訪れた一か月前、彼は私を異常に警戒したが、無理もない。私が持ちかけた話はあまりに荒唐無稽と思はれたのだらう。

彼は私のプランに乗つて来ようとしないで、むしろ私が与党側から遣はされた怪しげな人間かと胡乱な目を向けた。

学生時代から某大手新聞社の政治部のバイト(通称・坊や)をしてきた私には自信のあるプランだつた。

医科大学の研究室で六年余、今でも年間七十五万人もの人命を奪ふ蚊の防除対策を研究してきた私は、膨大な数の蚊が密室に放たれたときのパニック現象について彼に説明した。

「ところで、どうやつて大量の蚊を製造し、国会内に持ち込むのか」
彼の疑問は具体的な実行策にあつた。

孵化の時間が短いアカイエカの製造法、坊やとして蚊を委員会室へ持ち込む方法などを私は詳細に説いた。

彼は半信半疑ながら最終的には私と手を打つた。成功報酬については詰めて話してゐなかつた。

「いくら欲しい?」
と理事は、もういつぱしの政治家のやうな口をきいた。

「おカネなんて要りません」
と、こちらも無駄のない言ひ方をした。

次の参院選に党の比例選挙の「別格候補」として立候補させてほしい、とかねて思案してゐた要求をぶつけた。

「もし、拒否されるのなら、あの日の委員会室の裏をテレビや週刊誌にばらします」

「ずいぶん政治を甘く見てゐるんだねえ。民主主義とはそんな簡単なものぢやない」

「よくそんなことが言へますね」
私は微笑んだ。政治的野心のために無理矢理作つた「参議院を浄化する党」にしても、「別格候補」制度にしても、民主主義システムの欠陥を突いた政治的謀略ではないか。

「とにかく、ほかの方たちとよく相談してください。一週間以内にご返事がない場合、まだ『蚊騒動』の印象が世間に薄れないうちにテレビ局に行きます。さうなつたら、イメージだけでもつてゐるあなたの党は壊滅です」