友人にお祝を差し上げたら、返礼としてギフトブックが送られてきた。

 

分厚いアルバムみたいな印刷物に、肉、魚、漬物などの食料品から衣料、食器、工芸品まで、デパートのやうに、ありとあらゆる分野の商品が掲載されてゐて、「この中からお好きなものを添付のハガキで注文」といふ、例のギフトである。

 

ギフトブックにも5千円、1万円、3万円などランクがあるやうで、ワインとかブランド物の服飾品など、日ごろ買ひ慣れてゐる商品を見れば、いくらのランクのものか大よそ察しがつく。

 

かういふ贈り物を頂くと、ふだん食卓にならぶことの少ない高級和牛とか地方名産の珍味とかを楽しませていただくことにしてゐて、こんども「黒毛和牛のしやぶしやぶ肉」を選んだ。産地は三重県松阪市。

 

ハガキを投函して待つこと一週間。そのあひだ、夕食で豚肉や鶏肉は口にしたけれど、牛肉は遠慮した。到着する松阪牛へ義理立てである。

 

ぼくは晩酌の日本酒の肴に、意外にも肉料理をあてるのが好きなのだが、この一週間はししやもなど魚類を主にして、あとは甘漬けの南高梅などで一杯やつてゐた。

 

松阪牛サマが配達されてきた。

 

開封すると、「個体識別番号」と記された用紙が肉の上に乗つてゐる。

 

さらにこの牛の出生年月日「2018年6月15日」。雌雄の別「メス」、母牛の個体識別番号が記されてゐて、種別(品種)は「黒毛和種」とある。

 

その下に8項目の一覧表があり、出生、転出、搬入、取引、転入などの各項について、異動年月日、飼育施設所在地、氏名または名称、が書かれてゐる。

 

出生は「鹿児島県鹿屋市」、氏名(生産者名か)は「宮城浩幸」。

 

つまりこの一覧表は、縁あつてわが家に届けられた一頭の牛の血統書であり、履歴書であり、一種の通信簿のやうなものだ。

 

「あら、――わたし、これ食べられない」

 

鍋の用意をしながら、一覧表にふと目をやつた家人がつぶやいた。

 

「ねえ、ここ見て」

 

家人が指さしたのは、一覧表の最後の「と畜」といふ項目だった。この牛が命を絶たれた日時、施設の所在地、食肉会社名が書かれてゐる。

 

「なんか生々しいわね。ここまで書く必要があるのかしら」

 

家人は急にしやぶしやぶの意欲を失つたやうで、鍋を下に置いた。

 

「経歴を完璧に記さうとすれば、最後には殺された日時に触れないわけにはいかないだらう」

 

しやぶしやぶは美味しく賞味させていただいたものの、口に入れると舌の上でとろける薄切りの牛肉は多少、複雑な味がした。

 

東京・永田町の国会議事堂の一角に、国会議員や秘書、役人などのあひだで「トンネル」と呼ばれる場所がある。

 

よく知られた国会議事堂全景の、中央玄関に向かつて左側(南)が衆議院、右側が参議院。それぞれに正面玄関があつて、その前には車廻しの大きな噴水。

 

その衆議院側の噴水の右奧、つまり、石造りの議事堂の1階部分の中央寄りに、ドーム状に刳りぬいた小さな空洞が見える。

 

それが通称「トンネル」である。トンネルを出ると、前庭の右に衆院議員用、左に報道陣用の駐車スペースがある。いはばトンネルは、いかめしい衛視の立つ正面玄関から退出しにくいノー・バッヂの人間の通用口なのだ。

 

朝刊用の記事を本社のデスクに送信して、夜の8時前、記者クラブを抜け出しトンネルから前庭に出て、社旗をつけた自社の車に乗つて運転手に行き先を告げる。

 

「六本木の防衛庁の東門のところまでね」

 

「防衛庁」とは2007年に省に昇格するまでの名称で、六本木にあつた。

 

担当する政界の要人の家を深夜訪ねて、時の懸案事項を探つたり雑談する政治記者の取材法のひとつが「夜回り」。

 

その前にこちらは腹ごしらへしなければならない。夜の飲食店に入るのだから少しは酒も飲む。

 

七十歳をとうに超えるハイヤー会社の顔なじみの運転手は、仮眠をとつてゐたらしく、目をこすりながら「分かりました」とエンジンをかける。

 

彼は夜回りの仕事をあてがはれることが多かつた。

 

少々ボケが始まってゐる感じもあつて、社会部記者やカメラマンが現場などへ急行するときには向かない。

 

政治部の記者仲間では「ミルクセーキをぢさん」の名で親しまれてゐた。

 

運転中に自分から下ネタの話を始めるのが好きで、「いやあ、それにしてもミルクセーキは効果抜群ですね。このあひだもねーー」などとしやべり出す。

 

ぼくは座席に身を沈めて目を閉ぢ、いつの間にかうとうとする。

 

「着きましたよ」

 

老運転手の声に起こされる。外を見ると六本木とは全く風景がちがふ。

 

「ここどこ?」

「いつものところです」

 

ミルクセーキをぢさんは、ぼくが彼に何度も送つてもらった四谷三丁目の寿司屋の前に車を停めてゐた。

 

ぼくは行き先を告げたのに、彼の頭の中ではぼくの顔を見たら四谷三丁目の寿司屋と刷り込まれてゐたにちがひない。

 

けふは六本木の「とんかつ太郎」で、快活な親父相手に一杯やりたかつたのだけれど、彼の車に乗つたのが運の尽き、仕方ないか。

 

夜の仕事の前のほんの寄り道だものな。

 

確定申告の季節になると、むしやうに寿司が食べたくなる。

 

もちろんこの時季、寿司がうまいといふこともあるけれど、ぼくの場合、もつと生理的に確定申告と寿司がつながつてゐる。

 

一介のサラリーマンにどうして確定申告が必要になのかといへば、政治記者だつた三十代の後半、中央官庁で定期購読されてゐる『官界』といふ業界誌の編集者と親しくなつて、その雑誌に政治小説を連載することになつた。

 

4年間、2本つづいた。1本目は政界を泳ぐ若い女性政治記者のフィクション物、2本目は担当だつた中曽根康弘氏が自民党幹事長から総理大臣になるまでを「王道の孤独」といふタイトルで2年間連載、単行本にもなつた。

 

無名作家だし、小さな出版社だから連載の原稿料は安いものの、月刊誌は毎月原稿料が発生するので、一年だとまあまあの金額になる。

 

新聞社からの給与とは別収入だから、確定申告をしなければならない。

 

しかし、確定申告はどうやればいいのか皆目わからなかつた。たまたま文学関係の友人に税理士がゐたので相談すると、「確定申告すれば還付金がもらへるかもしれませんよ」と言ふ。

 

「還付金つて?」

 

耳慣れないことばに戸惑ふ。

 

「毎月の原稿料からは源泉徴収といふ税金が一割天引きされてゐるのです。確定申告すれば少し戻つて来るかもしれません」

 

小説の取材に要した交通費や本代や交際費などを「必要経費」として計上すると、源泉徴収の一部が還付されるのだといふ。

 

「でも、確定申告つて面倒なんぢやないの」

 

「簡単ですよ。必要経費の領収書さへきちんと保存しておけば、一時間もかからないでできます。私でよければやりますよ」

 

以来、連載中は毎年、1月末から2月初めにかけて、彼の仕事がをはる夜の九時過ぎに待ち合はせご厄介になった。

 

場所は内幸町の日比谷公園の向ひにある日本プレスセンタービル。この中に新聞社が各社1室、昼夜使へる小部屋を持つてゐる。

 

ビルの正面玄関で彼と落ち合ひ、守衛室で身分証明書をみせて鍵を受けとり、小部屋に入る。

 

ぼくはわくわくしながら必要経費の領収書をならべ、彼が手際よく整理して申告書に記入する。

 

「これ、赤坂のワインバーの領収書だけど、大丈夫かな」

 

ぼくは一枚の領収書をおづおづと差し出す。

 

「誰と飲んだのですか。何らかの意味で小説の執筆と関連があれば使へます」

 

「よく覚えてゐないのだけれど、何らかの意味で関係はあると思ふな。いや、あります」

 

さうか、この程度の厳密さでいいのか。一円、十円を問題にするわけぢやないのね、とほつとする。

 

さうだよな、そんな細かいことまで税務署がいちいち目を光らせたらキリがないし、確定申告といふ制度自体、国民の納税意識を高めるのが主眼だらう。

 

「――ぢやあ、行きますか」

 

渡された確定申告書をながめながら、ぼくはいつもの四谷三丁目の寿司屋に彼を誘ふ。

 

申告書には、左側に「収入金額等」「所得金額」「所得から差し引かれる金額」、右側に「税金の計算」「源泉徴収税額」などの項目があり、「税金の計算」の一番下段に「還付される税金」といふ△印の付いた欄がある。

 

見ると、お礼に寿司屋をおごつても十分おつりがくる金額だ。

 

「ぼくは最初、コハダをつまみで」

 

全部税理士任せながらともかく今年も確定申告の作業ををへ、ふたりで熱燗で乾杯をして、カウンターの中のおやじにネタの注文を始めるときくらゐ心やすらぐものはなかつた。