子供のころ、電話は家の真ん中の太い柱の、ぼくが背伸びしてやつと届く高さに据え付けられてゐた。

 

昼下がり、どうにか受話器をはずし耳へあてる。交換台の若い女性がささやく。

「何番へ?」

「ろっぴゃくごじゅうばん!」

 

頭より高い位置に固定された送話口めがけて叫ぶぼくの声は弾んでゐる。

 

電話局の女性と一人前に交信できた感じが少し嬉しいのと、何より「650番」は「美味しい番号」なのだ。

 

「へい、珍楽!」

 

いつものおやぢが、快活な声をあげる。ぼくはこちらの町名と名前を告げたあと、

「チャーハン一つと、ラーメン二つ。お願ひします」

と言ふ。

 

「チャーハン一丁とラーメン二丁。へい、承知。少々お待ちくださいね」

 

受話器を柱にかけ戻しても、ぼくの心はまだ高揚してゐる。毎度おなじみのおやぢの声が聞けたのが楽しい。

 

スープ付きのチャーハンは母親の好物、ラーメンはぼくとお手伝ひ用。

 

十分ほどすると、門の基石を乗り越える自転車のタイヤの音がする。

 

茶の間におやぢの丸顔がのぞき、注文した品が縁側にならべられる。ぼくの胃液があふれ出すーー。

 

コロナ禍といふこともあつて、昨年ごろから食品の宅配がにはかに流行り始めた。

 

テレビCMもにぎやかで、町にはそれらしき黒や赤や白のボックスを積んだ自転車やバイクが目立つ。

 

昭和の中ごろまで、町のラーメン屋やカレー屋が家まで配達してくれるのは当たり前だつたから、便利なものは折をみて復活するらしい。

 

便利といへば、日本固有の文化となつてゐるのが新聞の宅配だ。

 

一千万部などといふ世界一の部数を誇る新聞が誕生したのも、毎朝自宅まで配達されるシステムのおかげで、駅やコンビニのスタンド販売だけだつたら数十万部が精々ではないか。

 

しかし、スマホなどネット社会の隆盛もあつて、新聞の定期購読者は徐々に減少してゐるさうだ。

 

もし今の新聞販売店の宅配がつぶれれば、真つ先に誕生するのは小規模な新聞の宅配業だらう。自転車一台あれば開業できる。

 

日本に宅配が定着したのは、日本人の性向が影響してゐるにちがひない。

 

プライバシーや自他の意識に過敏なところでは、宅配の人間が自宅に近寄るのにも神経を尖らせるだろうが、日本人は他人が自分の家に接近したり入り込むことに昔から意外と寛容で警戒心が薄い。

 

ことしは例年になくウグイスが良く鳴く。

 

近くに旧官幣大社の鎮守の森があるせゐか、ふだんでも鳥の姿は多いのだけれど、ことしはなぜか早朝6時ごろから夕方まで、ウグイスが庭の松、モチノキ、モッコク、モミヂなどを転々と鳴きわたる。

 

鳴き声はご存じの「ホー、ホケキョ」が定番と思つたら、耳を澄ますと実は多種多様である。

 

「キーッ」と悲鳴のやうな高音を曳いたあと「ケキョ」と畳むのもあれば、「ホー」と低く始めて、さあどんな鳴き音に発展かと期待すると、「ケキョ、ケキョ」だけで“後略”なのもある。

 

中には前略、後略で、短く「ホケ、ホケ」だけで済ませる横着なのもゐる。

 

ウグイスの鳴き声の宅配は、ラーメンや新聞のそれのやうに美味しくもないし便利でもないが、それは清爽な自然のBGMで、一日中聴いてゐても悪い気はしない。

JR東日本に勤める息子が久しぶりに電話をかけてきた。

 

「いくら仕事でも、国土交通省の官僚なんかを接待するなよ」

 

笑ひながら言ふと、

「大丈夫だよ。こつちが接待しようとしても、おやぢが偉くないから役人の方で来ない」

と可愛くないことを言ふ。

 

それもさうだ。

 

総務省の官僚も、相手は現職の総理大臣の息子だから、宴席に誘はれたら断るわけにはいかなからうが、一介の元新聞記者の息子から声を掛けられて同席しても一文の得にもならないから、接待に応じる官僚などゐない。それが常識といふものだらう。

 

ところが最近は、この「常識」がなかなか通用しない。

 

年度の節目の人事異動の季節、人が去り、人が来るとなれば、歓送迎会を催すのは日本の習ひだが、厚生労働省の役人たちが先輩を送ろうと銀座で飲んだのが、国家公務員法の規律違反として処分の対象になる。

 

テレビ番組や公式な場で、名のある人間がジョークや比喩で少々口を滑らせると、すぐさま「パワハラだ」とか「女性蔑視だ」「コロナ騒動のこんな時季に」「立場を弁へろ」などと、青筋立てた非難の大合唱になる。

 

しかもいつたん火がつくと、近ごろはその人が公式の場で深々と謝罪するか、左遷させられるかまで、大衆リンチの怒涛が鎮まるのに時間がかかる。

 

発言した人間がはふはふの体で逃げ出したり、テレビカメラの前で「〇〇秒間も頭を下げた」姿を見るのがそれほど楽しいのか。

 

揚げ句、その人のポストや名誉や収入源を剝奪することが、そんなに快感を呼ぶのか。

 

奇妙なことに、最近は人のあらを探し出し、非難し、その人を窮地に追ひ込むことが、なんとなく知的で、正義で、カッコのいいことのやうに錯覚されてゐる。

 

いまや正論とは、さういふことをする論理の組み立てらしい。

 

他人を一方的に批判し攻撃することは、ヒステリック、下品ではあれ、カッコいいことではない。

 

これは経験に基づく推測だが、あれはたぶん国会中継などで追及材料とレトリックに行き詰つた野党議員がみせる口吻の物まねである。

 

「総理! 総理! こんなことを放置してゐたら、政治は国民から信用されなくなりますよ。一体、誰がこの責任を取るのですか。国民は許しませんよ!」

 

盾につかはれた「国民」はといへば、実はその議員より少し賢い。

 

政治などハナから信用していないし、それでも選挙では比較的妥当な政党に多数を与えるし、その「非難されるべき」人間をも常識に照らしていつの間にか許す。

 

コロナとか不況とか気づまりな世の中だけれど、それをさらにギスギスと窮屈にするのではなくて、もつと大らかに、寛厚な気持ちに戻らうではないか。

 

ボーイが差し出した革のメニュー本を手に取つて、前菜をどれにしようか迷つてゐる。

 

「ここのシーフードサラダ、結構イケますよ」

 

隣りの卓から余計なことをアドバイスする。

 

その店を訪れたのが初めての彼女は、前菜だけで五、六種類もあるから、なかなか決められない。

 

「ぢやあ、お勧めに従つて前菜はこれで」

 

やがて、女性の前にサラダがきた。

真つ先にカリフラワーの白い一片を口に運び、次にタコの白い切り身にフォークを刺して、

「わあー、美味しい。このサラダ、罪悪感ゼロつていふ感じ」

と私のほうを見てほほ笑む。

 

物を食べて「罪悪感ゼロ」なんて言ふところをみると、日ごろ、カロリーや太ることにかなり神経を遣つてゐるらしい。

 

「このサラダなら安心です。ドレッシングも上品な味で、これならマグロでも貝でもどんどん食べられさうだわ」

 

女性はサラダの上に載つてゐる青菜をフォークで除けて、中をのぞき込む。

 

「ずいぶんいろんな種類の魚や野菜が混ざつてゐて、なんて贅沢なサラダ」。

 

前菜だけでお腹がいつぱいになつても困るけれど、推奨した手前、喜んでもらへたのは良かつたと安堵しつつ、それにしても最近の若い人、いや若者だけではなく世間全体が、「混ざり合ふ」ことを善とし、歓迎する風潮が強いと思ふ。

 

もともとは企業の雇用に関して遣はれる用語で、このごろ盛んに叫ばれる「ダイバーシティ―」(多様性)といふ概念も、要するにいろいろなものが混ざり合ふといふことだらう。

 

論議を呼んだ東京五輪組織委員会の森元会長の「女性蔑視発言」でも、女性が組織・団体の役員にいかに多く「混ざり合ふ」か、その多寡が問題になつた。

 

その挙句、森元会長の置きみやげで多数の女性役員が誕生したが、今はどの会社、組織でも、性別、国籍、人種、老若が多様に混ざり合つてゐるとみんな安心する。

 

いろいろな材料が入つてゐるシーフードサラダに興奮した彼女も、その食材の「ダイバーシティー」に感動したとみれば、いかにも今風で納得がいく。

 

いろんな物が一緒くたに混ざれば、何より罪悪感がなくなるのかもしれない。

 

だから、といふわけではありませんが、昨年10月から新装開店したわが「エッセー塾」では、かういふ社会の風潮に呼応して、従来の土曜塾と月曜塾のほかに、「教場までお出かけ頂かなくとも、パソコンのメール添付で作品をやり取りしてご指導する」メール塾を、4月期から新設することになりました。

 

基本はフェイス・トウ・フェイスの土曜、月曜塾ですが、ネット経由も含めて多数で混ざり合ふと、エッセーの味がどう変はるか楽しみです。​​​​​​​