サラリーマンを辞めて13年、ほとんど毎日、午後4時ごろから「指定席」の5番テーブルでワインを飲んでゐるフレンチの店が、この1か月余、コロナ対策の「令和の禁酒令」に従つて酒類の提供を自粛してゐる。
「“独り飲み”だから害はないぢやないの」と駄々をこねる手もないわけぢやないけれど、周りのお客がみんな肉や魚の仏蘭西料理を水だけでをとなしく食べてゐるのに(ぼくは朝食以外の外食で、酒抜きで料理を食べるといふ芸当ができない)、ひとり常連面(づら)をして酒を飲むといふのも無粋かなと思つて、トマトジュースやアイスティーで1時間ほど過ごす。
ワインを飲んでゐればあまり気にもならない周囲の会話も、アルコールが一滴も入つてゐないと、となりのテーブルのおしやべりがまるでパトカーのサイレンのやうに耳に飛び込んでくる。
「わたくし、今回、あらためて日本といふ国は敬老精神が行き届いた国だとびつくりしましたの」
隣席は和服姿の老女三人である。お茶かお華のお稽古ごとの帰りだらうか、三人とも季節のきものに帯の柄の取り合はせがしつかりしてゐる。
中でいちばん長老の、おそらく師匠格とおぼしき、あぢさゐ模様の帯の肥えた女がつづける。
「わたくしが住む町では、ワクチン接種のクーポン券が、まづ九十歳以上、つぎに八十五歳以上、そのあと八十歳以上といふ具合に、五歳刻みで順に郵送されたさうですよ。
わたくし、今まで歳上でトクしたことは一度もなかつたけど、今回ばかりは先にクーポン券が来て良かつたですわ。
おかげさまで、来週月曜日には一回目の接種ができることに。――日本はやはり敬老精神が健在ですわね。オホホ」
「あら、来週ですか。いいわね。私はまだまだずつと先」
と、三人のなかでは最も地味な装ひの痩せた老女が口をはさんだ。
「だいたい、日本はコロナの感染者や死者数が欧米に比べてケタ違ひに少ないのに、ワクチンの話になつたら何ともお粗末だと思ひませんか。ノーベル賞を取つた人が何人もゐたりして、日本は医学の先進国だと思つてゐたら、コロナの国産ワクチンが一つもなくて、総理大臣がアメリカへ行つて、頭を下げて少し回してもらつたり」
「たまたま日本では近年、インフルエンザの大流行がなかつたので、ワクチンの開発や製造が後回しになつてゐたつてテレビで言つてましたけど」
いちばん若手の白絣をきりりと着込んだ女が言ふ。痩せた女が反論する。
「だからお粗末だと言ふのよ。政治家はふだんからいろいろなことを想定して、ちやんと備へてをいてくれなくちや国民は安心できないぢやないの。
本当に必要な時に間に合はなかつたアベノマスクもさうだつたけど、日本の政治つて、こんどみたいに何か事が勃発すると右往左往して、みつともないわね」
あぢさゐ模様の長老が痩せた女と白絣の間に割つて入つて、
「アベノマスクにしてもこんどのワクチンにしても、いつとき右往左往するけど、結果として間に合へばそれでよろしいのではないかしら。オホホ」
そのとき、痩せた女の帯にはさんであつたスマホが鳴つた。
「ああ、それは良かつた。先生にその日程でOKといふことと、丁寧にお礼の電話をしておいて」
痩せた女がスマホを切ると、三人の席が急に沈黙した。
女が言ひ出しにくさうに説明を始める。
留守番をしてゐる娘のところへかかりつけ医から電話が入り、一か月も後だつたワクチン接種が、キャンセルが出たので来週月曜に繰り上げできるといふ。
「それはよろしかつたですわね。結果よければすべて良しですわ。オホホ」
と長老格の女が無感動に笑つた。
