ある人を介して知り合つた新派の女形役者の楽屋を訪ねると、演技ををへたばかりの中年男は、浴衣の裾をはだけて、椅子に掛けて憩んでゐた。
「あらあら、人さまにこんな格好をお見せしちやあいけない」
ぼくの顔を見て、彼は居住ひを正しながら、ぼくが持参した花束と白ワインを受け取つた。
浴衣の中にしまはれる脛(すね)には毛が一本もなく、白い陶器のやうにかがやいてゐた。
「どうぞそのままで。ここは舞台ぢやないし、役者さんがどんな格好をされてゐても構はないです」
とぼくは、まづ特別公演にお招きいただいた礼を言ひ、さつきまで彼が舞台で見せた遊女の艶冶な演技を讃へたあと、さう言つた。
「それはだめですよ、私も女形(おやま)の端くれですから、人さまに見せてはいけないものはあるのです」
「見せてはいけないもの、ですか?」
とぼくが興味をしめすと、
「さう、女形が絶対に見せてはいけないもの。たとへば骨――」
それから彼は、にはかに演技論を語りはじめた。新派一筋にあゆんできた男は芝居の話が何より好きらしい。
「骨つて、体の骨ですか」
「さう、女形は骨を見せちやいけないんです。ぢかに骨を見せるのは論外ですけど、演じてゐて骨の存在を感じさせてもいけないの」
彼の説くところによれば、歌舞伎でも新派でも、女形は常になよなよと、体の芯に骨があるのかないのか分からないくらゐ、いつもふにやふにやでゐなければいけない。
なぜかといへば、骨は男性の気概と強靭さの象徴であつて、それはまさに女形の演じる「女」の対極にあるものだからである。
もちろん女形は男が演じるのだから、その中心には太くて丈夫な骨が存在するのはまちがひないのだけれど、それを感じさせた瞬間、観客は芝居の世界から現実に引き戻されてしまふ。
つまり、女形の真髄は骨をいかに隠すかなのだ。
――これを聞いて、ぼくはもしかするとこれは芝居に限らず、人間社会に通じる肝要な処世術かもしれないと思つた。
男女を問はず、「骨ばつた人柄」もあれば「骨のある性格」「一本、骨の通つた主張」を旨とする人間もゐる。
しかし、「骨」は何かの拍子に折れたりすると骨だし、喉に刺されば厄介だし、骨自体は美しいといふより素朴で剣吞な感じが強い。
「骨のある性格」も、剥き出しに見せられると気持ちのいいものではない。
骨はもとより大切なものだが、それを秘して見せない生き方もまた、味のあるものなのかもしれない、などといふ思ひにふけつてゐると、女形役者は最後にかう言つて、笑つた。
「人間、どうせ最後は骨をお箸で拾はれたりして、本人の意思とは関係なく、人さまの目に骨をさらすことになるぢやないですか。その前に自分で見せちやおしまひよ」
