民放テレビの夜の報道番組の司会をしてゐる某女子アナの評判が、わが家ではすこぶる悪い。

 

日ごろテレビに登場するタレントや芸人の好悪を滅多に口にしない家人が、「この人、よく続いてゐるわね」と彼女には手厳しい。

 

30代前半と思はれるこの局アナは、以前は午後の報道バラエティーにスタッフとして出演してゐて、夜の番組の司会を任されるやうになつて数年たつ。

 

娘に聞いても「あんまりいい感じはしないわ」とやはり評価が低い。

 

何が原因かと問ふと、家人も娘も「わざとらしいのよね」と口をそろへる。

 

「何がわざとらしいの?」

 

「番組中に何度も口角を上げて無理してほほ笑むのもさうだし、とくに番組の一等最後に、昔の滝川クリステルの真似みたいに、斜め上を見上げて『それぢやあ』と、バーのママが客を送り出すやうなコケティッシュな作り笑ひをするのがイヤミ」

 

と娘が言へば、家人は

「あれ見てると、こつちがなんとなく疲れちやふ」。

 

さう言はれてみれば、ぼくの目からしてもそんなきらひがなくもない。

 

しかし、「わざとらしい」と評されるのは、女子アナとしての彼女の精いつぱいの演技の部分なのだ。

 

 「もつと自然にやつた方がいい、といふこと?」

 

 「さう。報道番組の司会者にバーのママのテクニックは必要ないの。もつとフツーにしてゐればいいの。そこらへんにゐる女性と同じ、フツーの笑ひ方、口のきき方でいいのよ」

 

 「フツー、か」

 

 「いま、10代のジャリタレだつて、あんな下手な作り笑ひを見せる人、ゐないわよ。もつと自然でなくちやあ」

 

 たしかに最近、テレビで観る芸人やアナウンサーは、10秒に1回笑ひを取らうとするバラエティーでも、出演者が情報量の多寡をきそふ政治、経済の座談会でも、「それでは現場からリポートしてもらひます」の緊迫したニュース報道でも、つとめて「ふだんのままに」見せるのがはやつてゐるやうだ。

 

 実際には、スタジオでも現場でも、フロアマネージャーのキューの合図やカメラの回り出す音がすれば、みんなお澄ましして、ふだんとは異なる顔を見せるのだけれど(第一、みんな顔にドーランを塗つてゐる)、それでもできる限りわざとらしくなく、「ふだんのままに」見える演技をするはうが好まれる。

 

 先の総選挙で、「総理! 総理!」と叫ぶ演技で売つた女性議員が落選した。

 

時代は演技が演技と見破られないやうな、巧緻な演技を歓迎してゐるらしい。

 一週間前、ガス風呂が突然ダウンした。

 

 いつものやうにパネルの「自動」スイッチを押してもパネルは真つ黒なままで何の反応もない。

 

 人間の病には何らかの前兆があるけれど、家の設備といふのはある日、老衰のやうに静かに息を引きとるものらしい。

 

 調べてみたら、このガス風呂の釜は18年間も使つてゐた。東京ガスによればガス釜は通常、耐用年数が10年余で、18年も使へたのは幸運といふしかないと笑はれた。

 

 この夏のをはりには、寝室のエアコンの室内機がこれまた急に動かなくなつた。

 

 室外機にトカゲが侵入して通電部分に横たはり、黒焦げになつてショートさせたのは5年ほど前だが、寝室の室内機は何年前に買ひ替へたか記憶がないから優に15年は越すだらう。

 

 家の設備だけではない。

 

 ことしは春には庭の木斛(もつこく)が枯れた。渋い茶褐色の新芽が出ないのを案じてゐたら、上の方から古い枝葉が徐々に散りはじめた。

 

 明治生まれの父の代から庭の西に君臨する大木で、子どものころ、これに登つて塀越しに隣りの家の内部をながめて得意になつてゐた。

 

 やがて木斛の枯死した太い幹の外皮に、冬、踵(かかと)にできる皸(あかぎれ)みたいな割れ目が網状に走り、見るたびに一枚二枚と剥がれ落ちてゐる。

 

 毎年季節になると友人をお呼びして花宴をひらいた枝垂れ桜も、昨秋、芝の上に張り出した大枝が自重に耐へ切れなくなり、つひに途中から折れた。

 

 門懸かりの松も古木の黐(もち)も、目に見えて葉に元気がなくなつた。百年もたつと庭木も寿命なのか。

 

 行きつけの歯医者が急に看板を下ろした。

 

 新しい患者が来ると、口の中を一瞥して「ああ、キレイで~す。大丈夫。すぐ治りま~す」と大声で激励するのが名物の60代の小太りの院長は、30年ほど前に先代の娘の婿として跡を継ぎ、立地の良さもあつてそこそこ賑はつてゐた。

 

 しかし、どうやらコロナ禍の影響もあつてこのところ患者が急減、さらに、辞めた女性歯科医の補充が思ふやうにいかなくてたうとう廃業に追ひ込まれたらしい。

 

 町に歯医者はいつぱいある。こんど歯の具合が悪くなつたら新たな歯科医をさがせばいいだけのことだけれど、相手の人柄も腕も前歴もわからない医者の前で、老人がひとり、治療台に腰をおろして無防備に口をひらかなければならないのは憂鬱である。

 

 物みな時間にはあらがへない。時ふればみな疲れる。

 

 ぼくもそろそろ心の準備をする必要があるのかもしれないなどと、たまには殊勝なことを考へる。

ある人を介して知り合つた新派の女形役者の楽屋を訪ねると、演技ををへたばかりの中年男は、浴衣の裾をはだけて、椅子に掛けて憩んでゐた。

 

 「あらあら、人さまにこんな格好をお見せしちやあいけない」

 

 ぼくの顔を見て、彼は居住ひを正しながら、ぼくが持参した花束と白ワインを受け取つた。

 

 浴衣の中にしまはれる脛(すね)には毛が一本もなく、白い陶器のやうにかがやいてゐた。

 

 「どうぞそのままで。ここは舞台ぢやないし、役者さんがどんな格好をされてゐても構はないです」

 とぼくは、まづ特別公演にお招きいただいた礼を言ひ、さつきまで彼が舞台で見せた遊女の艶冶な演技を讃へたあと、さう言つた。

 

 「それはだめですよ、私も女形(おやま)の端くれですから、人さまに見せてはいけないものはあるのです」

 

 「見せてはいけないもの、ですか?」

 とぼくが興味をしめすと、

 「さう、女形が絶対に見せてはいけないもの。たとへば骨――」

 

 それから彼は、にはかに演技論を語りはじめた。新派一筋にあゆんできた男は芝居の話が何より好きらしい。

 

 「骨つて、体の骨ですか」

 

 「さう、女形は骨を見せちやいけないんです。ぢかに骨を見せるのは論外ですけど、演じてゐて骨の存在を感じさせてもいけないの」

 

 彼の説くところによれば、歌舞伎でも新派でも、女形は常になよなよと、体の芯に骨があるのかないのか分からないくらゐ、いつもふにやふにやでゐなければいけない。

 

 なぜかといへば、骨は男性の気概と強靭さの象徴であつて、それはまさに女形の演じる「女」の対極にあるものだからである。

 

 もちろん女形は男が演じるのだから、その中心には太くて丈夫な骨が存在するのはまちがひないのだけれど、それを感じさせた瞬間、観客は芝居の世界から現実に引き戻されてしまふ。

 

 つまり、女形の真髄は骨をいかに隠すかなのだ。

 

 ――これを聞いて、ぼくはもしかするとこれは芝居に限らず、人間社会に通じる肝要な処世術かもしれないと思つた。

 

 男女を問はず、「骨ばつた人柄」もあれば「骨のある性格」「一本、骨の通つた主張」を旨とする人間もゐる。

 

 しかし、「骨」は何かの拍子に折れたりすると骨だし、喉に刺されば厄介だし、骨自体は美しいといふより素朴で剣吞な感じが強い。

 

 「骨のある性格」も、剥き出しに見せられると気持ちのいいものではない。

 

 骨はもとより大切なものだが、それを秘して見せない生き方もまた、味のあるものなのかもしれない、などといふ思ひにふけつてゐると、女形役者は最後にかう言つて、笑つた。

 

 「人間、どうせ最後は骨をお箸で拾はれたりして、本人の意思とは関係なく、人さまの目に骨をさらすことになるぢやないですか。その前に自分で見せちやおしまひよ」