〇大いにウソをつくべし

〇約束を守るなかれ

〇人の不幸を喜ぶべし

〇スープは音を立てて吸ふべし

〇友人を裏切るべし

〇女には暴力を用ゐるべし

 

 ――世間の常識に刃向かつて、いはゆる「非常識」を実践する大切さを三十項目にもにわたり、具体的に、警抜な発想で、ややペダンチックに、しかし理路整然と説いたのは、かの三島由紀夫である(1959年中央公論社刊「不道徳教育講座」)。

 

 東京・市ヶ谷台の自衛隊駐屯地で自刃して生涯を終へた作家は、もとより「非常識」の実践者だつたといへるが、逆に見れば、世の「常識」といふものがそれだけ凄絶にこの作家の感性の前に聳え立つてゐたといふことかもしれない。

 

 たとへば「スープは音を立てて吸ふべし」の章ではかう言ふ。

 

 一般にレストランでスープを吸ふとき、音を立てないマナーは、自分は社会的なオオカミではなく、をとなしいヒツジであることの身分証明であり、反対に人前で「音を立ててスープを吸ふ」ことは、自分はヒツジではないといふ「不断のつぶやき」であり、それは社会に対する勇気、抵抗、いやがらせの一種、すなはち「人間に欠くべからざるもののささやかな見本」なのである。

 

 これを書いた当時の三島氏の倍以上も生きた人間からみると、ぼくはまるきり「常識」に凭(もた)れかかつた仕事をしてきた。

 

 新聞といふのは、謂(い)はば「スープは音を立てないで飲め」と叫ぶ方の代表だ。

 

 永田町で政界をながめてきて、常に「音を立てて飲む」人間の行動を難詰する記事を書いた。

 自民党の派閥抗争華やかなりし時代で、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘ら「三角大福中」がそれぞれ群雄割拠し、構成員数、資金力、ポストをめぐつて暗闘をくりかへした。

 

 今でもぼくの本音は変はらないのだけれど、派閥抗争こそが日本を担ふ自民党の生命線であり、エネルギー源である。

 

 しかし、新聞はさうは書けない。三島氏なら「派閥抗争はどんどんやるべし」と書いたことだらうが、ぼくは「いつまで続く国民不在の党内政争」などと口当たりのいい批判記事を書いた。

 

 新聞はふつうの記事も社説も、世の「常識」といふ“きれいごと”に縛られる。

 

 たとへさう思つても、「スープは音を立てて吸ふべし」とは書けない。

 

 マスコミは常に陳腐で退屈な常識を後ろ盾にしてゐる。

 

 新聞とかテレビの論調が常に陳腐で退屈なのはそのせゐだ。

 

 魅力的な真理は非常識の側にある。

 

 

街をあるいてゐて、ふと杉の木目の美しい外構へに気を惹かれ、初めての寿司屋に入る。

 

寿司屋はメニューを置いてゐないところもあるし、値段もピンキリだから、初めての店は多少緊張する。

 

入口に近いカウンターの端に腰かけ、目の前の透明のケースに並んだネタをながめる。

 

お銚子を注文し、お絞りを使つて一呼吸すると、カウンターの中の若い板さんと目が合ふ。

 

「さあ、何から行きませうか」と相手の目がネタの選択をぼくに迫つてゐる。

 

寿司屋で、この瞬間がいちばん嫌いだ。

 

行きつけの店ならかういふことはない。ぼくが何から注文するかも、最初の一貫は酒に口をつけた後か先かも、店が心得てゐる。

 

初めての客だと、板さんはごく短い時間に客を品定めすると同時に、その客がどんな手順でコースを終へるのか感知しなければならないから、向うも緊張するのは分かる。

 

それにしても、けふのネタはこんなにある、さあ、よりどりみどりだ、とケースの中を誇らしげに見せておいて、すぐに何か選べといふのは、いささか店側の傲慢ではないか。

 

初めての店だから、こちら側には何の情報もない。

 

その店がどの地方の魚を得意とし、魚市場のどんな筋と昵懇か、けさ入荷した中では何が旨いか、鮮度はどうかーー何も分からない状況では最初のネタを注文しやうがない。

 

もうずいぶん前のことになるけれど、日本橋・人形町に九十歳、つまり卒寿になる女が一人で経営する寿司屋があつた。

 

「女は手が脂つぽいので寿司を握つちやいけないなんて言はれるけど、私くらゐの歳になると、脂なんてどこにもないからへつちやら」

 

旦那が六十代で亡くなつた後を継ぎ、毎日早起きしてきちんと化粧し、正絹のきものに季節の帯を締めて、地下鉄を数駅乗つて築地へネタの仕入れに通ふ。

 

気心の知れた贔屓客だけが相手の殿様商売で、店のケースの中は、店独自の味付けが問はれる二品、アナゴとコハダのほか、彼女が吟味して仕入れてきたクロマグロなど「その日の逸品」3種か4種だけである。

 

よりどりみどりではない。客は何も注文しなくていい。

 

老女と無駄話をしてゐるうちに、カウンターに差し出されるのがこれまたどれもこれも、一度口にしたら忘れられない尤物(ゆうぶつ)の味。

 

やはり寿司ネタは客が選ぶものではなく、寿司のことは寿司屋に任せるに限るといふ気持ちになる。

 

夜遅く、客がゐなくなると、彼女は左右の手擦りが照りかがやいた籐の椅子に腰をおろし、旦那譲りの包丁を黙々と研ぎ始める。

 

とりわけ上客でもないぼくが、なぜかその神がかつた秘儀のやうな静寂の場にゐることを許された。

 

老女とぼくしかゐない店で、包丁の銀色の刃が、ときをり仄かな明かりを浴びながら、砥石の上を滑るやうに往復する「シー、シー」といふ、わけなくおそろしく玄妙な音がひびく。

 

食べる物、着る物、使ふ物……生活のなかで迫られるいろいろな選択は、もしかすると自分で迷つたり悩んだりするよりも、その道の確かな目利きに二,三品選んでもらふ方が、概して失敗がないし、なにより楽でいいといふぼくの狡猾な世知は、彼女の影響が大きい。

二階の書斎の窓にかかるカヘデの枝の先端部が、一か所激しく揺れた。

 

釣りのとき、とんがつた縞模様のウキが突如、水中の小魚の隠微なアタリに感応して神経質に上下動するやうに、枝先の、赤い新芽で盛りあがつたところだけが不自然に痙攣する。

 

アタリだ。そこに何かがゐるシルシだ。

 

耳を澄ます。数秒もすると、どこか天空から聴こえてくる管楽器の幽玄な音色のやうな、「ホー、ホケキョ」が窓硝子を透してとどく。

 

毎年、わが家の春の目覚まし時計であり風物詩であつたウグイスの訪問が、ここ数年とだえてゐた。

 

鳥の世界にもコロナの緊急事態で外出禁止令が出たか、あるいはわが家を贔屓にしてくれたウグイスの一族が絶滅したかと諦めていた。

 

四月初旬の昼下がり、ふいにウグイスの啼き声が庭に戻つた。

 

かつては三月中旬が「初啼き」の定番だつたから少々遅いし、午後に聴くのもめづらしく、それだけに新鮮だつた。

 

最初は啼き方が完成されてゐなくて、「ホー」や「キー」の助走だけで終つたり、「ケキョ、ケキョ」を繰り返すだけだつたりしたが、一週間もすると一人前にひとふし啼けるやうになつた。

 

何かが旧に復するといふのは、人にやすらぎを与へる。

 

コロナ禍からの復活の兆しが身辺にあれこれ粒だつてきた。

 

現役のころから四十年間、週に一度は通つてゐた四谷荒木町の「藤寿司」が、歳には勝てず二年前に店を閉めたオヤヂを継いで、四十代の息子が同じ看板「藤寿司」を掲げて近所のマンションの一階で開店するといふ案内がメールで来た。

 

ときどきここへ連れて行つてゐた娘に知らせると、たまたま息子と同い年の娘はすぐに電話して、「近々、父と行きます」と約束したといふ。

 

酒は提供できない、営業は夜九時まで、などといふ感染予防の制約から、お寿司屋さんもやつと落ち着きを取り戻したらしい。

 

「ゴールデンウイーク明けにでも、例の会を復活させませうか」

とメールしてきたのは、もう五十年近くになる付き合ひの飲み仲間である。

 

「五人の会」と名づけ、毎月一回、新聞記者の先輩後輩交代で、日時を打ち合はせ、店を選び、通知する。ここ二年ほど休んでゐた。みんな傘寿に近い。

 

「疫病は大丈夫かな。東京都の感染者はあまり減らないみたいだけど」

と返信する。

 

するとたちまち、

「そんなこと言つてゐたら、飲み会なんて永久にやれないです。やれるときにやらないと、我々には時間がないのですから」

と後輩に叱られた。

 

旧に復すれば復したで、訪れるのはやすらぎばかりではなささうだ。