街をあるいてゐて、ふと杉の木目の美しい外構へに気を惹かれ、初めての寿司屋に入る。

 

寿司屋はメニューを置いてゐないところもあるし、値段もピンキリだから、初めての店は多少緊張する。

 

入口に近いカウンターの端に腰かけ、目の前の透明のケースに並んだネタをながめる。

 

お銚子を注文し、お絞りを使つて一呼吸すると、カウンターの中の若い板さんと目が合ふ。

 

「さあ、何から行きませうか」と相手の目がネタの選択をぼくに迫つてゐる。

 

寿司屋で、この瞬間がいちばん嫌いだ。

 

行きつけの店ならかういふことはない。ぼくが何から注文するかも、最初の一貫は酒に口をつけた後か先かも、店が心得てゐる。

 

初めての客だと、板さんはごく短い時間に客を品定めすると同時に、その客がどんな手順でコースを終へるのか感知しなければならないから、向うも緊張するのは分かる。

 

それにしても、けふのネタはこんなにある、さあ、よりどりみどりだ、とケースの中を誇らしげに見せておいて、すぐに何か選べといふのは、いささか店側の傲慢ではないか。

 

初めての店だから、こちら側には何の情報もない。

 

その店がどの地方の魚を得意とし、魚市場のどんな筋と昵懇か、けさ入荷した中では何が旨いか、鮮度はどうかーー何も分からない状況では最初のネタを注文しやうがない。

 

もうずいぶん前のことになるけれど、日本橋・人形町に九十歳、つまり卒寿になる女が一人で経営する寿司屋があつた。

 

「女は手が脂つぽいので寿司を握つちやいけないなんて言はれるけど、私くらゐの歳になると、脂なんてどこにもないからへつちやら」

 

旦那が六十代で亡くなつた後を継ぎ、毎日早起きしてきちんと化粧し、正絹のきものに季節の帯を締めて、地下鉄を数駅乗つて築地へネタの仕入れに通ふ。

 

気心の知れた贔屓客だけが相手の殿様商売で、店のケースの中は、店独自の味付けが問はれる二品、アナゴとコハダのほか、彼女が吟味して仕入れてきたクロマグロなど「その日の逸品」3種か4種だけである。

 

よりどりみどりではない。客は何も注文しなくていい。

 

老女と無駄話をしてゐるうちに、カウンターに差し出されるのがこれまたどれもこれも、一度口にしたら忘れられない尤物(ゆうぶつ)の味。

 

やはり寿司ネタは客が選ぶものではなく、寿司のことは寿司屋に任せるに限るといふ気持ちになる。

 

夜遅く、客がゐなくなると、彼女は左右の手擦りが照りかがやいた籐の椅子に腰をおろし、旦那譲りの包丁を黙々と研ぎ始める。

 

とりわけ上客でもないぼくが、なぜかその神がかつた秘儀のやうな静寂の場にゐることを許された。

 

老女とぼくしかゐない店で、包丁の銀色の刃が、ときをり仄かな明かりを浴びながら、砥石の上を滑るやうに往復する「シー、シー」といふ、わけなくおそろしく玄妙な音がひびく。

 

食べる物、着る物、使ふ物……生活のなかで迫られるいろいろな選択は、もしかすると自分で迷つたり悩んだりするよりも、その道の確かな目利きに二,三品選んでもらふ方が、概して失敗がないし、なにより楽でいいといふぼくの狡猾な世知は、彼女の影響が大きい。