サラリーマンのころ、夏休みが一週間とれると、信州・小諸から車で蓼科方向へ1時間近く山道を入つた望月町(現佐久市)春日で家族と過ごした。
大学教授の義兄が持つてゐた別荘(見方によれば山小屋)を借りた。
滞在中の食料品の買ひ入れは、小諸駅に近いスーパーを利用した。
旧国鉄の線路の反対側には懐古園、その先には千曲川が流れてゐる。家人が買ひ物をしてゐるあひだ、ぼくは国道のガソリンスタンドまで行つて満タンにしてくる。
「このチーズ、カビてるぞ」
山小屋に到着して、ワインでひと休みしようとスーパーのレジ袋をあけたら、家人が買つてきたチーズが無惨にカビてゐた。
日ごろつまみにするカマンベールの乳白色の中に、上から横から、まるでわざわざカビ菌を織り込んだやうに、青い、奇異な寄生虫のやうな形状のものが繁殖、浸透してゐる。
「これは食べられない。田舎だからつて、カビたチーズを平気で店に出すなんてひどいな。あす軽井沢へ遊びに行く途中に小諸に寄るから、文句言つて返してきてよ」
「あら、気がつかなかつたけど、これは気持ち悪いわね。こんなチーズ見たことない」
と家人も憤慨してゐる。
翌日、スーパーの駐車場で待つてゐると、チーズを返しに行つた家人が真つ赤な顔をして戻つて来た。
「ああ、大恥をかいちやつた。このチーズはかういふものなんですつて」
「かういふもの?」
「売り場の女の子は『あらほんと、カビてますね』と返品に応じてくれようとしたの。そしたら奥から責任者らしい男の人が出てきて、『これはブルーチーズと言つて、このカビが売り物なんです』つて言はれちやつた。恥づかしかつた」
今から50年も昔の話である。
ワインさへ置いてある酒屋が稀な時代で、チーズといへば雪印や森永の、紙箱入りのプロセスチーズが普通だつた。ナチュラルチーズを置いてある店がほとんどなかつた。
今でこそチーズは沢庵並みに普及、チーズの専門店も増えて、やれゴルゴンゾーラだのロックフォールだのスティルトンだのと、ブルーチーズのコーナーで選択に迷ふ。
ワイン友だちの会で「チーズの盛り合はせ」の皿が出てくると、カマンベールより先にブルーチーズがなくなる。
その魅力は要するにカビの旨みだ。
日ごろ私たちの生活のなかで、カビは大敵。パンや麺類、衣料品、家具、革製品など、カビ対策が欠かせない。カビが原因で剥げたり変色したりして処分しなければならなくなる。
カビが歓迎されるのはチーズくらゐか。
しかし待てよ、と考へ直す。
ぼくも生まれて80年もたつのだから、そろそろ人間として好ましいカビが熟成して、ゴルゴンゾーラ程度の味はひが出てきてもいいのではないか。
時にドルチェの湿潤さ、時にピカンテの精妙な塩味をなんて、贅沢は申しませんけど。
