テレビのバラエティー番組を観てゐて、売れつ子の芸人が言つたジョークが聴き取れなかった。

 

  「今、何て言つた?」

 

 脇で観てゐた老妻に問ふと、やはりちやんとは聴けてゐなかつたらしい。

 

 それでも一応お愛想で笑つてゐる。

 

 テレビに出る芸人やタレントがみんな早口になつたと感じるのは、こちらの耳が歳をとつたせゐばかりではないだらう。

 

 聞きそびれても支障はないし、ジョークの最後の一言が分からなくても、笑へないだけで特に問題はない。

 

 芸人やタレントだけではない。テレビ局のアナウンサーや舞台俳優はさすがに発声の基本ができてゐるから聴き難いことはないけれど、一緒に出演してゐる評論家、教授、一般女性などまで、近ごろは芸人の真似をして早口でしゃべる人が増えた。

 

 早口がカッコイイと勘違ひしてゐる。

 

 人のおしやべりといふのは一体、どのくらゐの速さが聴き取りやすいのか。

 

 現役のころ、系列テレビ局の午後のニュースに引つぱり出されてリポーター役をすることになり、局の中年の女子アナから指導を受けたことがある。

 

 そのとき教へられた「理想的なしやべりのスピード」は、1分間に300字程度といふことだつた。

 

 これはどのくらゐの速さか。

 

 私たちが400字詰めの原稿用紙に何か書くとき、改行や会話もあるので、用紙1枚に通常300~350字程度になる。

 

 つまり、原稿用紙1枚ほどを1分間かけて読み上げる速さが、聴く側からすると理解しやすいスピードのやうだ。

 

 アナウンサーにもいろいろ種類があつて、スポーツ中継のアナは1分間に800字程度しやべるといふ。

 

 これが人間が普通に聴きとれる限界のやうだから、最近の芸人やタレントはプロのスポーツ中継より速い口調でしやべつてゐることになる。

 

 かの角さん、田中角栄総理大臣が国会で本会議の質疑中、にはかに早口になることがあつた。

 

 最初の与党議員への答弁を終へ、共産党など野党議員の質問に答へる場面になると、明らかに口調が変はつた。

 

 与党への懇篤丁寧な、ときには発言を何度も繰り返したりしながらの、噛んで含めるやうな答弁から一転、野党に対しては官僚が書いた、味も素つ気もない、通り一遍の答弁書を、角さん一流の恐るべき早口で読み上げる。

 

 そこには相手に対する敬意と、少しでも深く理解してもらはうとする熱意がまるで欠けてゐた。

 

 早口過ぎて、記者席のこちらはメモが追ひつかなかつた。

 

 言葉を大切にし、吟味し、選択しようとする気持ちがあれば、人は軽佻浮薄な早口では語れない。

 

 みんなもつとゆつくりしやべらうではないか。

 

文化庁が東京・霞が関から京都に移転した。

 

40代のころ、文部省記者倶楽部で仕事をしたことがあるが、文化庁が京都に行つてしまつてもそのこと自体にとくに感慨はない。

 

びつくりしたのは、移転の記念式典にあらはれた文化庁長官、都倉俊一(とくらしゅんいち)さんの姿である。

 

都倉俊一さんといへば、ピンクレディーの「UFO」や山本リンダ「どうにもとまらない」、ペトロ&カプリシャス「五番街のマリー」など多くのヒット曲を生んだ、昭和の時代の「新進気鋭」の作曲家であり、プライベートでは女優の大信田礼子さんと結婚したり離婚したりと、その洒落た容姿で浮名を流した「稀代のプレイボーイ」の印象が強烈だ。

 

ところが、記念式典に登場した都倉さんは、仕立てのいいスーツを着た「フツーの老人」といふほかはなかつた。

 

貫禄とか風格といふ見方もあるだらうけれど、ひとことで言へばーー老けた。

 

70歳代も半ばになるのだからむりもないが、そこには「新進気鋭」「稀代のプレイボーイ」の面影はまるでない。

 

それを見て、ぼくが何を感じたかといへば、実は妙にホッとしたのである。

 

人間の上に閲(けみ)する歳月といふのは、これほどまでに平等で公平なのかといふ、一種の安堵感とでもいはうか。

 

例の世界的疫病の影響で、ここ数年テレビ画面から遠ざかつてゐたタレントや歌手が、最近、ドラマや歌番組にひさびさ顔を見せるやうになつた。

 

両頬の下にどつぷりと肉をたるませて、整形美容に失敗したかのやうな女がゐるかと思へば、逆に頬骨が無惨にこけて、長い懲役刑から出所してきたかのやうなサスペンスドラマの刑事役がゐる。

 

「あら、この人、ちよつと見てない間に別人みたい」

 

テレビを観てゐた家人が画面を指さして気の毒さうに言ふ。

 

しかし、本当に気の毒と感じてゐるかどうか油断がならない。

 

結構ぼくが都倉俊一さんを見て感じたのと同じやうに、内心ホッとしてゐるのかもしれない。

 

先日、新劇女優の奈良岡朋子さん(93歳)の死が伝へられた。

 

名の知れた人の訃報は新聞の第二社会面かテレビニュースの最後が多い。

 

予期しないニュースだけに目が行くが、その年齢や死因を知ると「やむを得ないか」と納得する。

 

人間はいづれみんな死ぬ。これほどの平等、公平なことは他にない。

 

ときに「この人、意外に早死にだつたなあ」と感じることがあるものの、中にはしばらく名前を聞かないと思つたらまだ生きてゐたのか、と思ふやうな人がゐないでもない。

 

有名人の訃報もまた、人をホッとさせる。私たちは「究極の平等・公平」に接するとなぜか癒される。

 ドアを排して店に入り、最初に目についたのが奥のテーブルにゐる夫婦とおぼしき老人二人だつた。

 

 女性は普通の服装で、まして入口に背を向けてゐるので目立たなかつたが、その横にゐる八十過ぎの男性は一見して異様な風体である。

 

 禿頭(とくとう)を誇らしく光らせ、渋茶のきものに白つぽい帯を締めて、まばゆい銀色の羽織をゆつたりと掛けてゐる。

 

 目は入口の方に向いてゐるものの、そちらに関心がないのは明らかで、ひたすら気むずかしい顔をして携帯電話の相手と声高に話をしてゐる。

 

 ボーイに案内されるままに、ぼくは老夫婦の隣りの席に着いた。

 

 先輩と待ち合はせだつたので、テーブルの奧の席を空けて手前の椅子にかけた。

 

 「――それでだな、最終的には向かふは5億払ふと言つてるらしいが、もう1億くらゐ入つたのか」

 

 「その同意書の偽造の件だけど、完全なんだらうな」

 

 「だから言つてるだろ、今までにいくら手元に入つたのか、だよ。1億は入つたのか」

 

 どうやら不動産売買の話をしてゐるらしい。

 

 声が大きいので奥さんが周りを気にしてゐる。どうみても「ヘンな老人」である。

 

 そこでぼくは、先輩から指定されて初めて入つたその店内をあらためて検分した。

 

 新宿から西へ数駅のところにある若者の街の、狭隘な路地奥にある、レストランと呼ぶべきかカフェと呼ぶべきか分からないフランス語名の店内は、まだ黄昏ともいへない時間帯なのにほとんどのテーブルが埋まつてゐた。

 

 客たちをよく見ると、ぼくの極めて凡庸な、常識に毒された目からすると、そこにゐるのは「ヘンな人」ばかりだつた。

 

 ピンクの上下に黒マスクをつけ、白ふちのサンブラスをかけた痩身の女性が、破れたジーンズを履いて毛むくじやらの胸に長い金属を垂らした青年と向ひ合つてゐる。

 

 思はずこちらが視線を外したのは、豊溢の胸をだらしなくのぞかせた老女、その横にはひとり文庫本を読みふける全身黒づくめの若者……。

 

 そんな中に闖入したぼくはといへば、記者時代、あまり着る物に頓着せず、毎日ドブネズミ・ルックだつた先輩に敬意を表して、その日は古いダークスーツにグレーのタイを締めてゐた。

 

 ふと店の隅に陣どつた年配女性4人に目が行つた。

 

 みんな普段着で、ファミレスで井戸端会議をしてゐるおばさんたちといふ風情ーーいはばごく「フツーの人」たちなのだが、この店ではそちらがむしろ「ヘンな人」に映る。

 

 そこでやつと気がついた。

 

 この店にゐる客をぼくは勝手に「ヘンな人」たちと思ってゐたが、ここでは逆転して、「ヘンな人」は間違ひなくぼくの方だつた。