コロナ騒動もあつて暫く会つてゐない元同僚の政治記者に電話した。
まさに春隣りの陽気の午後で、とくに用件があつたわけではなく、要するに暇つぶしの電話だ。
おたがひ80歳を超えて、からうじて健康であることを確認し合つたあと、退屈な昨今の政局、現政権の命運とポスト岸田など、20年も前の仕事を懐かしむやうな話にうつつを抜かした。
会話が一段落したので、ぼくは外交辞令のやうに言つた。
「――久しぶりに一杯やらうか」
電話をかけたのはこれが目的ではなかつたが、ぼくが最後にそれを口にしたので彼は誤解したらしい。
それも尤もで、現役時代、彼と真面目な話をするとき酒の場以外はまれだつた。
「お酒? えつ、まだやつてるの? 元気だねえ。俺は酒はとつくに卒業」
深くは尋ねなかつたが、ぼくに対して「元気だねえ」と言ふところをみると、胃腸か肝臓でも患つてドクターストップが掛かつてゐるのかもしれない。
電話はそこで終はつた。
ぼくは「卒業」といふ言葉が嫌ひである。
「酒を卒業」はいふまでもなく、「夜の街を卒業」「女を卒業」「競馬を卒業」「テレビを卒」……などと人から聞くと、「卒業」といふことばに漂ふ独善にして尊大、独り善がりの感じが嫌ひだ。
「私はあれはもう卒業したけど、あなたはまだなの」といふニュアンスを感じる。
そこには、「卒業する前の状態」がいかにくだらなくて、下劣で罪深く、一刻も早く「そこから逃げ出すべきもの」といふやうな、あからさまな侮蔑と批判が含まれてゐる。
「私はそこを脱却して、一歩次のステージに上りました。あなたも早くこちらにいらつしやい」といふ余計なお節介を感じる。
そればかりか、「卒業」前の、自分の過去への否定も感じる。
さういへば、ぼくは何事も「卒業」するのが下手で、いつまでも旧態依然、同じことを続けてゐる。
友人は20代のころの同人雑誌時代の仲間や、50年前の予備校時代の同級生、自民党記者倶楽部で一緒に仕事をした通信社記者などと、いまでも時々飲んだり、夫婦での食事会をつづけてゐる。
よく行くバーも、たまに注文するワイシャツ屋も、信頼するファッション・ブランドも、30代から変はらない。
車もワーゲンに25年、ボルボに15年乗つた。
愛用のボールペンは記者時代から銀のダンヒル社製を半世紀使ひつづけてゐる。
臆病ゆゑに次の何かに乗り移れない。現状を変更するのが怖いだけかもしれない。
