10年ほど使つたスマホがいよいよ悲劇的に怪しくなつたので、娘に勧められるままに近くのドコモショップへ行つた。
入社1年目といふ女性スタッフと、多少スマホに習熟してゐる娘とが勝手に合意したのに任せて、「4月新発売」といふ最新機種を購入した。
この10年間のスマホ技術の進歩のせゐか、それとも80翁の頭脳のせゐか分からないけれど、ペットでもあやすやうに、指先で上下左右にちよこちよことやる操作に慣れないながら、色感けざやかな画面の美しさと、機械としてのフットワークの良さにうつとりしてゐるあひだに、いつの間にかぼくが発信するメールは従来のパソコン経由よりスマホ経由が多くなつてゐた。
「もうパソコンはやめたの?」
親しい友人からそんな電話をもらつて、自分が徐々にスマホ依存に傾いてゐることに初めて気づいた。
さうではない。長い文章は発信も受信も相変わらずパソコンで、スマホに依存してゐるといふのは発信数の話だ。
「もう昔のやうに長い文章を打つのは億劫?」
さうではない。まさか小説やエッセーをスマホでは打てないから、スマホはあくまで簡便な通信用である。
しかし、友人にさう言はれてみると、近ごろのブログやツイッターなど、いはゆるSNSにあふれる世間の文章はみんな短い。
改行して2行にわたる文章は珍しい。どれもこれも箸の先でブツブツと途切れる、うまい蕎麦のやうな文章ばかりになつてゐる。
小学校の作文の時間に、先生は「文章は簡潔に短く」と教へてくれたが、今ごろみんなそれを実践してゐる。
ぼくはもともと長い文章が好きだ。長い文章にこそ妙味や情趣があり、「その人の文章」があらはれる。
長い文章を書けるやうになることが文章道の上達だと信じてきた。
世に名文家と言はれる作家は、長い文章を巧みに操る人が多かつた。一例を引かう。
刺身が出てくると(三つ盛り合はせたうち、鯛がぷりぷりと弾力があつてまことによろしく、イカもまたすばらしい)、鯛とイカとをちよいと褒めてから、嬉しさうに鮪をみて、関西ではこれをコシビといふ、マグロの古名シビが現代に残つてゐるのはこの言葉一つだけぢやなからうか、などと感慨に耽つて、それからおもむろにそのコシビを食べるのだ。
(丸谷才一「食通知つたかぶり」)
プールを隔てて見る慶子の、黒白の縦縞の水着に包まれた体は、五十歳に近いと言はれても信じがたい、豊麗を極めた姿で、幼いころからの洋風の生活が、脚の形といひ長さといひ、日本人離れのした釣り合ひにして、姿勢がいかにも好いから、何か梨枝に話してゐる横向きの体にも、彫刻的な曲線が威厳をもつて流れ、胸と尻との突起の均整にも、円やかな肉体の統治が見られた。
(三島由紀夫「暁の寺」)
この二つの文章とも、描写、リズム、言はんとしてゐること、語彙など、非の打ちどころのない名文といふしかないが、いづれも一つの文章が150字を優に越える。
400字詰め原稿用紙の半分に近い長いセンテンスである。
気ぜはしい現代社会で、こんな文章でメールをやり取りしたら日が暮れる。
しかし、そんなことを気にしないところに文化があるのではないか。
SNSのやうな短文ですべてが済むと思つたら寂しい。
短文しか横行しない社会の無味乾燥を怖れる、なんて言つたら、やはり老人趣味かしら。
