「そんなヘンな声をあげるの止しなさい!」

 

子どものころ、背伸びをした拍子に大声で「アーア、アッ」と叫ぶと、母親に叱られた。

 

「そんな声を出したら、あの家には何がゐるのだらうつて思はれるでしよ」

 

父親が警察署長として各地を転々としてゐたころ、どこでも「署長官舎」住まひを余儀なくされた。

 

「署長サン」といふのは私生活も謹厳実直、家庭内から何かをかしな動物の鳴き声みたいな声が立つてはいけなかつたのか、

 

母親はいつも周囲の目を気にしてゐた。

 

土地の有力者などが「御歳暮」「御中元」「年始挨拶」の品を持つて来ると、門まで見送りに出た母親は、隣近所の誰かに見られてゐなかつたか左右を確認してから門を閉めた。

 

「署長官舎」の住人は、少しでも周囲から浮いたり目立ったりしてはいけなかつた。

 

姉たちが自転車一台買ふにも、赤とか黄色とかはダメで、ごくフツーの、人目に立たない色を選ばなければならなかつた。

 

ある夏、ぼくより十三歳も上の娘盛りの姉が、当時にしては最新モードの、背中を大きく露出したシャツを得々と買つて帰宅すると、母親は自分も一緒に店に戻つて地味なカラーとデザインの一着に交換させた。

 

「よその町で着るならあれでもいいけど、官舎を出入りする女の子があんなのを着てゐたら何と言はれるか、よく考へなさい!」

 

幼時からそんな生活を強いられてきた反動か、ぼくは家庭を持つてからは家人にも子供たちにも、小うるさい制約や羇絆は一切課さなかつた。

 

着る物なんか赤でも青でも着たいものを着ればいい、食べたいものを食べればいい、人にどう思はれやうとしたい事をすればいい。

 

その結果、わが家はどうなつたか。

 

毎日、部屋の明かりが消えるのは午前2時過ぎ、雨戸が朝ひらくのは午前9時、庭で40人ほどお呼びして騒々しい花宴もやれば、長男が少々度が過ぎる音量でジャズを聴いても「やめなさい」とは言はない。

 

もし母親が生きてゐたら「あの家はみんな気が狂つてゐる」と噂されるのを心配したに違ひない。

 

家庭ばかりではない。

 

ぼく自身がかの「フーテンの寅さん」――自由気ままに生きる姿に近くなつた。

 

夜に物を作り、朝に販売するといふ仕事だつたために昼夜は逆転、刑事事件でも起こせばライバル紙の朝日や毎日に大々的に叩かれるから注意しなければならないけれど、私生活では昼も夜も酒を(少々)飲んだり、取材対象は厳しく批判しても自分は割合批判されないといふふしぎな環境だつたから、財布と時間が許せば不羈奔放な生活に傾いた。

 

最近、ぼくが昼下がりにワインを飲みに行かうとすると、家人が

 

「若い時からやりたいやうに生きてきたのだから、80歳を過ぎたら歳相応に大人しくしてもいいんじやゃないの。体のことも考へて」

 

と忠告する。

 

その口ぶりからふと思ひ出すのは。子どものころの母親の説教である。

 

ぼくも母親のやうにいつも周囲を気にして、周りの目におどおどしながら生きてきたら、わが人生、どう変はつてゐただらうか。

 

そこにはまた別の味はひがあつたかもしれないな、などと夢想する。。

 昨秋、行きつけのワイン屋の前庭にあるオリーヴの木に幾つか実が生つた。

 

 親しいボーイに懇願して、その実でカクテルのマティーニを作つてもらつた。

 

 マティーニはジンにベルモットを少量加へてステア(掻き回す)するだけ。

 

 ベルモットの量を抑へたドライマティーニには、三角形のグラスの斜面に緑色のオリーヴの実を落とす。

 

 この実は通常、市販の缶詰か瓶詰を使ふから、自分のところで収穫した実とあらば「自家製の絶品カクテル」である。

 

 以前から前庭にオリーヴの木があるのを確認してゐて、夏に白い花が咲いたので、行くたびに実を結ぶか監視してゐた。

 

 味はといへば、市販の酢漬けのはうがジンの峻厳な味はひに合ふ感じがしなくもないが、ともかく「自家製」のマティ-二と思ふと一味ちがふ。

 

 オリーヴは地中海沿岸が原産地。日本では昔から香川県の小豆島が産地として知られてゐて、温暖な地でなければ育たないとされてきたが、ここ数年、関東でもよく目にするやうになつた。

 

 北限が少々ズレたらしい。

 

 よく目にするやうになつたといへば、一般家庭の庭に育つてゐるバナナがふくよかな房を垂らしてゐる風景も珍しくなくなつた。

 

 子どものころ、近所の家に当時は珍しかつたバナナの木があつて、下から葉つぱばかりが盛大に茂る株のどこに、八百屋で売つてゐるバナナが生るのだらうと不思議だつた。

 

 母親に尋ねると、

 「バナナは暑い地方の果物だから、この辺では木は育つても実はムリなのぢやないかしら。だから高いのよ」

 といふ答へだつた。

 

 確かにそのころ、バナナといへば「高価な物」の代表だつた。

 

 病気にでもならなければ口にできない贅沢品と思つてゐた。

 

 それが今では普通に庭で穫れる。

 

 今年の夏は「35度以上の猛暑日」の多さも、「線状降水帯」発生の多さも、豪雨災害の多さも異常だつた。

 

 気象ニュースでは「観測史上初めて」といふ表現を嫌といふほど聞かされた。

 

 ぼくは7月ごろから、夜はエアコンを「27度」で付け放しにして寝るしかなかつた。

 

 少し秋の気配も漂つた9月には、電気代が8月より1万円以上安くなつたと家人が言ふ。

 

 温暖化する地球で、日本列島の大半が「亜熱帯」と称される領域に入つたのではないか。

 

 「観測史上初めて」は、これから毎夏、繰り返されるに違ひない。

 

 既にそんな予報も出てゐるが、冬は「経験したことのない暖冬」が常態化するのだらうか。

 

 もう毛布のやうな重いオーバーコートは捨てようか。

 

 3人姉弟の一番上の姉が、9月7日に死んだ。93歳。

 

 日本人女性の平均寿命(87歳)は越えてゐるものの、真ん中の姉が今年4月25日に87歳で亡くなつたばかりで、半年の間に二人の姉を失つた。

 

 こちらがさういふ歳になつたといふことだらう。

 

 13歳も歳が離れてゐるこの姉は、ぼくと同じ敷地内の家に次女一家と住んでゐて、晩年は自宅で裏千家の師範をしながらおとなしく暮らしてゐたが、末つ子のぼくから見て、若いころは何かとやんちやな姉だつた。

 

 母親によく叱られては、擂粉木(すりこぎ)の棒を持つた母親に家中追ひ回されたりしてゐたのを、舞台の一場面のやうに覚えてゐる。

 

 ある日、警察署長をしてゐた父が、ぼくに隠れるやうに姉二人を呼んで何か手渡してゐるのを見た。

 

 1950年代、まだ日本が第二次世界大戦の災禍からの復興もおぼつかないころだつた。

 

 地元の体育館で大規模な歌謡ショーが開催されることは、町の電信柱に張られたポスターで知つてゐた。父が姉たちに渡してゐたのはそのチケットだつた。

 

 当時、日々食ふ物もままならぬ生活の中で、人々はささやかな娯楽をラジオに求めた。

 

 夜のNHKラジオ第一の「三つの歌」や、軍歌、国民歌謡から解放された歌番組がもてはやされ、演歌歌手・近江俊郎の「湯の街エレジー」や、美人歌手・奈良光枝の「赤い靴のタンゴ」などがヒットしてゐた。

 

 体育館の歌謡ショーには、さういふ今を時めく人気歌手が顔をそろへる。

 

 入場料は今の値段にしていかほどだつたかわからないが、当日、会場周辺を警備する警察署長には貴重なチケットが数枚手に入つたらしい。

 

 ぼくはまだ小学校の低学年だつたが、当然、歌謡ショーには興味があつた。

 

 「なんでぼくだけ券がないの。ぼくも観たいよ」

 

 ふだん抗(あらが)つたことのない父に抗議した。

 

 「あなたはまだ小学生でしよ。早すぎます」

と、いつもはぼくの味方の母が口を挟んだ。

 

 「謹厳な警察署長の妻」からすれば、艶(あで)やかな歌謡ショーなど小学生が観てはならないものだつたのだ。

 

 「早すぎる」と言はれたら、十歳にもならない小学生は二十歳過ぎの長姉、高校生の次姉には適はなかつた。

 

 二人の姉たちは今年、あの歌謡ショーのチケットのやうに、「年長者のチケット」を誇らしげに見せながら死んで行つた。

 

 歌謡ショーのチケットと違つて、ぼくは今、そんなチケットは欲しくない。

 

 「あなたはまだ早すぎます」

 

 母親があの世からさう口を挟んでくれるのを期待しよう。