「〇〇難民」といへば、ふつう戦火に土地を追はれたり大洪水や火山爆発など天変地異から逃げまどふ集団が思ひ浮かぶけれど、近ごろは「気候難民」といふことばが生まれたらしい。

 

地球温暖化による急激な気候変動によつて、土地がサラサラ、カラカラになる砂漠化が進んだり、臨海部の水面が上昇したりして、農作物が収穫できなかつたり町が水浸しになるなど、いづれも生まれ故郷で暮らせなくなつた人たちが、アフリカや南アジアなどで急増してゐるといふ。

 

日本でもこの夏、「命にかかはる暑さ」などと大袈裟な表現が遣はれ、いよいよわが国にも温暖化の弊害が及んできたかといふ気がしないでもなかつたが、さすがに日本ではまだ「気候難民」といふ話は聞かない。

 

砂漠化も海面上昇もどちらかといへば他人ごとで、温暖化が怖いからどこか外国へ引つ越さうといふ声は聞かない。

 

ぼくはたまたま関東平野に生まれて、洪水もなければ津波もない、地滑りもなければ大地震もないところで80年過ごしてきた。

 

つまり、「自然災害」といふことばとは無縁の中で生きてきた。

 

生活してゐるのは恐るべき平面都市で、近くに大きな河川もないし余暇を楽しめるやうな山も湖もない。

 

台風は数年に一回、東京湾岸を撫でて通る程度だし、いま流行りの「線状降水帯」の豪雨に見舞はれることもまづない。

 

テレビのニュースで、「裏山が崩れて家屋が押し潰された」とか、「河川が氾濫して階段の中ほどまで水に浸かつた」などといふ惨状を見るにつけ、申しわけないけれどお気の毒としか言ひやうがない。

 

だが、いいことばかりではない。

 

残念ながら、わが家の周辺は風光明媚とはほど遠い。

 

家を出れば周りはまつ平ら。隣りの家と真つすぐな道、その先のビルしか見えない。

 

散歩に出ても情趣のある景観もなければ、ドラマに出てくるやうなロマンチックな坂道もない。

 

夕方、海岸に立つて、ひとり沈む太陽を眺めるなんてこともできない。

 

温泉もなければ花畑もなく、別府の友人のやうに、飽きるとヨットで沖に出て自分の町をながめるなんて慰安もない。

 

同じ一生を過ごすなら、山あり谷あり、海あり川ありの変化に満ちた土地のほうが楽しいに決まつてゐる。

 

しかし、生まれる土地は自分では選択できない。いったん生まれたら大方その近所で暮らすしかない。

 

遠くへ転居する手はあるが、ぼくはその決断もつかないままに、結局生まれた平面都市を離れることなくずつと生きてきた。

 

 ――で、そんな土地に生きたことを後悔してゐるかと問はれれば、後悔はない。

 

人間、選択肢は多いやうでそれほどないものだ。

 

風光明媚か、自然災害ナシか。これは結局、その人の宿命といふことだらう。

 

桜と松林がひろがる公園の端つこに、たまにワインを飲みに行く小さなカフェがある。

 

テラス席はペット同伴OKだから、犬や猫を連れた女性などで賑はふ。

 

小中高校まで同級だつた友人も、愛犬の散歩の途中に寄ることがある。

高価さうな犬の品種名は忘れたが、眼科医を開業してゐる友人お気に入りのザビエル君は,ぼくがテラス席にゐるのを認めると、ころころと足元に駆け寄つてくる。

 

決して吠えはしない。ぼくとご主人が友だちだといふことが分かるのだらうか。

 

ここは手を差し出して抱き上げるか、頭や首筋でも撫でてあげるところだなと思ひながら、それができない。

 

怖いのだ。犬だけではない。猫も触れない。怖い。今にも指先に食ひつかれる気がする。

 

概してペットの類ひが苦手だ。生まれた時からペットと縁のない家で育つたせゐだらう。

 

子どものころ、街のペット屋で見つけた真つ白い兎が気に入つて買つて帰ると、血相を変へた母親が、「お母さんは兎年生まれなの知つてるでしよ。ウチで兎を飼ふと、兎が死ぬかお母さんが死ぬか、どつちかなの」と怒つた。

 

ある日、友だちの家で数匹生まれた小犬のうちの一匹をもらつて帰り、母に内緒で家の裏手にあつた物置の隅でひそかに餌をやつてゐた。

 

数日で露顕して、こんどは父親から「お母さんは動物がきらひだから、家で飼ふのは無理。すぐに返して来なさい」と命じられた。

 

80歳になつた今でも、ペットは怖い。

 

いくら可愛くても動物は動物、犬畜生である。指先や手首を噛まれる気がして手を出せない。

 

しかし、かういふことも考へる。

 

犬や猫は人に撫でられたりくすぐられたりして本当に喜んでゐるのだらうか、といふ疑問である。

 

実はひたすらくすぐつたいだけで、こんな迷惑なこと、いい加減でやめて欲しいと思つてゐるのではないか。

 

ヒトだつてわからない。

 

「ねえ、さうやつて、首の後ろの後れ毛の生え際を優しくいぢるのやめてくれない。くすぐつたい」

 

「さう? 満更でもない顔をしてるけど」

 

「イヤな人。くすぐったいだけよ」

 

「ぢやあ、ここは?」

 

「……ああ、ダメ! あたし、耳の裏はウイークポイントなの。そんなソフトに指で撫で撫でされたら、こらへられなくなる、ウウッーー」

 

犬も猫もヒトと同じやうに、快感なのか不快なのか不分明な奇妙な感触に、内心、悲鳴を上げてゐるのではないか。

 

これからもペットには手を出さない。

 

 近ごろはあまり聞かないけれど、「抜けるやうな青空」を「ピーカンの空」と表現する人がかつてゐた。

 

 両切り煙草の「ピース」(缶入り50本、1500円)の缶の色が、無雑な青であることかららしい、

 

 先月、長姉の納骨の儀が営まれた日は、まさに雲一つない「ピーカンの空」だつた。

 

 墓地をかこむ銀杏並木が色づき始め、秋の微風にまばゆく輝いてゐた。

 

 納骨の儀には親類縁者だけが参加し、もともと母が信心してゐたのを長姉が継いだ日蓮宗の87歳になるお坊さんが、このほど京都の本山で行はれた昇級試験にめでたく合格、晴れて身に着けることを許された緋の法衣を、この日初お披露目した。

 

 「過去、この試験に合格した中の最高齢ださうですよ」

 とお坊さんは自慢して上機嫌である。

 

 その絹の緋色が、ピーカンの空のもと、墓を取り囲む緑の芝生の上をあちこち動き回ると、はしなくも繰り広げられたその矯激な色の対比は、クラッシック音楽の大締めの、大太鼓やシンバルが過激に打ち鳴らされる大音響のやうで、読経もまだ始まらないうちから、ぼくの頭の中はそのひびきと、青空と、かがやく太陽と、お坊さんの袈裟の赤とでくらくらした。

 

 実は生理的に、激しすぎる色の対比が好きではない。

 

 闇夜にうかぶ月光の黄と黒や、庭の柘榴(ざくろ)の実の、完熟した赤橙色と空の藍、町の通りで見かける看板の赤と青のペンキなど、色彩と色彩が隣り合ひで喧嘩する姿を見ると、なぜかしら生と死の対比を見るやうで落ち着かない。

 

 「その緋色は強烈ですね」

 

 ぼくは悪気はなく老僧に話しかけ、家人があわててぼくの黒服の袖を引いたがもう遅い。

 

 「いや、過去最高齢の合格といふのは素晴らしいです」

 と付け足したものの、お坊さんの顔は二度とゆるまなかつた。

 

 激しい色の対比は好きではないと言ひながら、ぼくが日常身に着ける服は老僧の袈裟以上に過激かもしれない。

 

 紺のストライプの入つた白いコットンパンツに真つ黒なシャツを着たり、青のTシャツに真つ赤なブレザーを羽織つたりする。

 

 「ねえ、その組み合はせだけはよして!」

 と家人や娘には嫌悪されるが、本人が好きで着るのだからとやかく言はれる筋合ひはない。

 

 友人の中にはぼくと会つてゐるあひだ中、墓地でのぼくのやうに頭がくらくらした経験のある人がゐるかもしれない。

 

 困つた嗜好で申しわけありません、と詫びるしかない。