昨年、春から夏にかけ二人の姉を相次いで亡くした。

 

二人とも子供が喪主をつとめ、ぼくは葬儀当日、会葬者へお礼の挨拶をするだけで済んだが、過去に一度だけ喪主をつとめたことがある。父親が亡くなつたときである。

 

両親とも日蓮宗の信者だつたので、父のときも寺に葬儀を依頼した。

 

当時、ぼくは30代、寺の住職は70代。孫ほども歳が違ふし、相手はお葬式の専門家だからと、葬式の仕切り一切を寺に任せた。

 

住職が戒名を作成し、戒名の墨書と、ラーメン屋が使ふやうな安直な「戒名料」の請求書を喪主のぼくに差し出した。

 

漢字10文字ほどが並んだ戒名の値段は、なんと「50万円」とある。

 

「戒名つて、結構高いんですね」

 

とぼくは、請求書を手にして言った。

 

 「この戒名だと、〇〇サンだつたら100万円はします。ウチは〇〇サンより安いです」

 

 住職は近くにある名刹の名を出して、その戒名料が割安であることを強調した。

 

この老僧にすれば、世慣れない若い喪主は黙つてその額を受け入れると思つたに違ひない。

 

さうはいかない。

 

 「戒名つて普通、こんなにするものなのですか」

 

値切り交渉の開始である。

 

老僧が言ふには、戒名は故人の生前の活動、人柄、信仰心の程度などから寺が独自に判断して定めるもので、戒名に宗派を超えた明確な値段表はないが、寺の格とか戒名に使用する文字(院、殿、居士など)によつて、慣習としての大よその相場はある。

 

「総合的に考へて、この戒名で50万円は妥当なところです」と老僧は譲らない。

 

「お考へは分かりましたが、少し調べてみたいので時間をください」

 

「調べるのは結構です。あなたは新聞記者などといふ俗塵にまみれた仕事をしてゐるからご存じないだらうが、元来、戒名料といふのはーー」

 

彼が言ふには、戒名料といふのは八百屋でダイコンがいくらネギがいくらといふのとは全く別次元の話である。

 

お寺に納める戒名料は、亡くなつた方に対する尊い供養であり、深い志である。

 

遺族が戒名料を値切つたりしたら、黄泉の国へ旅立つ故人は悔やんでも悔やみきれないだらうし、遺されたあなた自身も心が暗鬱になるのではないか。

 

その日から一週間、電話でやり取りしたり寺を訪問したりして、お互ひに納得できる妥協点を探つた。

 

老僧は最終的に「20万円」で手を打つた。

 

戒名に相場なんて存在しない。

 

値切つて浮いた金で墓前に綺麗な花でも飾つてあげた方が供養になるだらう。

 

「心が暗鬱に」など、ぼくは絶えてなかつた。

 

東京にめづらしく8センチも雪が積もった(2月5日)翌日、家人が庭のコンクリート打ち放しの通路でころび、左の頬と額にすり傷をつくつた。

 

雪で滑つたのかといふとさうではなく、100年を越える老松から落ちて転がつてゐた無数の松ぼつくりの一つに片足をとられたといふ。

 

ところが、このすり傷が意外にも家人に大きな変化をもたらしたのだから世の中はおもしろい。

 

一つ目は、その日から家人にとつて顔の傷が「世界の最大関心事」となつて、それまで家事の合間に何度となく繰り返してゐた「あ~あ」「ふう~」といふ“老人性溜息”が消えた。

 

老いよりも、当面、顔の傷にすべての注意が向かつたのだ。

 

二つ目の変化は、「この傷、サングラスでもかければ、それほど目立たないかしら」などと、何年ぶりかで少々しやれつ気が出た。

 

80媼、実は70代半ばごろから、薄毛や白髪や肌の張りなど、ごく当たり前の老醜を世にさらすことをあまり気にしなくなつてゐた。

 

「どう隠したつて、もうムリだから」

 

女性らしい外見の補正意欲を喪失、よくある“年寄りのいぶせし日々”に安住するやうになつた。

 

いはゆる「女を捨てた」のである。この歳になれば、そのこと自体をことさら責めるわけにもいかない。

 

変化の三つ目は、ぼくの目からするとこれが最大の変はりやうで、歳からくる皺や乾燥でどうみても艶冶なところのない、平板で、躍動感の乏しい“老け顔”が、頬と額に赤いすり傷が誕生したことで、あたかも真つ白い封筒に花模様の切手でも貼つたがごとく、顔にアクセントが生まれた。

 

のつぺらぼうだつた目鼻立ちに、人目を集める箇所ができて、立体感が備はつたのである。

 

と言つても急に美人に変はるはずもなく、単にすり傷のおかげで顔に一点、チャームポイントが出現したに過ぎない。

 

そこで思ひ出したのは、歌舞伎の当たり演目の一つ「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」の名台詞。

 

「面(つら)に受けたる看板の 疵(きず)がもつけの幸(せゐうへ)に」

 

とすごむ「切られ与三郎」ぢやないけれど、傷ができたおかげで何も起こらない老境の日々に、若干でも刺激が生まれたのだとすれば、これは「もつけの幸ひ」といふしかない。

 

まさかこれを機に、与三郎さんのやうに「切られ与三と異名をとり、押借(おしがり)強請(ゆすり)は習はうより、慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんやだな)」―-なんて突然変異して、あらぬ稼業でひと儲けするやうなことはないでせうけど。

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20代のをはり、新聞社の地方支局から本社に上がつて政治部に配属されたころ、日々の単純な特ダネ競争に空しさを感じ、居酒屋で一杯やりながら先輩に苦衷を打ち明けた。

 

 「そんな深刻に考へることない。毎日毎日、抜いた抜かれたの繰り返しに飽きがくるのは俺たちの職業病。もし抜かれたら、『あれは5点ネタ。あす、10点ネタで追ひ抜いてやる』みたいな、一種の“ゲーム感覚”で仕事を楽しめばいいんだよ。9回裏で1点上回つてゐれば勝ちなんだから」

 

実はぼくは、この“ゲーム感覚”が生来苦手だ。ゲームといふものにあまり馴染みがない。

 

子どものころ、近所の友だちとベーゴマ、ビー玉、メンコ、野球といふやうな遊戯をやることは母親から口うるさく禁じられてゐた。

 

大学生になつて、みんなが帰りに雀荘やパチンコ屋に寄るのにも、父親が警察官だからとい自妙な理由で自制して同調しなかつた

 

日々の生活でも“ゲーム感覚”は欠如していた。

 

競馬などのギャンブルは遠ざけ、自分とは縁のないものと勝手に決めてゐた。

 

わが家では正月に親戚や友人が集まつても、双六やカルタ、福笑ひなど、いはゆるゲーム遊びに類するものはだれもやらなかつた。

 

二人の姉が母親と百人一首に興じてゐるのを見たことはあるが、長姉と13歳、次姉と7歳も歳の離れた末つ子は加へてもらへなかつた。

 

いはゆるゲームとは縁遠い23歳は、社会人になつて初めて、自分が育つた環境の特異なことに気づいた。

 

新聞記者といふ職業は、「待ち」の時間が長い。地方では、県庁でも県警でも市役所でも、どの記者倶楽部にも奥の一画に麻雀卓があり、記者たちはそこにたむろして、事件や記者会見に備えて賭け麻雀をして待機する。

 

そんな時間、ぼくは近所の喫茶店へ行き、ひとりコーヒーを飲んで過ごした。

 

携帯電話もない時代、喫茶店からのんびり記者倶楽部に戻ると、部屋には誰もゐない。

 

火事があり、焼死者が出たといふ。あわてて50ccのバイクで駆けつけたが、現場には放水でビタビタになつた焼け跡があるだけ。

 

わが一紙の県版だけ、燃えさかる写真がなかつた。

 

幼児期からの“ゲーム感覚”の欠如は、ぼくにどれだけ損失を与えたことだらう。

 

さういへば若き日の恋愛ゲームも不得手だつたし、仕事では取材相手との駆け引き、会社内では自分の出世や人事をめぐる工作、生活する上での契約や交渉など、誰もがゲーム感覚で普通にこなしてゐることの知恵も能力もなかつた。

 

とはいへ、ゲームの外にゐたことのプラスもあつたに違ひない。

 

人生の九回裏になつて、「どつちが1点多いか少ないか」ひそかに計算してみたりする。