大晦日の夜は、家で飲みながらテレビを観てゐた。
最初は各局の年末特番を見くらべ、午後7時からのNHKニュースがをはると、紅白歌合戦と東京ローカル局の演歌特集を交互に観た。
今回の紅白歌合戦は記録的な低視聴率だつたさうだが、ローカル局の歌番組と“代はりばんこ”に観てゐたら、それなりに時代の移り変はりが感じられて面白かつた。
この“代はりばんこ”で明らかになつたのは、一言でいへば、「明るさ」と「暗さ」の違ひだ。
雰囲気やイメージの「明るい、暗い」ではなく、簡単にいへば舞台照明の明暗で、仮に紅白歌合戦の明るさを10度とすれば、演歌特集のそれは6か7度程度。青空と海が主舞台の青春物テレビドラマの明るさと、事件現場と刑事部屋で展開するサスペンスドラマの暗さの差とでも言つたら分かり易いだらうか。
さて、この両者を観てゐて、ワイン片手の八十翁がどちらに軍配を上げたかは言ふまでもない。
紅白歌合戦の明るさにはすぐ辟易し、チャンネルを東京ローカルにとどめる時間が長くなつた。
そこで感じたのは、紅白歌合戦の軽佻な明るさはまさにぼくたちが今生きてゐる令和の明るさであり、演歌特集の暗さは昭和の暗さ、といふことだ。
『津軽海峡冬景色』の暗さは、まちがひなくあの時代のものであり、紅白で繰り広げられる、歌詞も不分明な「今の歌」もまた、まちがひなく令和の表徴だらう。
もう一歩踏み込んだ言ひ方をすれば、現代の明るさとはなんと空虚なものか。
そこには人間社会にあらまほしき閑雅も幽玄もない。あるのは軽薄にして一瞬の、通り一遍の逸楽だけだ。
ふと谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」を思ひ出した。
谷崎は日本座敷の床の間の造作の「光りと陰との使ひ分け」の巧妙に感嘆、それを「東洋の神秘」と言つた。
「その神秘の鍵はどこにあるのか。種明かしをすれば、畢竟それは陰翳の魔法であつて、もし隅々に作られてゐる陰を追ひ除けてしまつたら、忽焉(こつえん)としてその床の間は唯の空白に帰するのである」(「陰翳礼賛」)
この語法を借りれば、演歌を彩る陰翳、つまり陰の魔力が紅白歌合戦からは綺麗さつぱり追ひ除けられてしまつて、歌の魅力が「唯の空白に帰」してしまつてゐた。
ことし令和6年は、「昭和99年」にあたるといふ。
そろそろ世間の記憶から「昭和」の陰翳は消え去る頃合ひかもしれないが、歌の世界ではまだ厳然としてあの薄暗さがものをいふ。
谷崎風に言ふなら、「陰こそ文化」かもしれない。
