中学生のころ、毎週2回、家庭教師がわが家に来ました。英語を教へてもらつたのですが、三十歳前後の先生は東京外大卒ながら定職が無く、僕とは町の卓球場で知り合ひました。

 ふつう家庭教師といふと、知人の紹介とか親の縁故が多いでせうが、僕は自分の家庭教師を町で見つけて来たのです。

 いはば「どこの馬の骨とも分からない」人間を、わが母親は良く受け入れたものですが、この先生のお陰で、高校、大学を通じてどうにか「得意科目は英語」と言へたのですから、今となつては感謝してゐます。

 文学の味はひを教へられたのもこの先生です。三島由紀夫の「金閣寺」を絶賛し、ぜひ精読するやうに勧められました。

 なぜか先生は結婚することもなく、四十歳を超えて間もなく病死しました。いま考へると、昭和三十年代としては粋な若者で、勉強の後、親が用意する食事と酒に気分が高まると、家の床の間を背に今風なEXILEもどきの踊りを披露、母親や女中が笑ひ転げたのを覚えてゐます。

 「突然気が狂つたと思つた」
 母親は後でさう感想を洩らしました。僕も同じでした。

 先生がある年の瀬、僕にプレゼントしてくれたものがあります。
 家で履く厚手の靴下でした。地味な鼠色で、毛糸がもこもこして、どう見ても中学生向きではない。八十歳のお爺さんなら似合ひさうな防寒具です。

 しかし、履いてみるとなんとも感じがいい。温かい。履いたり脱いだりが簡単なのです。両足の甲がふんわりと世界の温かさに包まれるやうな安心感がある。何だか分からないけど素材が吟味されたものなのでせう。

 学校へ行く時は薄手の靴下か足袋(当時の中学生は足袋が一般的でした)ですが、家に帰るとすぐこれに履き換へる。休日は一日中これです。もう手放せなくなりました。

 家庭にゐる時間が多くなつたこの秋、あの冬の室内履きソックスの快感を思ひ出しました。果たして今でもああいふ靴下を売つてゐるだらうか。

 デパートの、あまり目立たない一角にありました。「カシミア混」とか「アンゴラ混紡」などといふのもあつて、普通の靴下より若干高めの3000円ほどです。先生に頂戴した物ほどもこもこしてゐませんが、家に帰つて履いてみると、ふんわり感や履き易さは同じです。

 つま先までやんわり包まれる感じがして、やはり世界の温かさのやうなものも響いてくる。これです。

 ところで、いまだに分からないのは、時代の先を行くやうな奇妙なダンスを踊つてみせた三十前後の若者が、家庭教師相手の中学生にどうしてこんな品を贈らうとしたのか、です。

 彼も自宅で愛用してゐて、この快感を誰かに伝へたかつたのでせうか。一見、無駄のやうに思へる物だけれど、さういふつまらない日用用具の、ちよつと高品質な物が有する、他に換へ難い贅沢な感触、一種の幸福感のやうなもの、を誰かに引き継ぎたかつたのか。

 大学入学と同時に無用になる受験英語よりも、このことの方が彼の遺してくれた大きな教へだつたのかもしれません。
 人の品性といふものは、いつどこで露顕するか分かりません。

 昨日今日、永田町や霞ヶ関の話題をさらつてゐる政府の「事業仕分け作業」で、あの女性タレント議員の品格が「やつぱりね」といふ調子で取り沙汰されてゐます。

 「この施設の稼働率は?」
 「役員の年俸は?」
 「天下りの人数は?」
  
 仕分け人であるこの元ニュースキャスターは、持ち前の敵対的な視線と口説で、予算の存続を望む官僚や法人代表を激しく詰問、少しでも答へが詰まると「いますぐ、この場で調べてください」と、離婚調停ならさもありなんといふ顔で相手を追ひ詰める。

 民間から指名された女性仕分け人までが、このタレント議員の挙措を真似して、
 「私に言はせれば、そんな仕事は能無しでもできる!」
 とヒステリックに捨て台詞を吐いたのは、自分の立場と礼儀が分からないお笑ひですが、そのくらゐ仕分け作業の現場は滑稽な遣り取りとなつてゐるといふことでせう。

 残念なのは、かういふ女性たちの勘違ひした言動によつて、「戦後政治の大掃除」をしようといふ鳩山首相の意図が曲げて伝はることです。

 仕分け作業(この名称、なんといふセンスの悪さ!)自体は結構なことです。時代に取り残されたマンネリ事業の廃止や、天下り先のための法人などが整理されることは無駄をなくす意味で望ましいことです。

 それによつて給料の減る人や多少の不便を余儀なくされる人も出るでせうが、全体の利益のためには仕方ない。

 しかし、かういふ「非情な作業」は、非情ゆゑに「温情に満ちた」雰囲気の中で取り運ばれなければなりません。

 議論の際の言葉遣ひ、議事の進行なども、トゲのある結論を導き出す会議だからこそ、懇篤にして丁寧であることが欠かせないのです。

 非情なことを決めるのに、エキセントリックに泣き叫ぶやうな口調で会議が進められては、仕分け作業の成果が誤解されます。

 仕分け人の人選にミスがあつたといふべきですが、民主党にそれだけの人材がまだ育つてゐないことの証でもあります。

 鳩山首相は自己の政治資金管理の問題で「私は恵まれた環境で育つたもので…」と脇の甘さを認めました。私が接した限り、鳩山氏にはさういふマイナス面とは裏腹に、相手への気遣ひ、礼節など人間としての品性が豊かです。

 品性のある人は往々にして品性の無い人を見破れないものです。
 親戚の30歳過ぎの娘さんが見合ひをし、その日のうちに仲立ちの方にお断りの電話をしたさうです。

 なぜ断つたか。親への告白では「男性の食事の仕方がイヤだつた」。
 ときどき耳にする理由ですが、実際、男がどういふ風に食べるのが「イヤだつた」のか興味のあるところです。

 以下、親からの又聞きを要約しますと、「男がむしやむしや食べるのがイヤだつた」といふのです。

 快晴の昼下がり、仲立ちの人とともに日比谷の帝国ホテルで会ひ、やがて二人だけで銀座へ歩き出した。ぶらぶらして喫茶店で小憩のあと、男性の案内でイタリアンのお店に入つた。ここまではお見合ひとしてまづまづの成り行きでせう。

 35歳の商社マンはワインを注文、乾杯してから料理の注文を始めた。メニューを女性に差し出し、女性がいささか躊躇してゐると、前菜からパスタ、メーン料理まで淀みなく選択して行く。

 男女の初対面としては順調な滑り出しです。飲めるクチのふたりはワインが進むほどに会話が弾みーーとなるのが一般的です。

「むしやむしや食べるつて、どうしてイヤなの。男らしくていいぢやないの」
 と母親が尋ねると、
「ウン、男らしいと言へばさうなんだけど……」
「ナイフ・フォークの使ひ方が下手で、食べ方が汚らしいとか?」
「ううん、上手よ。商社マンですもの」
「ぢやあ、何なの。ーー食べるのが早くてあなたを無視したとか?」
「さうでもない。普通」

 大手町にある某銀行本店に勤めるキャリア女性らしくもなく、娘の言ふことは要領を得ない。

「あなた、食べ方が気に入らないと言ふけど、本当は他に理由があるんぢやないの。会つてて退屈だとか、夫にするには頼りないとか」

「そんなことないわ。面白い人だつた。3年間シカゴで勤務した時の話なんかも有益だつたし、仕事の出来さうな素敵な男性よ」

 それでもこの縁談を断りたいのは、ひとへに「食事の仕方がイヤ」だからなのである。
 親は仕方なく、仲立ちの方に「男性がご立派過ぎて、娘は一生随いて行く自信がないと申しまして」と型どほり曖昧な理由にしたといふ。

 親の話を聞いてゐて、娘さんの心情がなんとなく分かる気がしました。
 彼女はたぶん、この先毎朝毎晩「この食事の仕方」を見せられるのでは堪らないと決断したのです。

 具体的にどのやうな「食事の仕方」なのかははつきりしませんが、「むしやむしや食べる」と聞くとやや想像がつきます。

 食事はある意味で、「食欲」といふ欲望を満たす動物的な行為です。性欲とか金銭欲とか快楽欲とかと同じです。

 かういふ欲望を遂げようとする姿を、僕たちは通常、他人に見せることを潔しとしない。なるべくなら人に見せないで済ませたい。食欲だけが例外です。食べる姿を他人に見せないわけにはいかない。

 しかし、この欲望もそれを充足しようといふとき、あまり露骨に、一心不乱に、あたかもライオンが獲物に食らひ付くやうに「むしやむしやと」食べるのは本来避けるべきものかもしれません。

 35歳の男で嫌はれるのですから、僕ぐらゐの年になつたらよほど気を付けて物を食べないと、老いらくの食欲は老醜そのものか。でも、僕は人前ではほとんど飲んでばかりゐて、あまり物を食べないからなあ、などと自戒半分です。