午前2時、深夜のしじまの暗い底を尖つた針で縫ふかのやうに、救急車が神経質なサイレンの音をひびかせて移動してゐる。

 

救急車の周辺では、今夜もまた、小さな悲劇や苦難が繰り広げられてゐるに違ひない。

 

そのサイレンは、いつも遠くで鳴る。隣り近所や裏の路地で聴くことはない。

 

サラリーマンのころから、寝床に就くのは大体この時間が習慣になつてゐる。

 

NHK「ラジオ深夜便」の午前2時のニュースを聞いてから、枕許の明かりを消し、目を閉ぢる。

 

もうすぐ82歳。

 

行く先に白いゴールのテープがほんのりと見えてきた。

 

人生の第4コーナーを曲がつたところである。

 

幸ひにといはうか、不幸にもといはうか、身辺は常に閑寂で、大きな悲劇も喜劇もない。

 

平々凡々、舟はほとんど凪(なぎ)の海を進んできた。

 

3人姉弟の末つ子として生まれると、両親は「初めての男の子」と歓呼で迎へ、高校を出ると当たり前のやうに1年浪人し、大学を終へると当たり前のやうに就職し、同じ会社に41年間、「病欠ゼロ」だけを誇りに勤めて、当たり前のやうに定年を迎へた。

 

リタイアして間もなく20年。

 

命にかかはるやうな大病に罹ることも、迷惑な不祥事や犯罪に巻き込まれることもなく、反対に、宝くじに当たるやうな僥倖に恵まれることもなく、気がついたらこの歳になつてゐた。

 

人の一生つて、こんなに平板で無感動でいいのかしら、といふ焦燥がないわけではない。

 

いや、もしかしたら実際には人並みの苦楽に遭遇してゐるのかもしれないのだけれど、他人より「苦楽に対する感度」が悪いから、それに気づいてゐないだけのことか、と考へることもある。

 

何ごとに際しても、まあ世間といふのはこんなものさ、こんなことは日常茶飯事、気にするほどのことではない、と遊惰に見過ごしてしまつてゐたのかもしれない。

 

幼いころ、ぼくが学校や友人との間で何かあつて泣いて帰つたりすると、病弱だつた母親から「そんなこと、大したことではありません。高く超越して!」と厳しく諭された。

 

一生の半分を費やした新聞記者の仕事でも、学生時代から始めた小説書きでも、もしや「高く超越」した感度の鈍さがマイナスに働いたか。

 

いまさら反省しても詮無きことだけれど。

 

ナベツネさんが読売新聞のワシントン支局長から東京本社政治部長に異動して間もないころ、ぼくが所属する法務省記者クラブに電話が入つた。

 

部長から記者に電話があるのはろくなことではない。お説教か、無理難題を命じられるかである。

 

 「キミは小説を書くんだつて?」

 

 部長になつて間がないのに、一部員の私事まで誰に聞いたのだらう。

 

 「はい。学生時代から編集者との縁で、『新潮』や『文学界』にたまに載せてもらつてゐます」

 

 「それはいい。さういふ特技は大事にしないとな」

 

 「ありがたうございます」

 

 新任部長と一対一で話をするのは初めてだから、こちらは緊張してゐる。

 

 「来週の部会で担当替へを発表するんだが、キミは平河俱楽部で中曽根派を担当してくれ」

 

 「――はい。分かりました」

 

 ナベツネさんは、「そしてだな、小説を書くやうなつもりで、中曽根のソフトなハコ物を休日原稿でどんどん書いてくれ」と付け加へた

 

 当時、中曽根康弘氏は自民党幹事長で、ナベツネさんと中曽根氏は、かねてから知らぬ者のない盟友関係にあつた。

 

「平河倶楽部」は自民党担当記者倶楽部のことで、自民党本部が東京・平河町にあることからさう名づけられた。

 

「ハコ物」とは、新聞の政治記事の中の軟派な読み物として、罫線などで四角く囲まれたハコ型の記事をさす業界用語である。

 

 「はい」

 ぼくの返事は生半可になる。

 

 「どうも中曽根は世間では『風見鶏』なんて言はれて、政界遊泳術一筋の、ズルくて面白味のない人間と見られてゐるので、政治面のハコ物で中曽根の人間らしい面を売り出してやつてくれ」

 

 ナベツネさんに一対一で命じられたことがもう一つある。

 

ぼくが『王道の孤独』といふ中曽根康弘氏を主人公にした小説を出版したときだつた。

 

『週刊読売』の編集長をしてゐたぼくに、論説委員長のナベツネさんから電話が来た。

 

 「中曽根の小説を出したさうだな」

 

 政治部から週刊誌に移つて数年経つてゐたので、『王道の孤独』の出版に関しては特に報告してゐなかつた。

 

当時、中曽根氏は総理大臣になつてゐた。

 

 「人から聞いたんだが、その中にオレのことが出てくるんだつて?」

 

 「ええ、まあ。少し」

 

 「すぐ持つて来い」

 

 本が手元になかつたので、読売に近い八重洲ブックセンターまで行つて購入、恐る恐る論説委員長室へ届けた。

 

 「物書きならとうに承知してゐるだろうが、本を出したらモデルに使つた人間には真つ先に献本するものだ」

 

 本を差し出すと、ナベツネさんは「よし」と受け取り、「中曽根は何か言つてゐたか」と言つた。

 

 「いえ、官邸の秘書さんを通して届けましたが、まだ何もーー」

 

 「わかつた。オレは読むのは早いから、追つて沙汰する」

 

 どんな「沙汰」があるのか数日ひやひやしたが、結局、「沙汰」はなかつた。

 

 ナベツネさんは新聞記者としても新聞経営者としても最後まで「王道」を歩んだが、ぼくの見るところ、中曽根氏に似て、常に「孤独」な感じがした。

 

追悼 渡邉恒雄氏  2024年12月19日,肺炎で死去。98歳。東京都出身、読売新聞主筆。

 

ワイン屋からの帰り道、ほろ酔ひ加減で、夕まぐれの住宅街を遠回りして帰らうとすると、ふいに脇の一軒の家の門柱に明かりが点いた。

 

日ごろ、その辺りではあまり見かけない、素性も知れない老人が警戒されてゐるのかしら、と足早に通り過ぎる。

 

近ごろ首都圏を中心に頻発してゐる「闇バイト強盗」。もとよりわが家には犯人様に差し出せるやうな箪笥預金などないけれど、見知らぬ若者が深夜、ハンマーで窓ガラスを叩き割つて入つて来て、「金を出せ」と殴つたり首を絞めたりするといふのだから恐ろしい。

 

「ウチも裏の車庫のあたりが薄暗いから、そろそろ防犯灯を付けた方がいいのではーー」

 

と娘が言ひ出し、早速大型スーパーで簡易な防犯灯を買ってきた。

 

電源は電池二個。柿の実みたいな二股の白銀灯がともる。

 

以来、薄暗くなると、だれか道を通る気配がするたびに、二階から顔を出して灯がつくのを確認するようになつた。

 

私どもにも世間並みの防犯意識はあるのですよ、と宣言するやうな気がして悪い気はしない。

 

ところが、この「遅れてきた防犯灯」をめぐつて、世の中にはいろいろな感想を漏らす方がゐるらしい。

 

「お金持ちは大変だねえ。ウチみたいに強盗も猫またぎする家ならこんなもの付ける必要ないけど」

 

などといふイヤミは穏当なはうで、家人が人づてに聞き及んだところでは、ふだんほとんど行き来もなければ、ちやんと挨拶をしたこともない、同じ町内ながらやや離れたところにお住まひの老女が、

 

「いくら事件が多いからつて、今ごろあんなもの付けて、ウチにもお金があるから心配なの、つて見栄を張りたいだけぢやないのかしら」

 

などといふ口さがないささやき声もあるらしい。

 

人の口に戸は立てられないし、闇バイト強盗はやはり怖いから、被害に遭はないためには周囲の多少の陰口くらゐ甘受しなければならない。

 

何より問題なのは、この防犯灯の防犯効果だが、白銀灯が放つ光芒は意外に控へめだし、家屋の乳白色の壁を背にして周囲の風景に溶け込んでゐる感じもある。

 

果たしてこんな明かりがともつたからといつて、カネ欲しさで血気盛んな闇バイト諸君に襲撃を思ひとどまらせることができるのか。

 

つまり、防犯灯は単なる気休めに過ぎないのでは、といふ思ひも消えない。

 

ご近所に陰口のネタを提供し、イヤミな噂を生んだだけのことだつたのではないかしら。