朝、目が覚めたら、東に面した書斎のガラス窓へ真つ先に行きます。カーテンを大きくひらいて、窓の外に顔をむけます。

 

起床するのは大体午前9時過ぎですから、晴れた日には太陽はもう南東の空高く上つてゐます。

 

窓辺を満たす仮借ない、まつ白くて生温かい光のシャワーの中へ、寝ぼけまなこの顔をーー。

 

まぶしさに目は閉ぢますが、顔と頭はぢつと光のシャワーから反らさない。どんなにまぶしくても、怯(ひる)まず、たぢろがず、数分、光の束のまん中に顔と頭を放り出します。

 

まるでどこかの国の、太陽に向かつて何か一心に祈りをささげる修行僧のやうに、です。

 

それは暗い林の中を歩いて来て、突如、ひらけた草原に出て激しい陽光を浴びる、そんな瞬間に似てゐるかもしれません。

 

くらくらする眩暈。その中で、眠つてゐた全身の神経、肉体が徐々に覚醒します。

 

これがぼくの唯一の朝の健康法です。

 

さういへば、夜の健康法もまた、まばゆさ頼みです。

 

町の行きつけの酒場のカウンターに腰かけて、いつものマティーニを注文します。

 

目の前にグラスが来たら、最初にひと口、やや多めに呷(あふ)ります。

 

ジンの激越で、他人行儀で、まちがひなく無機質な刺激に全身をゆだねます。

 

マティーニはふつう、ジンとベルモットを3対1ほどの分量でステアしますが、ぼくはそれよりかなりジンの優つた、いはゆるドライ・マティーニが好きです。

 

乾いた砂地に海水が浸みいくやうに、「また酒場に来たぞ」とジンが徐々に頭に認知させるのです。

 

ほとんどストレートのジンの味はひは、暗い林を抜けてふいに陽光を浴びたときのまばゆさと同じで、どちらかといへば痛みに近い感じです。

 

それが酒を飲む気構へを作つてくれます。

 

寝起きの「さあ、活動開始だ」にしても、酒場の「さあ、お楽しみのときだ」にしても、八十一歳には何らかの外的な働きかけによる準備運動が要るやうです。

 

太陽とジンの眩惑が、それを叶へてくれます。

「お昼は何にしますか? チャーハンかスペゲッティならすぐできますけど」

 

階段の下から家人の声が届く。

 

「スパゲッティがいいな。けふはボンゴレで」

 

若いころから、何につけ「決断」は早い。あまりに即決なので、ともすると軽佻浮薄、考へなしに決める、といふ誹(そし)りを頂いてきた。

 

この癖は、長年の仕事で身に付いたものでどうしやうもない。

 

マスコミの世界で働いてゐると、何につけ「早い決断」に価値がある。

 

そのテーマはいま誰に取材したら適当か、取材した材料のうち何に重点を当てて記事にしたらいいか、など、タイミングよく結論を出さなければならない。

 

「ちよつと待って」は通用しない。けふの夕刊か明日の朝刊に叩きこむためには、その場で決断しなければならない。

 

週刊誌の編集長をしていた当時は、とりわけ「早い決断」が求められた。

 

今週号にどのネタを掲載し、何をボツにするかは、毎週火曜日の午前中の編集会議で最終決定しなければ間に合はない。

 

猶予時間は半日もない。

 

「ぼくが担当する芸能ネタは、結局Aですか、それともBですか」

 

部員の記者にかう問はれたら、その場で決定しなければならない。編集長が迷つてはならない。

 

「AでもBでも、記事にしてみればまあ大差ないだらう」といふ思ひもあつて、いづれにしろ決断は早い方がいい。

 

この癖がいまだに抜けなくて、80歳を過ぎた今も、人から何か選択を迫られると即決してしまふ。

 

一瞬間を置いた方が答へに重みが出るし、相手も納得することがなくもないのだけれど、判断を求められたら即決する癖は治らない。

 

ただ、最近、気になつてゐることがある。

 

「やるかやらないか」の決断を求められたとき、「やる」決断よりも「やらない」決断の比率が高くなつたのだ。

 

昔の仲間との飲み会を誰かが言ひ出す。いつ、新宿でやるか赤坂でやるか、どの店でやるか、会費はいくらくらゐにするか。

 

家族や友人とのドライブ旅行を思ひ立つ。泊まるのは温泉旅館? いや都会のホテルがいい? 

 

予算はたまには奮発するか? それとも歳相応に地味に行くか? 

 

数年ぶりに30枚程度の小説の構想でも練るか、書きあがつたらどの編集者に声をかけるか。

 

思ひを巡らせる時間は楽しいが、数日、いや一週間、半月――久しぶりの飲み会の期待は徐々にしぼみ、ドライブの旅程、宿の予約、新たに執筆する小説の構想等々、あれこれ考へた末に、結局「またの機会にするか」に落ち着くことが多い。

 

「やらない」決断にはそれぞれまことしやかな理屈が付き、すこし時間がかかるものの、最終結論として「今回は見送ろう」に落ち着くことが多いのは、それが安逸で、今のまんま、一番疲れないからだらう。

 

これが歳といふものか。

 

年寄りぢやあるまいし、季の変はり目の寒暖差に体が随いて行けないなんてーー

 

と身のほど知らずで高をくくつてゐたのだが、どうやらこれが現実らしい。鼻風邪をひいた。

 

サラリーマンの現役時代、病気を理由に仕事を休んだことが一日もない「41年間病欠ゼロ」は、政治講演の枕にふつたり、あちこちに書いたりする自慢話だけれど、81歳になつて初めて、「これが歳といふものかしら」といふ自覚を味はつた。

 

35度8分~36度の「平熱」はほぼ変はりなく、朝起きて格別倦怠感もない。

 

ただ先週、やたらに咳が出るやうになつた。続いて水のやうな鼻水が出始めて、数日ティッシュが手離せなくなつた。

 

この経過は三日早く家人が経験してゐて、朝居間に降りると、小さく巻いた棒状のティッシュを両鼻に詰めてゐる。

 

サルのお化粧のやうな奇態な眺めである。

 

「それ。何かのおまじなひ?」

と問ふと、

「いや、朝起きたら、なぜか急に鼻水が止まらなくなつて」。

 

家人の鼻水は3日ほど続いた。

 

発熱はなかつたが、鼻水が一段落すると、こんどはドンドンと階段を駆けあがるやうな咳が三日ほど続いた。要するに「風邪」である。

 

原因は分からない。どこで感染したのか。さつそくパソコンで調べる。

 

「風邪」で検索すると、これでもかといふほど解説が並んでゐる。

 

こちらはただ「鼻風邪と咳」の対処法を知りたいだけなのに、聞いたこともないクリニックの医師やら、大学病院の専門医などがあれこれと解説してくれてゐる。

 

単なる「風邪」を飛び越えて、気管支炎や肺炎の心配をしてくれたり、中には最近流行つてゐるといふ「SRウイルス感染症」だとか、「マイコプラズマ肺炎」などといふ、なんとなく恐ろしい、まことしやかな病名が続いたりする。

 

こちらはさういふものには興味がない。

 

突然始まつた、原因不明の鼻風邪に当面どう対応すればいいのか、何といふ薬を買って飲めばいいのかを知りたいだけである。

 

しかし、スマホにもパソコンにも、簡明、単純なその処方箋がない。

 

そこに展開する「情報」は、クリニックの宣伝やさまざまな製薬会社のPRばかり。「こちらが必要とする端的な情報」がない。

 

折から衆院選が始まつた。

 

ネットをひらけば、各政党、各候補者が経済、外交、物価対策など国政全般についてそれぞれ雄弁に語り、これらの政策が全部実現したら、明日にでも「バラ色のニッポン」が出来上がるやうな夢を披歴してゐる。

 

しかし、現実にどの政党の、どの候補者が有権者たるこちらの主義主張に最も近く、こちらが考へる「バラ色のニッポン」への政策を遂行してくれるのかはさつぱり分からない。

 

鼻風邪にどの薬を飲んだらいいのか分からないのと同じである。

 

いま、あらゆる「情報」が一見、ボタン一つで容易に手に入る。

 

しかし、真にこちらが必要としてゐる喫緊の情報は、むしろ茫漠とした「情報の闇」のむかうに消えてしまつて見つからない。