ひげそり後の化粧水(業界用語では「アフター・シェービング・ローション」といふらしい)はいろいろなものを使つて来ました。
 
 四十代の後半、シャネルの「エゴイスト」といふのを愛用しました。甘い香りですが、その名の通り、やや独善的といふか主張が濃厚な匂ひです。
 
 五十代になつて、同じシャネルの「アンテウス」に切り替へました。これは甘さの中に典雅な鋭さがあつて、しかし「エゴイスト」のやうなやみくもな自己主張はなくて、通りすがりに嗅いでもたぶん多くの人が許せる感じの香気です。
 
 還暦近くのころから、ブルガリの「エクストリーム」に変へました。これは寝巻に振りかけても安眠できるやうな、穏健にして寛厚な果実臭です。これをイヤな匂ひだといふ人はあまりゐません。
 
 近年はエルメス「ナイルの庭」とか、瓶の底に「幸福の石ころ」が転がつてゐる「ラヴ&ピース」などめまぐるしく浮気してゐますが、最近、ふとしたきつかけで、鏡台の端つこで埃をかぶつてゐた「エゴイスト」の底の数滴を付けてみました。
 
 素晴らしいのです。いいワインは数年寝かせると味が成長しますが、「エゴイスト」も独特のカドが取れて、独りよがりの自己主張が失せて、付けて数時間たつても行き交ふ知人の女性が「アッ、いい匂ひ!」と声を上げてくれるくらゐ、円満な、こなれた味はひになつてゐます。
 
 四十代のころ感じた「エゴイスト」らしい嫌らしさが軽くなつてゐるので、頬や顎の下に擦りつけてゐても違和感がない。
 
 アフター・シェイブ・ローションが変質したのでせうか。劣化こそすれ、ワインみたいに熟成する筈はない。
 
 おそらく、香りに対する僕自身の好みが変はつて来たのです。「エゴイスト」の傲慢さが許せる歳になつたのです。
 
 これを成長と言つていいものかどうかは分かりません。傲慢、独善的なるものへの感受性が鈍つただけかもしれません。
 
 政治家はよく昔の著書や論文を引き合ひに出されて、「以前はかう言つてゐたではないか」と追及されます。前はAがいいと言つてゐた、今はBがいいと言つてゐるのは「無節操」「変節」といふものだ、といふ批判です。
 
 「成長」は「変節」なのでせうか。僕が「エゴイスト」をふたたび好きになつたのは、嗜好の成長ではなくて変節なのでせうか。
 
 少なくとも僕は政治家の「変節」を咎める自信はありません。人間とは変貌し続けるものだと思ふのです。
 
 
 たとへば演劇の舞台で、あるいはテレビのドラマで、弱さうな善人が悪人に勝つ。それを見て、僕たちは「これは八百長だ」と非難しません。
 
 歌舞伎の舞台で、弁慶と義経が戦ふ。どちらが勝つかはみんな分かつてゐる。しかし、それを見て八百長だと言ふ人はゐません。 さういふものだと事前に了解してゐるからです。
 
 こと大相撲になると、なぜ「八百長騒ぎ」になるのでせうか。
 プロレスとか競輪などと同じく、大相撲とはさういふものだといふ世間の了解が昔からあつたのではないでせうか。
 
 千秋楽。7勝7敗の力士が土俵に上がれば、その場所、もうどつちに転んでもあまり関係ない対戦相手なら、「ここ一番。人情相撲だな」と思ふのは、大相撲の世界では自然なことではないでせうか。
 
 それを「八百長だ」と騒ぐのは野暮といふものです。大相撲とはむかしからさういふ暗黙の了解の上に成り立つてゐる興行なのです。
 
 政治の世界も同じです。
 いま、菅政権は来年度予算の関連法案が参院を通過するかどうかで瀬戸際に立たされてゐます。
 
 本予算は「衆院優先」の原則で自然成立しても、その予算執行の裏付けとなる予算関連法案が成立しなければ、予算とそれに伴ふ政策は実行されません。
 
 関連法案が成立しなければ、当の政権は崩壊するといふのが自然です。衆院解散――総選挙の道をたどるのは常識でせう。
 
 それでも一応、ご存知のやうに、本会議や予算委員会などは通常通りひらかれます。行く末は見えてゐるのにです。厳密にいへば、これは八百長国会です。
 
 しかし、独裁政権が崩壊したエジプトの政変劇などをみてゐると、民主主義といふ名の八百長国会のほうがまだマシといふものです。
 
 少なくとも日本は独裁国家ではありません。「政治とカネ」の問題でも、取り沙汰されてゐる不良政治家の蓄財はたかが知れてゐます。
 
 相撲の世界も、永田町も、潔癖な国民性のおかげで徐々にクリーニングされてゐるやうです。僕はそれが人間社会にとつて必ずしもいいことばかりではないと思ふのですが、相撲も政界も霧が晴れて、視界の少し良くなつた新しい春が巡つてくるのだとすれば、それはそれで時代の流れといふものかもしれません。
 
 人と会ふ前日になると、「明日はお会ひできるのを楽しみにしてゐます」などといふメールを打つ。相手からは「こちらこそ楽しみです。よろしくお願ひいたします」といふメールが返つてくる。やはり、打つ必要が無かつたメールかなあ、と思ふ。
 
 就寝時刻は毎晩几帳面に午前1時ごろである。寝る前に、あすは早起きする必要があるかどうか、手帳を確認してからベッドに入る。
 
 40余年続けたサラリーマン生活を卒業した3年前、ひとつ願望があつた。――これからは「ちやらんぽらんに生きてやらう」。
 
 あなたはサラリーマン時代、「ちやらんぽらんでなかつたか」と問はれれば必ずしも自信はないのだけれど、リタイアするときの最大の喜びは、これからは何物にも呪縛されない、次に何をしなければならないかといふ段取りを考へないで生活ができる――といふことだつた。
 
 つまり、ちやらんぽらんに生きられる、といふ喜びである。
 人との約束を忘れたり契約を十全に守らなかつたり、きちつとした生活をしなくても、これからはほとんど不都合はないだらうし、人から非難はされないし、日常生活にあまり支障は出ない。
 
 朝からボーッとしてゐてもさほどマイナスはないだらう。街を散歩してゐて次の角を右に曲らうが左に曲らうが、その後の人生にほとんど影響はないだらう。これからは万事いい加減でいいのだ、といふ喜びだつた。
 
 さういふ生活は、おそらく今までには得られなかつたものを収穫させてくれることだらう。いい加減な生活には、きつと未知の美味しい蜜が隠れてゐるに違ひない。さう思つた。
 
 「自由人」とか「不羈奔放」といふやうなことばが目の前を舞つた。肩書からくる制約もなければ、看板を背負つた会社への義理もない。生活資金を稼ぐために誰かに頭を下げる必要もなければ、上の人間に対して忠節を尽すことも求められない。
 
 そして3年。
 たしかにさういふ生活に「近いもの」を手に入れたが、これで念願のちやらんぽらんを成就してゐるかといへば、まだ足りない。もつとちやらんぽらんになりたい。
たとへば、会ふ前日のメールも、就寝前の日程確認も忘れたい。