たとへば演劇の舞台で、あるいはテレビのドラマで、弱さうな善人が悪人に勝つ。それを見て、僕たちは「これは八百長だ」と非難しません。
 
 歌舞伎の舞台で、弁慶と義経が戦ふ。どちらが勝つかはみんな分かつてゐる。しかし、それを見て八百長だと言ふ人はゐません。 さういふものだと事前に了解してゐるからです。
 
 こと大相撲になると、なぜ「八百長騒ぎ」になるのでせうか。
 プロレスとか競輪などと同じく、大相撲とはさういふものだといふ世間の了解が昔からあつたのではないでせうか。
 
 千秋楽。7勝7敗の力士が土俵に上がれば、その場所、もうどつちに転んでもあまり関係ない対戦相手なら、「ここ一番。人情相撲だな」と思ふのは、大相撲の世界では自然なことではないでせうか。
 
 それを「八百長だ」と騒ぐのは野暮といふものです。大相撲とはむかしからさういふ暗黙の了解の上に成り立つてゐる興行なのです。
 
 政治の世界も同じです。
 いま、菅政権は来年度予算の関連法案が参院を通過するかどうかで瀬戸際に立たされてゐます。
 
 本予算は「衆院優先」の原則で自然成立しても、その予算執行の裏付けとなる予算関連法案が成立しなければ、予算とそれに伴ふ政策は実行されません。
 
 関連法案が成立しなければ、当の政権は崩壊するといふのが自然です。衆院解散――総選挙の道をたどるのは常識でせう。
 
 それでも一応、ご存知のやうに、本会議や予算委員会などは通常通りひらかれます。行く末は見えてゐるのにです。厳密にいへば、これは八百長国会です。
 
 しかし、独裁政権が崩壊したエジプトの政変劇などをみてゐると、民主主義といふ名の八百長国会のほうがまだマシといふものです。
 
 少なくとも日本は独裁国家ではありません。「政治とカネ」の問題でも、取り沙汰されてゐる不良政治家の蓄財はたかが知れてゐます。
 
 相撲の世界も、永田町も、潔癖な国民性のおかげで徐々にクリーニングされてゐるやうです。僕はそれが人間社会にとつて必ずしもいいことばかりではないと思ふのですが、相撲も政界も霧が晴れて、視界の少し良くなつた新しい春が巡つてくるのだとすれば、それはそれで時代の流れといふものかもしれません。