家人は運転が大好きだ。
 雨の日の早朝、近所に独り住ひしてゐる娘が電話してきて、駅まで送つてくれないかと泣きつくと、「まつたく甘えてるんだから」と寝床の中でぼやきながらも、結局起き出して送つてあげる。
 
 歩いて五、六分のところにあるスーパーに買ひ物に行くのも、「帰りに荷物になるから」と車を乗り出す。
 
 観光地へ遠距離ドライブするとき、怖くて家人にハンドルを任せ切れない僕が終始ひとりで運転すると、「あんな綺麗な山道なら運転したかつたなあ」とあとで文句を言ふ。
 
 だが、運転が好きだからと言つて、クルマに詳しいわけではない。
 もし途中で故障すれば、ボンネットを開いて電気系統をたどることもできない。タイヤがパンクしたら、たぶん独りでは交換ができない。
 
 僕たち東京電力管内に住む人間は、福島第一原発のおかげで電力をまかなひ、電気に頼る生活を享受してきた。
 オール電化などということばも不自然でなく聞かれるやうになつたほど、暮らしの中の電気は、蛇口をひねれば水が出るのと同じくらゐ、至極当然のことと考へてゐた。
 
 こんどの原発事故は、それがまつたくの虚妄であつたことを白日のもとに晒した。私たちはいざ地震などで原発が事故を起こしても、管理者たちの力で修理し、コントロールし、すぐに旧に復して、電力供給は維持され、いまの豊かな生活レベルが継続できるものと信じ切つてゐた。
 
 昔、といつてもさう遠い昔ではない。私たちが小学生のころ、ご飯は釜で炊き、熱源は薪だつた。その後、石炭になつた。
 風呂も同様だつた。風呂からあがるには少しぬるいと思ふと、風呂釜にシャベルで石炭を少々追加した記憶がまだ生々しく残つてゐる。
 
 そのころなら、釜の修理は業者に頼めば簡単だつたらう。くべる薪がなければどこかで木片を拾つてくることもできた。事故は容易にリカバリーできた。
 
 福島原発の事故はいまだ先が見えない。「工程表」なるものが東電から示されたが、あれは行き詰つた菅政権が国会対策として無理やり東電に作らせたもので、これまでの政府・東電の動きから見て、あのとほりに運ぶとはとても信じられない。
 
 つまり、私たちはいざ事故といふとき、自分たちの能力では修復できないやうな装置に依存して、現在の「豊かな生活」をたのしんでゐるのである。それは、架空の「豊かな生活」といふしかない。
 
 家人に「車に乗るな」とは言へない。言つても乗るだらう。便利であることは間違ひないのだから、これまでの生活をすぐに切り替へるのは無理だらう。
 
 しかし、現代人はさういふ危なつかしい基盤の上で、危なつかしい生活を送つてゐるのだといふ自覚だけは持たなければならないことを、今回の原発事故は教へてくれた。
 
 小さなころ、母親からよく言はれたことばを思ひ出す。
 「身の丈に合つた暮らし」をしなさいよ。でないと、いつかしつぺ返しに遭ふからね。
 
 
 1年ほど担当をしてもらつた美容師の男から、会計のとき、小さな紙片を手わたされた。
 
 事情で東北の田舎に帰ることになつたので、けふでお別れだといふ。いつもの笑顔はなく、どことなく緊張してゐる。
 
 「短い時間でしたが、毎回いろいろなお話を聞かせていただき、大変勉強になりました。どうぞお体に気をつけて、これからもご活躍ください」
 ボールペンで書いてある。
 
 僕が美容院へ行くやうになつたのは、リタイアして「自由人」を意識するやうになつてからである。思想も行動もファッションも自由。たとへば、もうどんな髪型だらうとカラーだらうと、だれからも文句は言はれない。
 
会社の看板を背中に負うてゐてはできなかつたことをやつてみよう、と手始めに髪を金色に染めた。
 
 毀誉褒貶相半ば、ならいいが、家人も含めて大方は「白髪みたいで、老けて見えるわよ」と評判は良くない。さらに面倒なことには、染めた髪は最初は色がきれいに揃ふが、1か月もすると内から褪色しはじめ、黒い地の髪が目立つてくる。
 
 「いや、それは残念だね。田舎に帰つて何をするの」
 僕はなにげなく尋ねた。
 「岩手に両親がゐるのですが、こんどの震災で家を流されまして――」
いまだに近所の学校で避難生活をしてゐるのだといふ。
 
「心細いから帰つてきてくれと言はれましてね。親は海岸通りでコンビニをやつてゐたのですが、津波で家も店も土台を残して跡形も無くなりました。僕が帰つて行つてもどうなるものでもないんですが、六十過ぎの親だけを避難所に放つてはおけませんから」
 
 彼はいはゆるイケメンとは言へないが、美容師としての腕はいい。指名客も付いてゐる。将来は自分の店を持つ夢を抱いてゐたにちがひない。
 
 被災地に単身戻つたところで、無職となつた両親を養ふために何ができるか分からない。それでも家を失つた親を放つてはおけないから田舎に帰るのだといふ覚悟には、悲壮なものがある。いはば勝算なき賭けである。
 
 いま、東北の被災地域には彼のやうなのつぴきならない事情をかかへた人間がいつぱいゐることだらう。
 
 「親孝行して、将来、また自分の腕が生かせるやうになるといいね」
 「分かりませんけど――」
 別れの握手を交はしながら、僕はいま染めてもらつたばかりの軽佻浮薄な金髪が恥づかしかつた。
 個人的に、暗黒の1カ月だつた。
 自治体が実施してゐる「住民健康診査」といふ名の無料の健康診断を受診したのは1月25日である。最近行くやうになつた近所の医院で受けた。
 
 これまでは年に一回、夫婦で帝国ホテル別館のITクリニックで1泊ドックを受けてゐた。どちらかといへば帝国ホテルに1泊することが楽しみなドックだつた。
 
 リタイアして、会社の健保組合からの補助金が出なくなり、ドックは1人7万円もするのでどうしようか迷つてゐたところに、「住民健康診査」の知らせが来た。
 
 「診査結果」は地域の医師会に送られ、そこで一括して診断が下される。
 3月1日、医院に行くと、
 「胸のレントゲン写真に小さな影があります。ほら、ここです」
 「はあ…」
 「精密検査を受けてください」
 「肺がんの疑ひといふことですか」
 「さうとは限りませんが、何かできてゐるといふことです」
 
 医者の前だと血圧が10ほど高くなる「白衣恐怖症」だ。 「当面、経過観察で様子をみるといふのはどうでせうか」 と恐る恐る尋ねた。
 「いや、すぐ精密検査を受けてください」
 
 一気に頭は「肺がん」でいつぱいになつた。 家に帰つて、ネットで「肺がん」「肺がん 精密検査」「肺がん 自覚症状」などを検索する。
 
 男性のガン死の1位。自覚症状はない。他の臓器への転移が早い――暗い情報ばかりだ。
 
 昨年の文学賞受賞以来、初めて某出版社の少し「アテ」のある400枚の小説も書きかけである。いまや会社勤めではないし、女房子供にも心配はいらないが、今すぐ闘病生活に突入するのはイヤだな、と思つた。
 
 その10日後、東北大震災が発生した。テレビで見る津波の猛威は、この世のものとも思へなかつた。家も車も、おそらく人も、真つ黒い津波に消えて行つた。
 
 福島原発とは200キロほど離れてゐるが、放射能汚染は怖い。本格的なメルトダウンとなれば、水道水程度の被害でとどまるはずはない。
 
 大震災を報じるテレビを見てゐて、家族のゐない時、不覚にも涙を流した。
 新聞記者として40余年、ずいぶん悲惨な現場も見て来たが泣くことはなかった。
 自分の体に起つてゐる命の破損と、大震災による破壊の光景が、どういふわけか心の中で一つにつながつた。
 
 自分と世界の破滅が同時進行で進んでゐる、といふ実感は奇妙なものだつた。3万人近くも一瞬に命を落とすのだから、自分がこの先、肺がんで死んだところで何のふしぎがあるだらう。
 
 別の病院でCTの精密検査を受けたのは、地震から4日後の3月15日だった。
 器械に体を横たへながら、このところ嫌でも知らされる知識で、いま6900マイクロ・シーベルトの放射能を浴びてゐるんだなと思つた。
 
 昨26日、精密検査の結果説明を受けに病院へ行つた。
 「何でもないですね」
 と40代くらゐの医師が笑つた。
 「歳をとると、肋骨から少々軟骨がはみ出すことがあるのです。CTに何も映らないから、レントゲンの影は軟骨の影です。問題ありません」
 
 僕の暗黒の1カ月は終はつた。
 「世界の破滅」から取り残された気がして、妙な感じだ。