戦後10年もたたない昭和28年(1953年)ごろ、ある作家が書いた文章です。
 
 先刻、まだ残照のあるうちに、若者をのせた太平丸は歌島港にかへつた。若者は船主ともう一人の朋輩と一緒に、毎日このエンヂンのついた小舟に乗つて漁に行くのである。
 港へかへつて、組合の船に漁獲を移して、濱へ舟を引きあげてから、燈台長の家へもつてゆく平目を手にさげて、若者がひとまづかへらうとして濱づたひに来たときに、暮れかけた濱は、まだ多くの漁船を濱へ引き上げる掛声でさわがしかった。(下線、改行は無為庵)
 
 「歌島港」とあるので、当時、この話題作を読まれた方はおわかりかもしれませんが、三島由紀夫の「潮騒」の一節です。
 
 とくに恣意的にとりあげた一節ではなく、五百枚ほどかとおもひますが、
 一冊の長編小説の、ごくありふれた一部分にすぎません。
 
 一読して感じるのは、漢字が少なく、ひらがなが多いといふことではないでせうか。
 勝手に下線を引かせてもらひましたが、1行目の「のせた」「かへつた」に代表されるやうに、ふつうなら漢字で表記することばが、かなりひらがなで書かれてゐます。
 
 いまならパソコンがすぐ漢字に変換してしまふので、わざわざ「無変換」でひらがなに戻す作業をしなければなりませんが、当時、もちろんワープロもパソコンのワードもありません。
 
 三島由紀夫はふつうなら漢字で書くべきことばを、わざとひらがなで表記したのです。
 三島が師とあふいだ川端康成もさうですが、そのころの叙情的な作品にはひらがなの多用が目につきます。ひらがなのほうが美しく、情趣に富むと考へられてゐたからでせう。
 
 現代文はどうでせうか。
 スペースの事情がある新聞や雑誌の影響からか、現代文には自分では書くのも容易でないやうなむづかしい漢字が登場します。パソコンが変換してくれるので楽だからです。
 
 文章の字面からいふと、漢字とひらがなの割合は、漢字3に対しひらがな7の比率だと美しく見える、といふ説があるさうです。
 冒頭の引用部分も、数へてみると、全文字数187字のなかで漢字は60字。比率にして32.1%です。
 
 平安のむかしから、日本固有の文学の多くがひらがなで綴られてきました。ひらがなの優美さ、情緒、あぢはひが評価されてゐたからでせう。
 
 オフィスの文書や新聞などは仕方ないにしても、わたしたちが個人的に書くメール、手紙、日記、ブログでは、もつとひらがなをいつぱい使つてみるのも面白いかもしれません。
 
 「ずいぶん小さな携帯ですね」
 鮨屋のカウンターでメールの返信を打つてゐたら、若い板さんが僕の携帯電話をめづらしさうにのぞき込んだ。
 
 相手は注文があればすぐ握らなければならないから、その手に僕の携帯を手わたすわけにはいかない。目の前に差し出して見せる。
 
 「こんな小さなのがあるのですか。初めて見ましたよ」
 「世界最小だよ」
 「へえ、最近出たのですか」
 「さうだな、十年くらゐ前かな」
 
 十年前かどうか正確ではないけれど、21世紀になつて初めのころだつた。ソニーの「premini-S」といふ機種で、全長9センチしかない。幅は4センチ。どんなに手の小さい人でも、てのひらにすつぽりと収まる。
 
 発売当初は、ドコモの販売店に数時間並ばなければならないほどの話題の携帯だつた。
 
 しかし、なにしろ9×4センチ。画面は小さい。数字を押すボタンも米粒ほどしかない。カメラの機能もない。
 
 発売して数年すると、携帯電話にパソコンとかテレビとかの多機能が要求される時代が来て、急速に人気はしぼんだ。
 
 僕は頑固に使ひ続けた。
 僕が携帯に求めるのは、主として電話とメールの機能である。極小のボタンも慣れれば打てる。iモードで得る情報はたしかに見にくいが、それほど頻繁に使ふわけではないからさほど困ることではない。
 
 なにしろ小さいのが魅力である。通話をしてゐても、はたから見ると片手で耳を掻いてゐるやうにしか見えない。昔のジェームズボンドの秘密兵器みたいである。
 
 年に数回も新機種が出るやうになり、最近はスマートフォンが人気の時代になった。だが、僕は「premini-S」に満足してゐる。といふより、これを使つてゐて特段、不自由を感じない。
 
 ドコモからは毎月の料金通知と一緒に、「来年でムーヴァは使へなくなるので買ひ替へを」といふ執拗な宣伝が来る。
 
 時代の流れといへばさうなのだらうが、十分満足してゐる機種を変へろと言はれても迷惑な話である。あなたの奥さんの顔はいまの流行りでないから、別の女性に変へろと言はれてゐる気分だ。
 
 まあ、新機種に変へれば変へたで、すぐまた新しい携帯に満足するに違ひないのだけれど。所詮、その程度の話である。
 
 仕事の関係で親密になつた通信社記者の娘さん夫婦が、フランス政府手配の飛行機でフランスに疎開したのは、大震災から一週間後の3月18日だつた。
 
 「18日の午前十一時までに羽田空港に来れば、エアフランスの特別便に乗れます」
 
 フランス大使館からの緊急電話をもらつて、娘さん一家は飛び乗って行つた。友人夫婦も誘はれたが、老夫婦は同行しなかつた。
 
 友人の娘さんはもちろん日本人で、在日フランス大使館に勤務してゐるときにフランス人の旦那さんと知り合つた。横浜の友人の家に近いマンションに住んでゐたが、旦那はフランス国籍のままだつた。
 
 一家が乗つたフランス政府差し回しの飛行機は、当時、成田空港が使へないので羽田から関西空港へ飛び、ソウル経由でフランスへ向かつたといふ。フランス政府はこのために二機用意したさうだ。
 
 福島原発の事故を過大視したフランス政府の、「風評」に煽られた行き過ぎた措置、といふのが通り相場になつてゐるが、果たしてさうか。
 
 僕は「風評」といふのは一応信じるに値する情報だと思つてゐる。
 僕が四十余年過ごしたマスコミ界では、特ダネの萌芽は常に「風評」だつた。
 
 永田町での取材が長かつたが、政界ではニュースの発端は常に「風評」である。首相に近いAが最近、野党の有力者たちとしきりに赤坂で密会してゐる。首相と同じ党所属でありながら、首相の政敵と見られてゐるBは、近々あるポストを餌にされて、電撃的に首相と手打ち式を行ふらしい。
 
 こんな「風評」は永田町では毎晩のやうに飛び交ふ。「またガセだよ」と多寡をくくつてゐると、後日、朝起きたらその話がライバル紙の一面トップを飾つてゐたといふやうなことはザラだ。 「風評」の中にも真実は潜んでゐる。
 
 フランスへ疎開してしまった友人の娘さん一家は、長男がこの四月、横浜の小学校に入学する予定だつた。フランスでは就学してゐないだらう。
 
 のちのち本人および家族には教育面で面倒なこともあるだらうが、いま、日常の生活の中で○○マイクロシーベルトなどといふ数値に神経をとがらせなくていいのは確かだ。野菜も魚も気遣ひなく食べられる。
 
 今の段階ではなんとも言へないが、その子供は三十年後、四十年後に発がんなどの恐怖におびえなくて済む。
 
 風評被害などと聞くと、「風評」はいかにも悪の源泉のやうだが、「風評」にも一部の真実はある。無視するのは自由だが、信じる価値がないわけではない。