「彼はおとなしくて、いいヤツだ」
 オフィスでさう言はれる男が、実はただの内気で、何も考へてゐなくて、無気力な男だつたりします。
 
 ミーティングでは上司にいつも異を唱へ突つかかつてくる「扱ひにくい男」が、やがて会社の中堅となる実力をみせたりします。
 
 大震災のあと、暴動も起こさず、略奪行為にも走らず、避難所でおとなしく水や食糧の配給を待つ被災者の姿が、「日本民族の国民性であり、道徳性の高さのあらはれ」と海外から称賛されました。
 
 昔から自然災害や大惨事が発生したとき、町がパニックで混乱したり、商店に押しかけた市民が集団万引きするやうなこともない。たしかに私たち日本国民は、節操と自制心にあふれた人種です。
 
 しかし、この一、二か月の日本人の沈黙は何なのでせうか。
 
 嘘も方便で「辞意表明」した総理大臣はまるで辞める気配もなく、死に体政権で政治は動かず、外交が休止状態なら経済はダッチロール状態。島国で隣国がすぐ侵略してくる恐れがないからいいものの、周辺国からは足元を見透かされ、国際社会からは「政局の安定しない国」として、アフリカや東南アジアの小国のやうな認識を持たれてゐる。
 
 張り詰めた糸のやうな、この危なつかしい状態がさういつまでも続くとは思へません。ひとたび綻びが露顕すれば、日本といふ国家はたちまち混乱と挫折におそはれ、瞬時に三等国、四等国に落ちる。
 
 私たちが海外旅行しても、「ニッポン?ああ、しばらく前まで勢ひが良かつたけど、大地震で落ちぶれた国デスネ」と侮蔑されるのがオチでせう。いくら「いい国民性」でも意味はなくなるのです。
 
 それでも、国民はデモひとつ起こさない。中国や中東のエジプト、リビア、シリアなどのやうに、「反体制デモ」が政権にお灸をすゑたり倒したりする気配はまるでない。
 
 日本人の家庭の冷蔵庫は豊かです。お腹いつぱい物も食へます。だが、満腹感のうちに安眠できればいいといふものでもないでせう。
 
 日本人の良識と気力は眠つてしまつたのでせうか。
 危機は目前にあります。いま意思表示しなければ、私たちは何もしないうちに、「だらしのない国・ニッポン」になつてしまふのです。
 
 駅の長い上り階段のわきのエスカレーターが、無情にも停止してゐる。電車に乗れば冷房が効いてゐない。
 
 ホテルへ入ると夕方のやうに暗い。ロビーの椅子で人を待つにも、この暗さでは本も読めない。
 
 「節電の夏」の号令のもと、不愉快な夏がはじまつた。
 
 いま、「節電」がすべてに優先する。「節電のためだから」といへば、人に会ふにはどう考へても失礼なファッションが許されると思つてゐる。レストランも便乗して照明を落とし、電気代を節約するもののメニューと値段は前と同じである。
 
 駅のエスカレーターを停められて、車いすの人はいまどうやつて街に出かけてゐるのだらう。「節電の夏」でいちばん迷惑するのは、身障者や老人や乳幼児、つまり肉体的弱者だ。
 
 このあいだまで、「弱者には優しく」と声高に叫んでゐた人たちは、「節電」の金科玉条のもと、口をつぐんでしまつた。
 
 電力会社が流す、本当か嘘かも分からない「電気予報」で、「今日の電力需給率」なんて数字を見ると、大停電が起きては困るとびくびくして、みんながクーラーの設定を28度に上げる。
 
 テレビは「無駄なコンセントは抜いて」などと言ふが、「つまらないテレビは消して」とは絶対に言はない。
 
 節電するのは結構である。近年、人間生活に対して「小さな親切、大きなお節介」をする、どうでもいいやうな電気製品が多すぎると思つてゐたから、電気の使用を抑制するのは賛成だ。
 
 また、節約、倹約、節電などと言はれれば道徳的に文句のつけやうがないし、みんなで多少の苦難を耐へるのも、人として大事なことだと思ふ。
 
 そのためには、足の不自由な人にも、白内障気味で暗がりに弱い人にも、体温調節が下手で暑い車内に苦悶する人にも、健康な人と同じく、ここしばらくは我慢してもらはなくてはならない、といふのも分からないではない。
 
 だつたら、ふだんから「弱者に優しく」などといふ美辞麗句を大きな声で言はないことだ。偽善のことばを大きな顔して叫ばないことだ。
 
 うわべだけの優しさは、すぐ化けの皮が剥がれる。わたしたちの社会の「弱者に優しく」精神は、所詮その程度のものだったのである。
 
 「節電の夏」のキャッチフレーズを聞くと、ぼくは第二次世界大戦中に流行つたといふスローガン「欲しがりません、勝つまでは」を思ひ出す。
 
 仕事以外の日は日課にしてゐる散歩に出かけようとすると、ぽつぽつと落ちてきた。この季節だからやむをえない。
 「傘はささなくていいのですか」
 背後から家人が言ふ。
 「それほどの雨ぢやない。大丈夫」
 「さうですか?いまどきの雨は濡れないほうがいいやうですよ」
 さう言はれると気になつて、自慢のフォックスの傘をとりに玄関まで戻つた。さすことはしないが、大降りになつたときの備へである。
 昔から多少の雨ならば顔に受けてあるくのが好きだつた。傘は持つてゐても開かない。額や頬に雨滴があたるのが心地よかつた。
 夜、「NHKラジオ深夜便」のあひだにはさまる午前一時のニュースを十分間聞いて寝るのが習慣になつてゐる。その直前に「世界主要都市の天気と気温」といふコーナーがある。
 どうやら一時の時報前の時間調節のコーナーでもあるらしく、「ソウル、北京、ニューデリー……」ともの凄い早口で世界を移動する人もあれば、「ロンドンでは」とか、「モスクワは」などと、天候と温度の情報だけでのんびり世界の都市を旅させてくれるアナウンサーもゐる。
 世界の主要都市の名前を耳にすると、すでに睡眠準備に入つた頭のなかに、一度か二度行つたことのある町の光景がぼんやりとよみがへる。
 また行きたいな、でもこんどは出張ではないから早起きしなければならないツアー旅は疲れるな、と思ふ。
 「パリは雨。最高気温は十五度、最低気温は十度」
 などと聞くと、新緑の街路樹の興趣がうかぶ。
 日本には古来、「遣らずの雨」とか「春雨ぢや、濡れて参らう」などと、「雨」にまつはる風情が色濃くあつた。(若い人むけに野暮な解説をするなら、「遣らずの雨」とは愛する男を帰さないやうに折よく降つてくる雨のことである)
 「けふの雨からは、毎時0・2マイクロシーベルトの放射能が検出されました」
 こんなニュースが流れると、ぼくも持参した傘を開きたくなる。「粋であること」が「危険であること」に優先した時代がうらやましい。