「あたし、孤独なんです」といふ女に、本当に孤独な女はゐない。
あたかも、「あたし、独り暮らしなの」といふ女に、ぼくの知る限り、本当の独り暮らしがゐた験しがないのと同じだ。実際に独り暮らしの女は、さういふことを公言しない。
最近、ひまにまかせてツイッターをのぞくやうになつた。そこに展開してゐるのは、孤独な人間たちの、にぎやかな悲鳴である。
テレビ放映中の「なでしこジャパン」のゲームへの感想、その反論、走り出した野田政権へのいちやもん、テレビで紹介された料理のレシピへの疑問、名も知らぬ芸人の噂話の受け売り……ブログやフェイスブックと同様に話題は種々雑多だが、ツイッターは短文で済むだけに、「いま起きた」の報告から、天下国家、芸術、人生論など多彩で、表現は短絡的、断片的で露骨になる。
全部が全部とはいはないが、読むに値するつぶやきは、まずない。そこを領してゐる雰囲気は、一種のみだらな排泄であり、憂さ晴らしであり、知つたかぶりであり、唾棄だと言つていい。
しかし、ツイッターは止まない。みんな懸命に投稿してゐる。
繁華街の横丁から、メーンの通りの人の流れに溶けこむやうに、みんなが何かを叫び、反応を求め、他人との架空の接触を希求する。流れに乗らうとする。
形の上では、だれもが確かに「独り」であることは間違ひない。だれもが個々の端末機から、個々に悲鳴を上げてゐるのだから。だが、これは一種の遊戯ではないのか。「孤独ごつこ」ではないか。
「わたし、いつもひとり。ーー寂しいの」
「さう。ぼくも同じだ。寂しい。ーーでも、かうしてネットでつながつてゐるから生きられる。孤独を耐へて行かう」
ツイッター同士、悲鳴を交換して、さう慰め合つてゐる感じがする。
目に見えない相手につぶやき、論争し、慰め合つたところで、それは所詮、いつときの慰撫にすぎない。遊びにすぎない。
さういふ「孤独ごつこ」に身をやつしてゐるうちに、自分が本当の意味で「独り」であることを正視しなくなる。真摯に孤独と向き合ふことを避けるやうになる。
だから何かの拍子に、ふと微小な不幸に襲はれ、「自分が本当に独りだ」と気づいたとき、電車に飛び込むしか手がなくなる。
